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北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】圓光寺,東国は足利学校より庠主閑室元佶招いた徳川家康の教育普及への願い

2021-12-29 20:21:34 | 写真
■教育こそが国家安泰の要
 教育こそが国家安泰の要、徳川家康がこの寺院を拓きました背景にはこうした願いが在ったのでしょうか。

 圓光寺、徳川家康は東国にあります足利学校のような教育機関が関ヶ原の戦い、その後の世界には必要だと考えたのでしょう、足利学校より庠主、つまり学長、閑室元佶を京都に招きまして、先ず伏見城下に伏見学校圓光寺という学問を目的とした寺院を拓きました。

 奔龍庭という枯山水の庭園、ここの瓦を用いました波紋の演出は、いつ頃から作庭に取り入れられているのでしょうが、白洲とともに気持ちよく個性的です。枯山水の庭園は数多ありますが、親しめるほどに近くで眺める事が出来るというのも面はゆく楽しいものです。

 瑞雲閣。ここにもズイウンがあったのか、とは閑話休題です。そして待月庵という茶室が在りまして、此処から眺める椛が非常に美しいのですね。もっとも、この写真を撮影しました翌日から予約なしには入れなくなりましたので、この日に自由に拝観できて幸でした。

 待月庵の茶室から十牛之庭を眺める、今年も拝観者が少なくて心地よいものでして、紅葉の季節、その入り口に拝観したのですが、幸いに快晴に恵まれまして、青空と白洲の青と白、青椛が紅葉に染まり始める色彩の極彩色が印象に強く残り、素晴らしい写真を撮れた。

 徳川家康の学問普及という視点は、閑室元佶とも重なるものでして、伏見版木活字という活版印刷胃必要な活字と印刷技術を開発普及させる事に尽力しました。写本で本を一冊一冊増やしていた時代から活版印刷ができるようになりますと知識はもう一気に普及します。

 孔子家語、伏見版木活字ではまず説話集の大量印刷を行ったとされています。当時には日本にとり世界とは南蛮文化との邂逅を果たしたものの、南蛮文化は基盤となるキリスト教価値観の理解が必要で、先ず普及させるには価値観の重なる儒教が求められたのでしょう。

 貞観政要、中国の太宗が集めた政治理論、初期のものです。徳川幕府の統治機構は、興味深い事に鎌倉幕府の将軍と御家人を対等とした調和型でも室町幕府の曖昧な統治機構と連合政府型という方式でも無く、明確な中央集権国家を意図していました。この背景の一つ。

 三略。もう一つ印刷されたのは兵法書です。治において乱を忘れず、この視点なのでしょうか。伏見版木活字はこうしたものを印刷したという。ただ、現在の圓光寺には印刷工場としての趣はありません、いやあっても可動はしていないほど前の技術なのですけれども。

 臨済宗南禅寺派の寺院、こう説明しましたが、修行道場、とも記されている山門ですが、これは明治時代以降の事です。しかし、始まりの伏見学校圓光寺という名前の通り、当初は当地よりも遠く、叡山電鉄沿線と云うよりは今の近鉄沿線に在ったと云えば遠さが分る。

 伏見城が廃城となりますと伏見学校圓光寺の立地の利点は当然ですが無くなります、すると洛中が良いということになりまして、相国寺山内に遷座するのですね。そしてまた三世澤雲祖兌禅師の時代に、現在地に遷座しました。寛文7年こと西暦1667年のことという。

 今年もたくさんの活字を打ちました、COVID-19の時代ゆえに写真を撮影出来ない事も多く、その分だけ活字を打っていたようにも思います、この背景には活字はWebを通じて広く意見や見識や知識を普及し交換する事が出来る為なのですが、これも活字があってこそ。

 活字文化というものは、日本では活字が有れば読む文化があり、文字に親しみ文章を工夫する価値観もあります。しかし辿りますと、こうした先人の努力が支えているとも思うのですね。今年もあと僅か、ふと、このお寺を紅葉の季節に拝観した事を思い出しました。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】圓光寺,十牛之庭飾る紅葉の寺院は伏見版木活字とニッポン活字文化の伝道師

2021-12-29 20:00:24 | 写真
■今年も活字のお世話になった
 今年も無事にたくさんの活字を打ちまして多くを様々な場面でお伝えする事が出来ました。本日も二部構成です。

 圓光寺、今年もあと僅かとなりますと、いろいろな出来事がありましたけれども、改めてたくさんの文章、活字を打ったものだと感慨深く思い起こします。北大路機関は写真の仕上がりや速報性に限界はありますけれども、文章と併せて記憶に残るものをお伝えしたい。

 十牛之庭という庭園には栖龍池が水をたたえ、そして水琴窟が意外に大きな独特の和音を奏でています、奔龍庭、もうひとつこちらは枯山水の庭園が有りまして、歩み進めますと不思議な生き生きとした庭園と価値観を遷す庭園が陰陽を具現化するように迎えてくれる。

 文章を書くには活力と発想力と知識と機械が必要です、その為に廃止が必要なのですけれども、その前提として活字と活字を読む文化というものが必要だ、勿論気力も必要で、こう、庭園を眺めて発想を高めつつ、こころの静養と休養をになうのですが、これに加えて。

 京都市左京区一乗寺小谷町、ここは叡山電鉄一乗寺駅から少し比叡のほうへ歩み進めました静かな立地にあります石畳の重々しく新鮮な散歩道の一角にあります寺院、安土桃山時代から江戸時代へと世の中が遷ろう時代に開山となりました寺院で、そして活字に所縁が。

 伏見版木活字。印刷物に用います活字がありますが、安土桃山時代末期に大量印刷の為に開発された伏見版木活字というものが実に5万2320個も、そして摺刷盤2面とともに現存しています。書物を大量に普及させるには活字と印刷技術が不可欠、その御寺ということ。

 瑞巌山圓光寺は臨済宗南禅寺派の寺院ですが、はじまりは学校という不思議な歴史を湛えています。慶長6年こと西暦1601年に三要元佶により開山となりました寺院です。三要元佶は閑室和尚とも閑室元佶ともいい寺社奉行の任にもありました徳川家康の幕僚の一人だ。

 閑室和尚、九州生まれの武将であり教育者であるとともに出家し僧侶となっています。伏見版出版技術普及へ尽力するとともに、九州生まれですが下野国足利荘、いまの栃木県足利市にありました足利学校での教授方を務めており、足利学校というのは古い学校の一つ。

 千手観音を奉じる御寺ですが、この足利学校と所縁あるものです。寺子屋といいますか、日本では教育と寺院の関係が強い印象はありますが、足利学校は専門教育と生涯教育の場であり、進められていたものは高等教育でした。そしてこの学校と繋がりが在るのですね。

 足利学校は平安時代初期に創設された高等教育機関と云い、研究によってはそれ程古くは無く中世の頃に開校し古い由来がある事を中世に示しただけとも云われるものですが、永享4年こと西暦1432年に当地の領主となった上杉憲実が再興に尽力し規模を広めました。

 北条氏政が16世紀の享禄年間に再興したともいいますが、宣教師フランシスコザビエルの所管にも記される巨大な学校だったといい、北条氏により保護されていたのですが、北条氏が小田原城落城により滅亡しますと廃校の危機に曝され、蔵書の散逸危機に曝されます。

 徳川家康、この際に足利学校が支援を求めたのが関東を受領した徳川家康の支援で、家康に保護されるようになる一方、豊臣秀吉の意向を受ける事となり京都は伏見城下に伏見学校圓光寺として分校を造営する事となります、これが寺の始りといい、始まりは学校だ。

 伏見学校圓光寺、開港となりましたのは関ヶ原の戦いの翌年であり、戦国乱世はいよいよ安定期に定着させたいという家康の願いが在ったのでしょうか、これが教育重視の姿勢となるのですね。この為に教科書、書籍の普及が必要であり、伏見版木活字が生まれました。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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