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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

山邊の道の万葉歌碑② ~海石榴市~

2018-05-04 22:55:22 | 文学をたどる
 大和川から、東海自然歩道の標識に従って集落の中をしばらく歩いていくと、海石榴市と書かれた説明板がある。この辺りが海石榴市と呼ばれた場所で、万葉の時代よりも古くから、初瀬道、磐余道・山田道、大坂越えの道など当時の幹線道が、この地で交わり、いわゆる「八十衢」となっていて、交易の中心となり、海石榴市と呼ばれる市が立っていたと言われる。
 また、こういった市では、歌垣と呼ばれる男女が想いを歌で伝え合う行事が行われていた。有名な話では、「日本書紀」に平群鮪と武烈天皇とが物部麁鹿火の娘、影媛をめぐって争った歌垣の場が海石榴市であった。
 とにかく、春と秋の季節に男女が集まって、歌を競って結婚の相手を求めていた時代だったのである。まあ、今でいえば合コンみたいなもんなんだろうね。
 海石榴市にある歌碑には、「紫は 灰さすものぞ つば市の八十のちまたに 逢へる児や誰」と作家の今東光さんの筆で染筆されている。

 

 歌意は、紫染めには灰を加えるものだ。海石榴市の八十の辻であったあなたの名は何というのかという意味である。古来、女性に名前を聞くということは求婚を表している。歌垣で見染めた女性に、結婚したいから名前教えてということで、名前を教えるということはそれだけ大事なことだったのだろう。

 ちなみに、この歌には、一対になっている歌がある。
 「たらちねの 母が呼ぶ名を 申さめど 道行く人を 誰と知りてか」というものである。お母さんが呼ぶ名前を告げもしようが、道の行きずりの人をどんな人と知って告げるのでしょうという意味になるらしい。
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 はじめが男の人で、後が女の人の歌である。まあ、簡単に名前をつげてもね、軽く見られるしねという感じですかね。ともに作者不詳なので、この辺りでうたわれた民謡なようなものだったのかもしれない。

 

 この歌碑には、初めの歌しかない。桜井市のホームページを見ると、答歌の方は、今東光さんは、同じく作家の宇野千代さんに揮毫を希望されていたらしい。ただ、残念なことに、この希望は実現されずに終わってしまった。

 この海石榴市が、山邊の道の起点ということになっており、いよいよスタートということになる。また、近くに枕草子などにも出てくる海石榴市観音堂というのがあるだが、気が付かなかった。残念。
 このあとは、山邊の道を辿って、金屋へ。

 

 金屋では、「金屋の石仏」と呼ばれる2体の石仏が収蔵庫に中に収められている。向って左が弥勒菩薩で、右が釈迦如来だと言われている。作成された時代は平安時代から鎌倉時代の間ではないかと言われている。右側の石仏は、古墳の石棺の蓋を再利用して造られたものだとのこと。もともとは、雨ざらしにされていたのだが、好事家などが拓本などを取っているうちに痛んできたため、現在は、収蔵庫の中に鍵をかけて大事に保管されている。

 

 今は、果菜役で管理され、共に国の重要文化財に指定されている。

 

 かなり薄くなっているが、よく見ると衣服の襞などが非常に精緻に描かれている気がする。素晴らしい。
 また、見逃した話になるが、この収蔵庫の下にも、古墳の石棺が置かれているらしい。家型石棺だそうだ。ちゃんと事前調査をしておけばよかった。

 
 
 このあとは、山邊の道を歩きながら平等寺へ。だんだん、いい感じの道になってきた。

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