平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

原爆が戦争を終わらせたのか(5)

2007年07月13日 | 原爆が戦争を終わらせたのか
【天皇制存続の問題】

ルーズベルトは「無条件降伏」をかかげてドイツとも日本とも戦いました。「無条件降伏」という言葉は、アメリカの南北戦争ではじめて登場したと言われています。ルーズベルトは日独に対する戦争で、この言葉を再び持ち出し、アメリカの世論を戦争へと煽ったのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%9D%A1%E4%BB%B6%E9%99%8D%E4%BC%8F

しかし、敗れた敵国にいっさいの権利も名誉も認めないこの言葉は、敵方の死にものぐるいの反撃を呼び、戦争の終結を送らせました。ヨーロッパ大戦の名将で、のちにアメリカ大統領になったアイゼンハワーは戦後、ルーズベルトが無条件降伏にこだわったために、ドイツの降伏が数ヶ月遅れ、そのため死ななくてもすんだ米兵が死んだ、と批判しています。

ルーズベルトも無条件降伏の不毛さをうすうす感じていたのかもしれません。知日派のグルーを国務次官に登用したことには、彼が無条件降伏路線を変更することを考えはじめていたことがうかがわれます。

ルーズベルト大統領はアメリカ国民の圧倒的な信頼感をかちえていました。そういうルーズベルトであれば、たとえそれまでの反日宣伝を翻し、ソフト・ピースに乗り換えても、つまり無条件降伏を取り下げ、天皇制容認と引き替えに終戦しても、アメリカ国民はその決定に従っていたでしょう。

1944年11月7日に4期目の大統領に選出されたルーズベルトは、副大統領にトルーマンを指名していました。副大統領といっても、トルーマンはいわば飾り物で、ルーズベルトはヤルタ会談の内容もマンハッタン計画(原爆開発計画)のことも、トルーマンには教えていませんでした。重要な案件は自分が判断すればいい、と考えていたのです。

1945年4月12日にルーズベルトが脳卒中で急死、トルーマンが大統領に昇格しました。トルーマンは大統領としての心の準備はまったくできていませんでした。もちろんルーズベルトほどのリーダーシップもありませんでした。そういう人物が、日本との戦争の終結という難しい課題を与えられたのです。彼はルーズベルトの無条件降伏路線をそのまま引き継ぎます。

トルーマンが国務長官(外務大臣)に選んだのが、バーンズです。バーンズはトルーマンよりも5歳年長で、上院議員としてのキャリアもトルーマンよりもはるかに長かったのです。トルーマンにとって政界の大先輩です。トルーマンがバーンズの意見に強く影響されたのはやむをえませんでした。ポツダム宣言はバーンズの影響のもとで案文が決まりました。

ポツダム宣言のそもそもの起源は、ソフト・ピース派のグルー国務次官にあります。グルーは1932年に駐日大使となって来日し、1941年の日米開戦まで日本に滞在していました。彼は日本の政治、軍事、文化、国民性をよく知っていました。とくに昭和天皇が日米戦争に反対であったことを知っていました。日本を愛するグルーは、アメリカの空爆によって東京をはじめ日本の大都市が焦土となりつつあることに強い衝撃を受けました。グルーは、戦争を早期に終結するために、立憲君主制の天皇制存続の保証と引き替えに日本に降伏を促す「対日宣言」を出すことを構想しました。

グルーの案文はスティムソン陸軍長官に手渡されました。やはり知日派でソフト・ピース派のスティムソンはグルーの案文をほとんどそのまま生かした案文を、ポツダムに向かうトルーマンに渡しました。ですから、この案文には天皇制存続を保証する文言が含まれていたのです。

しかし、トルーマンに同行してポツダムに行ったのは、スティムソンではなく、ハード・ピース派のバーンズでした。そもそもトルーマンは、大統領になる前は、アメリカの国内政治家で、グルーやスティムソンのような広い外交的視野も日本に関する知識も有していませんでした。そういうトルーマンは、アメリカ世論の対日憎悪を体現するバーンズに完全にコントロールされることになりました。

ポツダム宣言の天皇制に関する箇所は、

「前記の諸目的が達成され、かつ日本国国民が自由に表明する意思に従って平和的傾向を有し、かつ責任ある政府が樹立されたときには、連合国の占領軍は、直ちに日本国より撤収する。」

と曖昧化されました。「日本国国民が自由に表明する意思」ということであれば、国民の意思によっては天皇制廃止も可、ということになります。このことが、日本政府内で議論を呼び、結局、ポツダム宣言の受諾が遅れ、その間に原爆が投下されることになったのです。

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