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【京都幕間旅情】御室仁和寺(大内山)椛が焔の如く染める太平洋戦争末期の極秘終戦交渉舞台

2019-12-04 20:15:54 | 写真
■晩秋紅葉と師走は真珠湾
 美しの椛に彩られる壮大伽藍が実は太平洋戦争終戦の極秘舞台一端を担ったといいましたらば、驚かれるでしょうか。

 仁和寺。大内山仁和寺は衣笠山麓の右京区御室にある真言宗御室派総本山の寺院です。仁和4年の西暦888年に宇多天皇が開基となり法皇として座所を定めた事から御室仁和寺と称されます。燃える様な紅葉ですがこの写真は先週のもの、そして季節は師走となった。

 師走といいますと真珠湾攻撃と忠臣蔵を思い浮かべますが開戦から78年、記憶は記録に還り昨今は余り振り返られぬようになっています。しかし燃えるような紅葉の仁和寺は、実はあの戦争と最後の段階、終わらせるのが難しい時代において実は関係があったのですね。

 御室仁和寺、実は現代史においても御室が再興される可能性がありました、第二次世界大戦末期の事です。昭和20年の最初の月、戦局は最早絶望的であり連合軍は日本が緒戦で獲得した占領地の大半と、重要な通称航路の要点を全て制圧しシーレーンが途絶しました。

 連合軍の本土空襲は間もなく都市部への無差別な絨毯爆撃へ展開し、日本本土の沖縄と小笠原諸島への連合軍侵攻を留める戦力は枯渇しつつあり、そしてその再建見通しもありませんでした。こうした最中に極秘計画として昭和天皇の出家が模索され、御室仁和寺が。

 応仁の乱にて全ての伽藍が失われた仁和寺は一時放棄され衣笠山に細やかな庵を幾つか建て、その状態は復興の江戸時代まで続いたという歴史があります。しかし幕末の騒擾、そして第二次世界大戦では戦火を幸いにして免れ、故に再度御室として注目されたのですね。

 外務省は中立国ソ連との間での講和交渉を目指し、海軍が保有する戦艦長門や残存空母を主要駆逐艦等を提供する見返りにミグ戦闘機数千機とT-34戦車や燃料供給を模索したという研究も在り、如何に当時の日本が追いつめられていたかが如実に示されているでしょう。

 退位し出家、少々時代錯誤のように思われるかもしれませんが、連合国との講和交渉さえも既に多大な犠牲を払った帝国陸海軍には端緒を許さない風潮は強く、最悪の場合を考えての事でしょう。実際、開戦時の首相近衛文麿は、この頃に幾度か仁和寺を訪れています。

 極秘の終戦交渉とは、天皇の出家により戦争責任から免責される事を条件に連合国との交渉に臨むという、天皇大権の維持が実現しなければ陸海軍は軍政を敷いてでも継戦となる事は当時情勢から必至であり、故に国が再建できる内にその見通しを建てる必要があった。

 戦後日本では戦争放棄を掲げつつ、これは本来の戦争という手段を外交から放棄するという意味から飛躍し、戦争について考える事を放棄する方向に向かい、何が戦争を引き起こし何を以て戦争に巻き込まれるのかさえ、考える事を放棄しているようで危惧してしまう。

 ヴィルヘルム二世第三代ドイツ帝国皇帝、第一次世界大戦を決断したドイツ皇帝も、パウル-フォン-ヒンデンブルク元帥とエーリヒ-ルーデンドルフ歩兵大将の軍部独裁体制下、大戦末期に退位しオランダへ亡命する事によりドイツ帝国廃線後の戦争責任を免れています。

 西園寺公望、戦前に最も優れた政治家であり元首相とそして最後の元老を務めつつ第二次大戦開戦直前にこの世を去った西園寺公望公はこの仁和寺を含む衣笠山山麓一帯が西園寺家の荘園であった時代が永く、そして幕末に11歳にして宮中に出仕した経験があります。

 最後の元老として、昭和天皇の輔弼に当った時代が長い西園寺公望は、幕末の孝明天皇治世下に祐宮皇太子の近習として仕えていまして、祐宮皇太子が即位し明治天皇となられた後には昭和天皇の幼少期にも親しく接した歴史があります、影響力は大きかったのですね。

 近衛文麿が首相へ大命降下の際にはやはりその首相就任を強く勧めたのが存命中の西園寺公望といいますので、昭和天皇の出家が模索された当時、既に故人ではありましたが西園寺公望と西園寺家所縁の地に近い仁和寺が選ばれた事は何か歴史の不思議を感じるものだ。

 藤原摂関家と繋がる西園寺家故に、成程最後まで皇室に寄り添うのは結局藤原氏なのか、とも思う次第ですが、平安朝初期開山のこの仁和寺には激動の昭和史に政治の中枢と織り合う機会があったという。真珠湾攻撃開戦記念日前にふと思い出し拝観して参りました。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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1 コメント

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Unknown (流線形)
2019-12-07 03:42:56
この時期の周山道路は激混みですよね。
このお寺の前も渋滞します。
かつては、四条大宮からバスで清滝まで行って、そこから神護寺、高山寺まで錦雲峡を歩いたものです。
帰りに嵐山の森嘉で豆腐を買って帰ってました。
仁和寺といえば、やはり、吉田君ですよね、双ヶ岡の。
なぜ、彼は、吉田山が見える双ヶ岡に住んだんでしょうね?
吉田山の麓に通っていた浪人時代の戦友とよく語ったものです。
吉田君は、ちょっと、不思議な人ですよね。
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