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日本航空123便ジャンボ機墜落事故(1985.08.12)と陸上自衛隊災害派遣の初動

2014-08-12 23:54:35 | 防災・災害派遣

◆未曽有の墜落現場へ展開した空挺部隊・山岳連隊

 本日は日本航空123便ボーイング747墜落事故より29年目の追悼の日です。

Aimg_2434  ジャンボ機墜落、我が国民間航空からボーイング747が完全に廃止された今年ではありますが、この追悼の日、フライトレコーダーの分析等多くのメディアで触れられているところではありますが、本日は、あまりマスコミなどでは触れられない視点から、この墜落事故についてみてゆきたいと思います。それは未曽有の犠牲者を出した事故の現場が首都圏に隣接しながら険しく人を寄せ付けない山間部で発生した状況に際しての、陸上自衛隊の日本航空123便ジャンボ機墜落事故対処について。

Aimg_9773  1985年8月12日、日本航空123便は羽田空港を1812時に伊丹空港に向け離陸、お盆の帰省客を乗せ満員での離陸から12分後、相模湾上空において上昇中、後部圧力隔壁の破損に端を発し油圧系統収束区画ごと垂直尾翼が喪失、完全に操縦不能となり、羽田へエンジン出力変化等僅かな選択肢を駆使しての乗員の努力も実らず1856時、群馬県御巣鷹山の山中に墜落しました。なお、油圧喪失は致命的で、この困難を前に最後まで乗員は機体の維持に努力したことは忘れてはなりません。

Gimg_9490  航空自衛隊は多くのメディアで紹介され知られているように1828時、日本航空123便の非常事態宣言を峯岡山分屯基地の中部航空警戒管制団第44警戒群が探知、松永貞昭空将が指揮する中部航空方面隊は第44警戒群より当該機がレーダーより機影が消失したことを報告され、独断で情報収集及び救援へ緊急発進を命令、百里基地の第7航空団よりスクランブル待機中のF-4EJ二機が、続いて情報収集として航空救難団百里救難隊のV-107が緊急離陸しています。

Hbimg_7945 陸上自衛隊は、東部方面隊の第1師団と第12師団に対し、2000時頃、防衛庁より待機命令が掛かりました。この待機命令について、当時は墜落箇所が不明であり長野県山間部か群馬県山間部若しくは埼玉県山間部と、広い空域を捜索する必要がありました。当時自衛隊には夜間飛行が可能な航空機は多数装備されていましたが、夜間捜索救難任務に充てられる機体は航空救難団の装備する機体等一部で、この中には夜間海上での救難は可能でも山間部に夜間救難可能な機体は存在しません。

Gimg_6136  第12師団長合原博見陸将は隷下部隊へ待機命令を発令、松本駐屯地の第13普通科連隊は連隊長川名正弘1佐が独断で情報収集を決断、本部管理中隊情報小隊の派遣を開始しました。第13普通科連隊は山岳レンジャー教育の拠点で、一人一人が高度な産学技術を身につけるといわれるほど、日本アルプスを警備管区とする日本最強の山岳連隊の一つに挙げられ、情報小隊は73式小型トラックで可能な限り前進し、それ以上の未踏破地域へは徒歩で展開してゆきます。

Aimg_1842  事故が発生した8月12日は盆休みの時期であり、陸上自衛隊も例外ではなく例年15日前後、3日から4日の休暇を分けて取得するよう部隊では訓練運用を調整しているとのことで、各部隊は半数程度が休暇を、半数が勤務を採り待機態勢を維持していました。事故発生地域が北関東山間部であることから、翌13日0500時頃、第1空挺団、第1ヘリコプター団へも待機命令が東部方面総監部より下令され、指揮官が待機態勢を採る第Ⅰ種勤務令が発令、同時に団長命令でヘリボーン部隊編成が命じられました。

Aimg_2875  第1空挺団長小林英雄陸将補は、空挺団普通科群長重高昭教1佐を派遣部隊指揮官とし、ヘリボーン部隊編成を下令します。重高1佐は災害派遣計画に基づき、木更津第1ヘリコプター団よりV-107輸送ヘリコプター6機を指揮下に加入させ、初動部隊を編成します。初動部隊は、普通科群、施設隊、衛生隊、より本部班と5個班の73名により編成完結し、各班に降下用のザイル二本と各個にリぺリング降下用の皮手袋及びナス環を装備、携帯糧食三食分と水筒に小縄のみの軽装備とし出動態勢を固めます。

Img_9639  第1空挺団の任務は事故現場の地域把握と生存者救出です。情報収集ですが、文字通り人跡未踏の地形での大規模な航空機事故ではヘリコプターの展開や地上からの大規模部隊の展開に必要な地形に関する状況を把握しなければなりません。空中機動により投入できる人員には限界がありますし、救急救命装備などもヘリコプターで過半するには限界がありますが、ここで情報収集と救助計画を固め、如何に初動を固めるかが、続く災害派遣を大きく左右させることとなるのです。

Aimg_9719  V-107は現行のCH-47とUH-60の中間規模の機体で陸海空自衛隊に装備された主力機種の一つでした。第1空挺団派遣部隊は第12師団長隷下に配属されることとなり、0730時、第12師団が前進基地とした師団司令部が置かれる相馬原駐屯地向かう途上、師団長より大まかな墜落事故現場が把握できたとし、当初は6機が一旦相馬原駐屯地に着陸する計画を、指揮官機を含む3機がそのまま事故現場へ展開させることとなり、0840時に3機のV-107は現場上空へ到着しています。

Himg_3853  しかし、事故現場は山間部の中でも林道や登山道からもかなりの距離を隔てている奥地で、機体が散乱する事故現場付近では急斜面が続いており、崖のような地形が続くことからなかなか着陸地が見つかりません。そこで現場から若干離れた地域にリぺリング降下可能な尾根を発見、降下長が降下すると斜度45°近い崖のような地形でしたが、各機12名が降下するのに10分、3機が併せ30分もの時間を要し、降下した総員は1000時頃まで捜索を継続します。機体の状況は様々なメディアにより抑えた表現で説明され、そちらに譲る事としましょう。

Img_1381 第1空挺団先遣部隊は第12師団司令部へ無線連絡を試みますが地形上電波を遮蔽する為携行するFM無線機では相馬原駐屯地や松本駐屯地と繋ぐことが出来ず、やむなく万一のために携行したAM無線機により直接習志野駐屯地の第1空挺団本部と交信、情報を空挺団から師団司令部へあげる事としました。続いて上空のヘリコプターを空中中継として第12師団司令部との連絡体制を確立しました。同時刻、相馬原駐屯地へ待機していたV-107のうち2機が現場に到着、支援体制を確立しました。

Cimg_8028 第13普通科連隊本部管理中隊情報小隊は第1空挺団がリぺリング降下を開始した同じ頃に、事故現場の端部へ漸く到達しました。夜通し徒歩で山間部を踏破しての展開で、実のところ山岳連隊は空挺部隊のヘリボーン展開に脚力で同着を果たしたわけですが、第1空挺団任務は地形把握、即ち後続の災害派遣主力部隊の根拠となる情報収集を行いました。13連隊長川名正弘1佐も1130時には現場まで進出、空挺団普通科群長重高昭教1佐と合流、先任の川名1佐指揮下に空挺団派遣部隊が加入しました。

Aimg_2076 空挺団災害派遣部隊は、現場の北側谷底に機体の尾部が落下しており、一つの班が捜索中この残骸を発見しました。同じころ、地元上野村消防団が先導し、警察からの派遣部隊と合流しています。生存者は消防団が発見しましたが、尾部は九割の犠牲者に生存者が残る状態で、空挺団員は犠牲者溢れる機内へ合掌しながら踏み入り、生存者を一人一人引き出し、実に4名もの生存者が此処にいたことが判明しました。兎に角空中搬送を、決定します。

Uhimg_3671  ただ、ヘリコプター発着可能点は空挺団がリぺリング降下した崖のような尾根、標高にして100m以上もの高度差を越えたところまで運ばなければなりません、そこで消防団員と協同し、担架は携行していないためレンジャー訓練などで仮設する応急担架を構築し、尾根まで担ぎ上げる事となりました、人跡未踏の鬱蒼とした木々が生い茂る急斜面を人力搬送するのは厳しいですが、前後して空挺団派遣部隊が相馬原経由で2個班増強展開しているため、彼らとも協力し、兎に角尾根まで、そしてヘリコプターにロープにて収容しました。

Amimg_1713 川名1佐指揮下、空挺団派遣部隊と第13普通科連隊と共に徒歩にて消防団や警察の踏破した応急山道を第12施設大隊など第12師団主力部隊が到着、V-107とUH-1による毛布や土工具及び水缶の投下支援を受け、夜営と可能な限りの徹夜作業を決意します。群馬県警と警視庁機動隊に地元消防団は夜間一旦麓までの撤収を予定していたものの、警視庁機動隊は自衛隊と共に残る決心へ切り替え、自衛隊の物資を分配し作業を続行しています。

Gimg_8753 月齢27、星空の下携行する懐中電灯に余裕があったため、第12師団司令部との連絡協議の結果、喫緊の課題は徒歩4時間を要する麓からの参道とヘリコプターの着陸を許さない地形を如何に克服するかが課題となりました。そこで、第12施設大隊と空挺施設隊の隊員が夜間、携帯する懐中電灯だけを用いて、現場にたおれている倒木とロープなどの限られた資材を駆使し、応急ヘリコプター発着上の設営を決意します。斜面を円ぴで掘削し丸太を敷き詰め土台とする、応急ですがUH-1が離着陸可能な発着場、夜明けまでに完成しました。

Aimg_24370 非常に残念なことではありますが、生存者は4名を以て最後となり、520名もの犠牲者を生む我が国最大の航空機事故となりました、陸上自衛隊は増援の警察消防及び消防団や航空自衛隊災害派遣部隊と協同、14日から御遺体の収容作業へと転換してゆきます。なお、壮絶な現場は当事者の口からも厳しい記憶を刻み付けたという声を聴きます。巨大な事故ではありましたが、事後即応した自衛隊の対応は何故か報じられることは近年まで稀有でしたので、今回特集することとしました次第です。最後となりましたが、事故で犠牲となりました方々のご冥福を祈り、末尾とさせていただきます。

北大路機関:はるな

(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)

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