大好き!藁科川

静岡市の西部を流れる清流・藁科川の自然・文化の魅力やイベント等の情報をお届けっ♪

畑色と大平見の由来

2011年03月16日 | 地名の由来
藁科川上流の畑色は、スカッと眺望の良いところで、向かいの東側の突先山から天狗岳へと連なる山々が一望に見渡せます。藁科川沿いには、富厚里にダイダラボッチという山の名前が残るなど、数々の言い伝えをこの地域に残していますが、畑色にもこんな伝説が残っています。


========================

「畑色と大平見の由来」

昔、二つの大きな山が向かい合い、そびえ立っていました。
一つの山には、ダイラボッチという男が住んで居り、こちらの山にはミコシという、それはそれは大きく恐ろしい男が住んでおりました。
その恐ろしさというと、上から見下ろすと小さく見えるが、下から見上げると天まで届くのではないかと思うほど大きいという不思議な男でした。
そして、その男の目は太陽に近いせいかギラギラと不気味な光を放ち、向かいのダイラボッチの住む山をしじゅう睨んでおりました。ダイラボッチは、毎日毎日矢の様に刺さる目の光におびえ、不安の日々を送っておりました。
そんなある日、とうとうたまりかねたダイラボッチは「よし、こっちから石をなげてやれ」と回りにある石を、体の力をふりしぼり向かいの山めがけて投げ続け、とうとうその大男をやっつけました。
ダイラボッチは、長い間続いた不安の日々からやっと解放され喜びいさんで、その山の頂きの一つに旗をかかげました。
それが今の畑色であり、石のまとがはずれとんでいった所を栃沢と言い、ミコシのいた山を大平見と言うようになったそうです。
坂ノ上 吉野らく

========================

「ふる里わら科八社~第三集~」
(大川寿大学講座受講生一同・静岡市中央公民館大川分館、1981)

『大川の屋号と屋印』

2011年03月15日 | 図書文献
地元の方とお話をしていて、「スケダイ」「ゴンシチ」「ロクザ」など、古めかしい名前のようなものが出て来て「???」と首をかしげることがありました。

「屋号」です。

藁科川上流・大川地区では、今でも普通の日常会話に、それも比較的若い世代でも、家や場所を言い現わす時に屋号が使われています。集落に同じ名字の方が多く、住所表記もない昔のこと、屋号で呼んだ方が、名前も場所も、場合によってはその家の格式やルーツなども瞬時に伝わり便利なものだったのでしょう。

その屋号が一冊にまとまった本を藁科図書館に見つけて、びっくりしました。
こんなご時世で、個人情報がまるだしの部分がありますが、地域の歴史を知る上でとても貴重な資料です。この本を読んでいると、自分のルーツも知りたくなります。

正体見たり・・・!?

2011年03月14日 | 祠・石碑
遠目でずっとあれはなんだろう?と思っていました。田んぼの真ん中に、どしんと立った石。藁科川支流の黒俣川沿いにあるきよさわ里の駅さんより先の県道210号線との分岐のところにある田んぼの中にこの石があり、最初はちょっといびつな形をした石碑かなと思っていました。はじめて近づいてみると、どうやら灯篭のよう。調べてみると、昔田んぼの害虫だった蛾などを灯りをともすことでおびき寄せるためにあったのだとか。今はもう使われている様子はありませんでしたが、こうして残してあることに地元の方の心遣いを感じました。

彩り豊かな山里を目指して

2011年03月13日 | 行事レポート
藁科川上流の栃沢で、聖一国師が京都に建立した大伽藍・東福寺から地元地域の方が持ち帰り大切に育ててきた苗を、町内のアチコチに植え替える「東福モミジを植えよう」を開催しました。地元栃沢内外から30名の参加者が集まり、30年後の彩り豊かな山里を目指して、移植作業に汗を流しました。

アマゴの釣り堀

2011年03月12日 | 川遊び
3/1にアマゴ釣りが解禁になりましたが、今日はずっと気になっていてなかなか立ち寄ることのできなかった、藁科川支流黒俣川にあるマスの釣り堀に、きよさわ里の駅に立ち寄ったついでに足を伸ばしてみました。安倍藁科川漁業協同組合が運営する静岡マス釣場(葵区相俣154-1)は、川釣りやつかみ取り、バーベキューなどが体験でき、遊漁料は大人1日3,000円、小学生以下の子ども1,500円で、釣り堀は4匹捕まえることができて1,500円、つかみ取りは3匹で1,200円です。木曜日が定休日で、年末年始以外は営業しています。営業時間は9:00~16:00まで。竿も貸してもらえるから便利ですよね。すぐそばを流れる渓流は水深もあって、子どもたちが飛び込んで遊ぶに絶好の場所でしたが、ダメなんだろうなー^_^;

山の時間

2011年03月08日 | 自然&生き物
先月に引き続き、地元の友人の山に入らせてもらい、椎茸のほだ木づくりを行いました。倒れていた4本のコナラの木を、チェーンソーで玉切りし、程よい日陰の整地した場所に運んで、ドリルで穴をあて、菌を打ち込むという作業でしたが、友人の身軽で力強い身のこなしにはほど遠く、すでに二の腕がパンパンです。けれども静かな森の中での時間は、とても心地よく気持ちのよい汗を流すことができました。

慶応時代のまりつきの唄

2011年03月07日 | 料理・食べ物
今のようなゴムのボールではなかった昔は、立ち膝でまりをついていたということを良寛さんの伝記を読んでいて知りました。

藁科川上流の大川地区に伝わる、下記のまりつき唄も、どのような風景の中で、どんな節回しでうたわれていたのかをとても知りたく思います。

慶応の元号は、明治の前で1865~1868年とのこと。今から150年前の子どもたちがうたっていた唄です。



===================

「慶応時代のまりつき唄

おらが婆々さん四十九で信濃の塩屋に嫁入り
前歯二歯にお歯黒つけて
白髪三ひづに さしぐしさして
なんの婆々さんおしゃれとゆたら
緑の道なら歩かなにゃならぬ
そんな婆々さん焼餅好きで
七つ焼かせて 六つまで食べて
一つ残して袂に入れて
馬に乗る時 ストンと落とし
拾うははずかし 捨てるおしし
どび上がれ はね上がれ焼餅

坂ノ上 吉野らく

===================

「ふる里わら科八社~第二集~」
(大川寿大学講座受講生一同・静岡市中央公民館大川分館、1981)

豪快!清沢てんぐ流釣り道場

2011年03月06日 | 川遊び
まずは川の本流の下流側に腰まで水につかって網を貼ります。そこにアマゴやマスを放します。そしてそれを釣ります・・・なんと流れている川を天然のイケス状態にして、そこで釣りを体験しようというのですから、なんと豪快な釣り道場!



このイベントを主催したのは清沢てんぐの会さん。地域の子どもたちを集めて、月1回のペースで自然や農体験などを行ない、子どもだけでなく大人自らも楽しんじゃおというとても素敵な会なのです。




釣った魚はその場で塩焼きにして食べちゃおうというのはもちろんのこと、竹にご飯をつめて火にかける竹筒ご飯、そしてこれまた釣った魚を野菜とオリーブオイルにまぶしアルミホイルでくるんで焼くホイル焼きもまた豪快。たのしんでるお父さんたちの姿が印象的。



藁科川支流の黒俣川、久能尾手前の川辺で、我が家の娘たちもまた豪快に遊ばせていただきました。


宮島のなぞ

2011年03月05日 | 言い伝え&伝承
藁科川上流の和田橋を渡り、大川地区・坂ノ上の集落に抜ける手前に「樅の木」というレストランがある辺りが、小字・宮島と云う地区です。現在は分譲などが行われていますが、この地には金銀財宝が眠っているという言い伝えがあるそうです。

===================

『宮島のなぞ』

朝日さす、夕日かがやく、びんかの下に、うるし千たる、朱千たる。・・・坂ノ上の入口、宮島というところに、むかしから伝わるこのことばには、いろいろな風評があります。

むかし、落ち武者が隠れ場として、。そこに住みつき、沢山のたから物を土中深く埋めたとか、又なぞの文句を子孫に残したのが、そのままでいるとか。その場所は雑木林のそばで、そこを歩くとポンポンと、不思議な音が響くというのです。

村の人達は「ここに間違いがないから掘ってみよう」と何度か話題になったことは、ありましたが、誰も掘り起こした者は、ありませんでした。以前その近くの土地を開墾した時、土器の一部らしい物が出た事実と思い合わせますとあるいは、この言葉の意味も、何かがあるように思われるのですが、今では宅地造成ですっかり地形も変わってしまいました。故に、その宝物は、永久に日の目にあう事もなく、なぞの言葉と共に人々から忘れされられようとしています。   おわり

坂ノ上西組 中村治

====================

「ふる里わら科八社~第一集~」
(大川寿大学講座受講生一同・静岡市中央公民館大川分館、1980)






藁科川流域の地質

2011年03月04日 | 自然&生き物
植生の基盤であり、土砂災害の多かった藁科川上流の歴史を考える上で土壌に対する理解は欠かせない項目です。なかなか日頃目に出来ない地層や地質ですが、藁科川上流の山側の林道を走ると、所々で露出した土壌に出会うことがあり、今は秩父帯と呼ばれている「秩父古層」の赤茶けたもろい砂泥質の土が観察できます。

記録として、以下に専門書に載っていた藁科川流域の地質について引用します。
参考、「安倍川流域の地質について知る

===================

『地質』

藁科川流域の地質は、北北東から南南西方向に帯状分布をなす古第三紀~新第三紀の三倉層群、瀬戸川層群、新第三紀の大井川層群、高草山火山岩類が、順次西側から東側に向かって配列する。これらの地層は大局的には西から東に向かって新しい地層が重なる。それぞれの地層群や笹山構造線、十枚山構造線、及び十枚山構造線の派生断層が境界となっている。
三倉層群、瀬戸川層群は砂岩や泥岩を主体とし、石灰岩、チャート、玄武岩類等を部分的に挟む堆積岩類から構成される。これらは北北東~南南西方向の軸を持つ幾つかの褶曲構造が分布する。

====================

「藁科川渓流環境整備計画」(静岡県静岡土木事務所 H10.8.28) 

彦次三度

2011年03月03日 | 言い伝え&伝承
彦次の話のその後がありました。
下記の記事を読んで、二度ほど藁科川上流の大川地区・日向にある陽明寺のお墓に彦次をお墓を探しに出かけましたが、見つけることはできませんでした。機会があればご住職さんに聞いてみたいと思います。

====================
『彦次の墓』

水田を持たない山村の人々は、昔から終戦に至るまでの長い間、山林を伐り拓き、焼畑に雑穀を作り、主食とし、その跡地には、紙の原料となる三椏や楮を植え、又炭焼きをして現金を得て、生活を立てる山暮らしの毎日であった。
明治も末の頃、彦次山に入って、毎日山仕事をしていた人が、彦次伝説に夜な夜な悩まされていた。「今夜はなんだか胸騒ぎがする」と云う、彦次の呟きと竹槍に突刺された凄惨な夢見に、この人は日頃信心深く温厚な人で、この無縁仏を供養して成仏させてやろうと思い立ち、彦次の墓は建立された。
それからは彦次の夢に悩まされる事もなくなったと語り伝えられている。
この墓碑には「爲本性霊智菩提、明治四十四年吉日、佐藤惣藏建立」と刻まれ、口伝による丈余の黒松の根元に建立し供養されて来たが、その後この彦次山も、所有者が変わり、何時しか無縁仏となり枯枝葉に埋まり、その所在さえ判りかねる状態になって居たのを現地主が清掃し、年一回は陽明寺の住職を頼み登山供養していたが、余りにも高山で、又僻遠の地であるため住職と相談し、昭和五十三年二月、陽明寺の境内に移して供養を続け、今日に到っている。この墓の主は、萩多和城を預かっていた、土岐彦次郎その人と云われている。

日向 佐藤ウメ江

===================

引用:「ふる里わら科八社~第二集~」
(大川寿大学講座受講生一同・静岡市中央公民館大川分館、1981)

彦次再び

2011年03月02日 | 言い伝え&伝承
「彦次」に関して、別の言い伝えがありました。
藁科川上流にある大川地区・日向の萩多和城での戦いの言い伝えですが、ここに出てくる「城山城」とは、畑色に向かう橋の名前に城山橋として残こる藁科川右岸の“城山”(写真の川向うの土地)のことでしょうか?

===============================

『日向の戦い』

今、私たちの住んでいる日向を開いたのが、ひこじという男だそうで、このひこじの弟に、ひこ次郎という人がいたそうです。650年も前のことであり、あらそいが絶え間なくおこっていた時代のことです。日向の奥にも、城山城というお城がありますが、ひこ次郎は、この城山城を討とうと考えました。それにはまず、こちらもお城を築かなければならないといって、萩多城というのを築き、できあがるとさっそく、戦いを始めました。
戦いは一進一退でしたが、ひこ次郎軍の方がわずかに優勢にすすめられているように見えました。
しかし、ある夜のこと、正平八年八月十二日のことだそうです。ひこ次郎軍は、闇にまぎれて近づく城山城軍に気づきませんでした。卑怯なり城山軍。夜討ちにあったのです。その夜、萩多城は大混乱になり、翌十三日、萩多城は落城してしまったのです。日向の人々はその後、萩多城の跡を萩野平と呼ぶようになり、この戦いのため使う矢を作った場所を矢上と言いました。矢上から日向に下る道があり、途中四箇所に分かれているところがありますが、矢上辻と呼ばれるようになりました。

===============================

引用:「藁科物語第4号~藁科の史話と伝説~」(静岡市立中央図書館.2000)

彦次

2011年03月01日 | 言い伝え&伝承
近隣の山を歩いていると、途中小屋に出くわすことがあります。今はもう使われなくなっているものがほとんどですが、長期にわたって山に入り作業をしていた昔の生活がしのばれます。

そんな山の小屋を見つけると、見たいような怖いような、興味と恐怖がないまぜになった気持ちになるのは、こんな言い伝えも残されているからでしょうか?

特に、山に生えている松には霊力が宿ると聞いたこともあります。松や地名にこんな謂われがこめられているのですね。

====================

「彦次」

萩多和城跡より東北へ1.7粁程の所を「彦次」と言う。ある年の戦に敗れた「彦次」が、この山奥に逃れ、山小屋に身を潜めて、疲れを癒して何日か過ごしたが、空腹のため夜な夜な他の山小屋を襲い、食糧を奪い、人目を忍んで暮らしていた。又、一説には見つかって七人を殺したといわれ、これが七人塚
の由来とも伝えられる。一方、山作りする人々は、山小屋を見知らぬ人に奪われ、山畑に仕事にも行くことが出来ずに困り、密かに集って相談して、血判して秘密を誓い、決行の夜を迎えた。その人々が小屋の廻りに忍び寄ると「今夜はなんだか胸騒ぎがする。」と独り言を云っていたと伝えられる。小屋を囲んだ村人は、その時一斉に竹槍を突き出し「彦次」を刺し殺して逃げて帰って来た。翌朝、山に登り、小屋を覗いてみると、この前までこの村を治めていた「彦次郎殿」が串刺しになって死んでいたので手厚く葬り、この上に松を植えて墓印としたと伝えられる。これが「彦次」の地名の由来であります。

日向 森藤くに
   野中ふさ子

=====================

「ふる里わら科八社~第二集~」
(大川寿大学講座受講生一同・静岡市中央公民館大川分館、1981)