■白河上皇と鳥羽上皇
貴族政治が在って武家政治となり、武家政治が終わって天皇親政から民主主義が生まれた、とこうまあ歴史の流れを理解していますと収斂する先が必然のように思えますが時の為政者たちは未来など見えません。

楽水苑という美しい梅園を散策していますと、成程洛中と称される京都駅よりも北の立地とはずいぶんと風情が異なるものだ、こう趣き深いものを感じるのですが、この寺院はもともと白河天皇が造営した鳥羽離宮というもの、その白河天皇は荘園を制限しています。

律令国家は、平安遷都を含め日本が幾度も政情から首都をかえねばならない時代に後退期を迎え、これが地方貴族の興隆へと繋がり、大和朝廷と呼ばれた時代から中央権力強化の、ある種中国的といえた政治体制から地方分権の時代を迎える事となりましたが、懸念も。

寛徳の荘園整理令として白河天皇が荘園の禁止を示したのは国土は遍く中央に、という律令国家再建の意気込みが反映されていまして、ここ鳥羽離宮では後拾遺和歌集選定の勅撰和歌集編纂という文化への統制をも踏み込みました、この改革は反発もあり時間もかかる。

応徳3年こと西暦1086年、皇位は弟へと後三条天皇の遺訓が在りましたが実子に継承させ堀河天皇を即位、そして自らは上皇宣下し院政を始めるのですね。しかし1107年に堀河帝が若くして崩御すると出家していた孫を擁立し鳥羽天皇が即位、更に院政を強化しました。

法皇として白河上皇は出家しますが、これが逆に当時一大勢力となっていた寺社勢力への影響力拡大が目的であり、院政は中央政界と宗教界に至る巨大な権力構造となります、この改革は同時に地方の反発を生み、既得権返還を求める中で武士階級が実力をつけてゆく。

改革を進める為に反発があり、実孫の鳥羽天皇を護るための政権干渉は果たして政権とは朝廷に在るのか院に在るのか、この二重権力を白河法皇は実力を以て優位を示すために武士階級を重用し殿上地下問わず反発や叛乱に対しては軍事力により統制を試みたという。

これでは内戦になる。白河法皇が崩御した後に院政を支えたのは鳥羽上皇でしたが危惧したのは行き過ぎた統制です。実際白河院は権力を誇示する為の栄華を建物で誇示しており、鳥羽殿には勝光明院という宝蔵が造営され、列島や大陸の膨大な美術品が並べられました。

荘園という制度は必要の最中に広がったものであり、統制を強めても限度がある、鳥羽上皇はこうした視点を持ち、実際興味深いのは鳥羽治世では一度として荘園整理令が出されていません、このように国土割る為の強権国家よりは自由競争での繁栄を選んだといえる。

鳥羽院の施策は荘園を新田開発と理解した上で規制せず、しかも荘園寄進は積極的に受けるというもの。寄進の見返りに国役免除や国司不介入の特権を認める、これは見方を変えれば国家財政の脆弱化も招くのですが、一旦生まれた既得権益を武力で収奪はできません。

検非違使に北面は平氏を、受領に源氏を。鳥羽院の防衛に武士階級を登用したのも鳥羽院の施策であり、こうして城南宮に位置した鳥羽院は貴族の荘園寄進により大きな建物が建つ事無く、そして武士による警護の徹底という、洛南にもう一つの京都が生まれたことに。

平忠盛の時代には瀬戸内の海賊を検非違使として討伐しましたが、武士階級を鳥羽院近くに寄進した荘園警護に用いたという事は、地方の荘園と中央警護という、いわば武士階級の中央地方関係が生まれる事となり、これが源平、続く武家政治時代へ下地を育みました。

城南宮の周辺は荘園であった為に巨大寺院が林立する事無く、静かな建物の無い現代の立地となりました。そして当地は幕末に鳥羽伏見の戦い主戦場となりましたが、軍事力で解決し得る時代へ遷った事で結局幾度も戦火で更地となった、そんな歴史の上に建つのです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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貴族政治が在って武家政治となり、武家政治が終わって天皇親政から民主主義が生まれた、とこうまあ歴史の流れを理解していますと収斂する先が必然のように思えますが時の為政者たちは未来など見えません。

楽水苑という美しい梅園を散策していますと、成程洛中と称される京都駅よりも北の立地とはずいぶんと風情が異なるものだ、こう趣き深いものを感じるのですが、この寺院はもともと白河天皇が造営した鳥羽離宮というもの、その白河天皇は荘園を制限しています。

律令国家は、平安遷都を含め日本が幾度も政情から首都をかえねばならない時代に後退期を迎え、これが地方貴族の興隆へと繋がり、大和朝廷と呼ばれた時代から中央権力強化の、ある種中国的といえた政治体制から地方分権の時代を迎える事となりましたが、懸念も。

寛徳の荘園整理令として白河天皇が荘園の禁止を示したのは国土は遍く中央に、という律令国家再建の意気込みが反映されていまして、ここ鳥羽離宮では後拾遺和歌集選定の勅撰和歌集編纂という文化への統制をも踏み込みました、この改革は反発もあり時間もかかる。

応徳3年こと西暦1086年、皇位は弟へと後三条天皇の遺訓が在りましたが実子に継承させ堀河天皇を即位、そして自らは上皇宣下し院政を始めるのですね。しかし1107年に堀河帝が若くして崩御すると出家していた孫を擁立し鳥羽天皇が即位、更に院政を強化しました。

法皇として白河上皇は出家しますが、これが逆に当時一大勢力となっていた寺社勢力への影響力拡大が目的であり、院政は中央政界と宗教界に至る巨大な権力構造となります、この改革は同時に地方の反発を生み、既得権返還を求める中で武士階級が実力をつけてゆく。

改革を進める為に反発があり、実孫の鳥羽天皇を護るための政権干渉は果たして政権とは朝廷に在るのか院に在るのか、この二重権力を白河法皇は実力を以て優位を示すために武士階級を重用し殿上地下問わず反発や叛乱に対しては軍事力により統制を試みたという。

これでは内戦になる。白河法皇が崩御した後に院政を支えたのは鳥羽上皇でしたが危惧したのは行き過ぎた統制です。実際白河院は権力を誇示する為の栄華を建物で誇示しており、鳥羽殿には勝光明院という宝蔵が造営され、列島や大陸の膨大な美術品が並べられました。

荘園という制度は必要の最中に広がったものであり、統制を強めても限度がある、鳥羽上皇はこうした視点を持ち、実際興味深いのは鳥羽治世では一度として荘園整理令が出されていません、このように国土割る為の強権国家よりは自由競争での繁栄を選んだといえる。

鳥羽院の施策は荘園を新田開発と理解した上で規制せず、しかも荘園寄進は積極的に受けるというもの。寄進の見返りに国役免除や国司不介入の特権を認める、これは見方を変えれば国家財政の脆弱化も招くのですが、一旦生まれた既得権益を武力で収奪はできません。

検非違使に北面は平氏を、受領に源氏を。鳥羽院の防衛に武士階級を登用したのも鳥羽院の施策であり、こうして城南宮に位置した鳥羽院は貴族の荘園寄進により大きな建物が建つ事無く、そして武士による警護の徹底という、洛南にもう一つの京都が生まれたことに。

平忠盛の時代には瀬戸内の海賊を検非違使として討伐しましたが、武士階級を鳥羽院近くに寄進した荘園警護に用いたという事は、地方の荘園と中央警護という、いわば武士階級の中央地方関係が生まれる事となり、これが源平、続く武家政治時代へ下地を育みました。

城南宮の周辺は荘園であった為に巨大寺院が林立する事無く、静かな建物の無い現代の立地となりました。そして当地は幕末に鳥羽伏見の戦い主戦場となりましたが、軍事力で解決し得る時代へ遷った事で結局幾度も戦火で更地となった、そんな歴史の上に建つのです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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