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北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都発幕間旅情】岡崎城(愛知県岡崎),徳川家康の生誕地はNHK大河ドラマに描かれた歴史と歩む市民の城郭

2023-01-18 20:23:55 | 旅行記
■角松が迎える岡崎城探訪
 城郭というのは石垣と掘割が残るだけで心躍るものですが再建構造物が有りますとよりわかりやすくなり親しみも深まる。

 岡崎城、NHK大河ドラマの影響を受けて、という訳ではありませんがこの冬の角松の季節に城郭探訪という事で一つ愛知県までお散歩に行って参りました。岡崎市、八丁味噌発祥の地という事で所縁或る街並みですが、古くからの知己もあり親しみあるまちとなっています。

 徳川家康の生誕地、NHK大河ドラマ“どうする家康”が放映開始となりました、背景に大胆に巨大スクリーンを用いました思い切った低予算路線でSFチックに広げられた作品、実は第一話の日に北習志野のやきとり屋さんに居ましたのでみる機会を逸したのですが、まあ、それはそれ。

 大手門から堂々たる気風なのですが、つい最近という印象があります2010年に東隅櫓が再建されまして、白壁が続く城郭の様子は、これからも広がってゆくでしょう真新しいもののこれから長い歴史と共に磨かれ街中の情景に溶け込んでゆくことを期待するところです。

 北大路欣也の徳川家康、映画として完成形のものがありますが昨今NHK大河ドラマは“鎌倉殿の十三人”のように、思い切った表題を示さず群像劇を目指したものの描ききれない、ぴんぼけの写真の様なものが増えていまして、さて今回のものもどうなるのか、とおもう。

 城下町岡崎、しかし、大河ドラマには充分乗っかるきの様で、岡崎城にはNHK大河ドラマに負けない低予算でコンテナ方式の大河ドラマ館が大急ぎで準備されているといい、もっと作品として盛上るような、歴史大河を視てみたいと思うのはわたしだけでしょうか。

 愛知県岡崎市康生町、岡崎城は東海道本線岡崎駅からは少し離れているのですが名古屋鉄道の東岡崎駅から徒歩で少し、愛知環状鉄道の中岡崎駅から徒歩数分、迷う事を考えれば十分か、隔てています。江戸時代には広大な縄張りを有した城郭もいまは再建構造物のみ。

 岡竒城、こう呼ばれました城郭の歴史はかなり古いものがあります、西郷稠頼という武将、この人は三河国守護職仁木氏の守護代を務めた武将なのですが、室町時代の永享年間、西暦では1429年から1441年の頃に平岩城という城塞をこの当たりに造営したのが始まり。

 城郭は三代続き西郷信貞の時代、この方は松平昌安という松平姓を名乗る一人なのですが、大永4年こと西暦1524年このころに安生に拠点を置く松平清康により包囲されまして開城します、その際にえにしあって松平姓となったのですが、松平家の拠点は岡崎へと移る。

 平岩城、岡崎城は現在復興天守が造営されているのですが、この始まりとなりました城郭はもう少し川沿いの方に広がっていたといい、それは菅生川北岸にあります龍頭山の山頂にあったという、山と云いましても標高25mの半島状段丘ですが、川を自然防御とした。

 龍城という別名でも知られる岡崎城は、こうした龍頭山の山頂に造営された、という点が起因しているようです。しかし、ここは明治時代の廃城令により徹底した破壊に見舞われ、大半の遺構が残っていないという厳しい歴史がありますが、よくぞ再整備できたとおもう。

 複合連結式望楼型三重三階天守閣が1617年に築づかれたという、ただ当然すが非現存のものです、戦後の1959年に再建されたという歴史があるのですが、掘割と石垣の一部が残っているというだけでも、此処を巡ってみますと意外な広さに驚かされるものです、ひろい。

 石垣は、風化により立ち入り禁止の区域が散見されます、どういった角度からの構図が城郭の勇ましさを強調できるのかと、ちょっと頑張って歩き回るのですが、資料館などの造詣が城郭を意識したもの故に壮大さを感じさせる、生きている城郭という事を感じました。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】法輪寺,寅年から卯年を迎え干支送りに拝観の寺院は渡月橋の寺院

2023-01-18 20:00:56 | 写真
嵐山の多宝塔
 新年を迎えたからには干支をお送りしたいという探訪だ。

 法輪寺、西京区嵐山虚空蔵山町に所在します秘仏虚空蔵菩薩を奉じます寺院です。京都散歩、目的地を考えずに歴史との出会いを思い浮かべてその日の気分で行った先に拝観するという自由を愉しんでいる事が多いのですが、今回はここ法輪寺を目的地として探訪です。

 干支送り、寅年から卯年を迎えました。2022年はいろいろありましたが、総じて興味深いことや、COVID-19の影響も残るには残るのですが、仕事も私事も関心事も、総じて前に進むことができたという印象です、率直に言ってそれなりに実りある一年となりましたね。

 寅年ということで寅さんで送ろう、こういいましても葛飾柴又までいくというような率直な話ではなく、狛犬ならぬ狛虎のいます嵐山の法輪寺を拝観することといたしました次第でして、ここは有名な寺院なのかととわれれば、それなりに有名ですが見た人は更に多い。

 行基さんの寺院、その歴史は非常に古い、行基が元明天皇の勅願を受け造営しました寺院、和銅6年こと西暦713年と平安遷都からも90年近く古く造営された寺院となっています。しかし実際の歴史は更に古く、渡来系の秦氏が建てた葛野井宮という寺院が在ったという。

 葛野井宮、秦氏は様々な技術を大陸から日本へ伝えたといいまして酒造なんかもその功績の、なにしろ縄文時代の吐きそうになる様な不衛生で無分別で吐瀉のような酷い酒造技術をまともな酒類に置換えたという、秦氏は日本の酒飲み呑兵衛の恩人のような連中です。

 嵐山の葛野井宮、もう一つ秦氏が果たしました重要な技術に治水技術があります、火山性地形の弧状列島は全土が災害頻発地域、特に嵐山の大堰川は下流に長岡京もありますので、此処を治水できなければ国家造営にも差し障る、大堰川の治水は重要な功績といえました。

 行基さん、こちらは日本仏教の恩人の様な方の一人とも言えまして、仏教が国家宗教であり個人の救済など度外視していた時代に有志と共に寺を出て布教に当り、そして僧侶の知識を灌漑に耕作と治水に医療と広い分野でも広め、民衆へ仏教を広めたひとりといえます。

 渡月橋、嵐山の大堰川を横断する京都の風物詩といいますか京都らしい情景を醸している渡月橋は、実際にいった人はもちろん、まあ写真家ドラマかポスターか年賀状でごらんになった方は多いでしょう、その情景の山中多宝塔が見えましたならば、そこがこのお寺だ。

 法輪寺橋、しかし驚かれるかもしれませんが渡月橋という地名が定着したのはつい最近と言いますか江戸時代には行っての事でして、それまでは法輪寺橋という名称、亀山上皇が和歌に渡月橋と詠むまでは、この橋梁は法輪寺への参道でしかなかったという歴史もある。

 嵯峨の虚空蔵さん、こうも呼ばれ親しまれる法輪寺ですが、元明天皇の勅願を受けまして天台宗寺院として造営された歴史はあるのですけれども、勤操さんや歴代天皇の勅願所ともなったのち、この寺院は空海の影響を受け密教の御寺へ、真言宗寺院となってゆきます。

 道昌、御寺を真言宗寺院としましたのは空海の弟子道昌です。歴史とは面白いものでして、空海の弟子であると共に土木技術にも知識が深く、広隆寺に奈良の隆城寺や元興寺といった寺院の別当も務めています、そして土木技術は大堰川の架橋というかたちで活かされた。

 虚空蔵菩薩を安置しましたのも道昌の時代なのですが、同時に大堰川に参道としての架橋、つまり今の渡月橋のひな形となります工事を行った功績もありまして、実のところここ法輪寺というのは信仰の寄る辺とともに、嵐山一帯の治水と所縁ある寺院でもあるのですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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チャレンジャー2主力戦車ウクライナ供与決定!第三世代戦車-イギリス政府-西側設計戦車初のウクライナ供与

2023-01-18 07:00:46 | 先端軍事テクノロジー
■臨時情報-ウクライナ情勢
 例によって90式戦車の写真で代用しますが90式戦車と同世代の戦車の話題、イギリス政府はウクライナへチャレンジャー2主力戦車14両の供与を決定しました。

 西側設計の戦車として初の供与です。チャレンジャー2主力戦車は第三世代戦車の中でも特殊な立ち位置にある戦車です、そしてその強さは原型のチャレンジャー1が湾岸戦争で、チャレンジャーがイラク戦争においてソ連製T-72戦車を相手に発揮しています。設計思想の中心には防御力があり、また遠距離射撃能力についても実戦で証明されている戦車です。

 チーフテン戦車、原型は戦後第二世代戦車であるチーフテン戦車を元に王政時代のイランの要請で新しく開発されたチョバム研究所の複合装甲、特殊合金とセラミックを組み合わせる事で鋼鈑換算1000mmの防御力を軽量に実現させる新装甲で守られたシール戦車、ただイラン革命がおこり調達計画がとん挫した事でイギリス軍仕様とし、誕生しています。

 ティーガー重戦車に第二次大戦中に大変な目にあわされた事でイギリス戦車はセンチュリオン戦車とチーフテン戦車、防御力を特に重視した設計を採用しています。ただ、エンジン出力の制限以上に重装甲に注力した事で車体重量が非常に重くなり、機動力に限界が生じた点が難点です。他方で、乗員の防護を第一としたことは戦車乗りの信頼を勝ち得た。

 L-115戦車砲、チャレンジャー2の難点はライフル砲を採用した事です、弾薬は分離弾薬方式を採用していまして、これは徹甲弾と榴弾を柔軟に選べる利点はあるのですが、チャレンジャー2以外の所謂西側戦車は薬莢式の滑腔砲を採用していますので、装填動作が砲弾と装薬の二度手間であるチャレンジャー2は慣れるまでは使い難いといえるかもしれません。

 ライフル砲は、他方で射程が比較的長く湾岸戦争では5km先の目標に命中させた事例もあります。この設計はセンチュリオン戦車が重装甲を誇るものの主砲威力の不充分に悩まされ実に15回もの改修を必要とした事を受け、チーフテン戦車の時点で当時西側の標準砲はイギリス設計の105mm砲であった最中に120mm砲の採用を決断した延長線といえます。

 特殊な設計である為に輸出は奮いませんでした、そしてウクライナ国内の交通インフラにはチャレンジャー2の重量は厳しい事が予想されますが、今回供与の14両、使い方次第では極めて高い防御力と長距離打撃力は途轍もなく有用な戦車として期待出来るでしょう。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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