■神護寺の高雄山を望見
嵐山の有名な風景となっています寺院を拝観しました。

法輪寺、ここを拝観するにはものすごい階段を一歩一歩上る云々と記憶していたのですが、さてと久々に拝観へ上り始めますと5号館の階段よりもあっさり上れてしまいまして拍子抜けするものです。そしてこのお寺、展望台も整備していまして、これこそ京都一望です。

神護寺の高雄山を望見する嵐山ですので、真言宗人となりました考えれば納得するのですが、空海、はじめ日本史に歴史を残す高僧も参詣したという歴史を湛えまして、景色が良いというだけの寺院ではなく、長い時代に渡り京都を一望してきたという風情もくわわる。

石の階段は雰囲気があります、そして、ここは展望台の風景のすばらしさからもう少し多くの観光客が押し寄せているかとも思ったのですが、これはやはりみなさん慎重なのでしょうね、それほど混雑していません、そして感染対策考えれば、この展望台は風通しよい。

清涼寺も、天龍寺も、そう遠く五重塔は妙心寺も望見できる、石階段はそれほど高いところではなく、久々に上ってみますと知恩院の階段の方がすごい急な階段に思えてくるほどなのですが、この風景はすばらしい、一寸歩みを進めるだけで、こうした風景と出会える。

日常というものも少し工夫するだけでもこうした美しいものと出会えるのだ、こう考えますと愉快になるものです。そしてこの散策、いや参拝のさなかではあるのですが、神前婚の婚礼のりとが聞こえてきていまして、寿的な雰囲気というものも日常を華やかとします。

お寺は、しかし苦難の歴史を歩んでいます。なにしろ渡月橋がその参道であったという事は嵐山で一番目立つ場所にあるのですから、応仁の乱では西陣の拠点となり、やはりというか全焼しました。洛中からかなり隔てているのですが江戸時代まで復興できていません。

江戸時代は、なるほど天龍寺はじめ風光明媚な場所ではあるのですが、嵐山が観光地となりましたのは阪急電鉄といいますかいまの阪急京都本線を運行していた新京阪電鉄の観光開発が大きな位置づけなので、江戸時代には阪急電鉄はまだなく、静かな一角でした。

幕末、天龍寺の名をあげました点でお気づきの方も多いとは思うのですが、蛤御門の変に際して賊軍となった長州軍が拠点としたのが天龍寺です、そしてここは天龍寺を見下ろす緊要地形の一つ、ここにも長州軍が立てこもり幕府薩摩連合軍の無差別砲撃を受けている。

昭和時代になってから。伽藍の多くは再建されているのですが明治時代には廃仏毀釈の影響もありましたので思うように復興できず、なんと多宝塔が再建されたのは1937年、もう日中全面衝突が始まっている時代の再建となっているのです、もっともその後の戦争では。

太平洋戦争では嵐山は戦災を免れました、いや、金属供出のために愛宕山ケーブルカーの路線が撤去され、その後なにがあったか施設は天橋立に移設されてしまったゆえ、愛宕神社には往復五時間の徒歩経路しかのこらなくなった、意味で災難ではあるのですけれども。

災厄といえば昨今はCOVID-19です、死者数は2023年のほうが一日あたりでは2020年よりも遙かに深刻な状況となっていて、救急車のサイレンは交通事故やお餅ではなく重篤患者の救急搬送、昔お世話になった方も知事直轄部署で感染者情報分析に当たっている。

しかし、思うのはなんとかなるのだろうなあ、という淡い期待です。いや今日明日というのは当てはまりません、時間はかかると思う。それでもこの法輪寺が幾度も荒廃しつつ再建されたように、なんとかなるもので世の中はあふれている、そんな干支送りとしました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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嵐山の有名な風景となっています寺院を拝観しました。

法輪寺、ここを拝観するにはものすごい階段を一歩一歩上る云々と記憶していたのですが、さてと久々に拝観へ上り始めますと5号館の階段よりもあっさり上れてしまいまして拍子抜けするものです。そしてこのお寺、展望台も整備していまして、これこそ京都一望です。

神護寺の高雄山を望見する嵐山ですので、真言宗人となりました考えれば納得するのですが、空海、はじめ日本史に歴史を残す高僧も参詣したという歴史を湛えまして、景色が良いというだけの寺院ではなく、長い時代に渡り京都を一望してきたという風情もくわわる。

石の階段は雰囲気があります、そして、ここは展望台の風景のすばらしさからもう少し多くの観光客が押し寄せているかとも思ったのですが、これはやはりみなさん慎重なのでしょうね、それほど混雑していません、そして感染対策考えれば、この展望台は風通しよい。

清涼寺も、天龍寺も、そう遠く五重塔は妙心寺も望見できる、石階段はそれほど高いところではなく、久々に上ってみますと知恩院の階段の方がすごい急な階段に思えてくるほどなのですが、この風景はすばらしい、一寸歩みを進めるだけで、こうした風景と出会える。

日常というものも少し工夫するだけでもこうした美しいものと出会えるのだ、こう考えますと愉快になるものです。そしてこの散策、いや参拝のさなかではあるのですが、神前婚の婚礼のりとが聞こえてきていまして、寿的な雰囲気というものも日常を華やかとします。

お寺は、しかし苦難の歴史を歩んでいます。なにしろ渡月橋がその参道であったという事は嵐山で一番目立つ場所にあるのですから、応仁の乱では西陣の拠点となり、やはりというか全焼しました。洛中からかなり隔てているのですが江戸時代まで復興できていません。

江戸時代は、なるほど天龍寺はじめ風光明媚な場所ではあるのですが、嵐山が観光地となりましたのは阪急電鉄といいますかいまの阪急京都本線を運行していた新京阪電鉄の観光開発が大きな位置づけなので、江戸時代には阪急電鉄はまだなく、静かな一角でした。

幕末、天龍寺の名をあげました点でお気づきの方も多いとは思うのですが、蛤御門の変に際して賊軍となった長州軍が拠点としたのが天龍寺です、そしてここは天龍寺を見下ろす緊要地形の一つ、ここにも長州軍が立てこもり幕府薩摩連合軍の無差別砲撃を受けている。

昭和時代になってから。伽藍の多くは再建されているのですが明治時代には廃仏毀釈の影響もありましたので思うように復興できず、なんと多宝塔が再建されたのは1937年、もう日中全面衝突が始まっている時代の再建となっているのです、もっともその後の戦争では。

太平洋戦争では嵐山は戦災を免れました、いや、金属供出のために愛宕山ケーブルカーの路線が撤去され、その後なにがあったか施設は天橋立に移設されてしまったゆえ、愛宕神社には往復五時間の徒歩経路しかのこらなくなった、意味で災難ではあるのですけれども。

災厄といえば昨今はCOVID-19です、死者数は2023年のほうが一日あたりでは2020年よりも遙かに深刻な状況となっていて、救急車のサイレンは交通事故やお餅ではなく重篤患者の救急搬送、昔お世話になった方も知事直轄部署で感染者情報分析に当たっている。

しかし、思うのはなんとかなるのだろうなあ、という淡い期待です。いや今日明日というのは当てはまりません、時間はかかると思う。それでもこの法輪寺が幾度も荒廃しつつ再建されたように、なんとかなるもので世の中はあふれている、そんな干支送りとしました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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