■教育こそが国家安泰の要
教育こそが国家安泰の要、徳川家康がこの寺院を拓きました背景にはこうした願いが在ったのでしょうか。

圓光寺、徳川家康は東国にあります足利学校のような教育機関が関ヶ原の戦い、その後の世界には必要だと考えたのでしょう、足利学校より庠主、つまり学長、閑室元佶を京都に招きまして、先ず伏見城下に伏見学校圓光寺という学問を目的とした寺院を拓きました。

奔龍庭という枯山水の庭園、ここの瓦を用いました波紋の演出は、いつ頃から作庭に取り入れられているのでしょうが、白洲とともに気持ちよく個性的です。枯山水の庭園は数多ありますが、親しめるほどに近くで眺める事が出来るというのも面はゆく楽しいものです。

瑞雲閣。ここにもズイウンがあったのか、とは閑話休題です。そして待月庵という茶室が在りまして、此処から眺める椛が非常に美しいのですね。もっとも、この写真を撮影しました翌日から予約なしには入れなくなりましたので、この日に自由に拝観できて幸でした。

待月庵の茶室から十牛之庭を眺める、今年も拝観者が少なくて心地よいものでして、紅葉の季節、その入り口に拝観したのですが、幸いに快晴に恵まれまして、青空と白洲の青と白、青椛が紅葉に染まり始める色彩の極彩色が印象に強く残り、素晴らしい写真を撮れた。

徳川家康の学問普及という視点は、閑室元佶とも重なるものでして、伏見版木活字という活版印刷胃必要な活字と印刷技術を開発普及させる事に尽力しました。写本で本を一冊一冊増やしていた時代から活版印刷ができるようになりますと知識はもう一気に普及します。

孔子家語、伏見版木活字ではまず説話集の大量印刷を行ったとされています。当時には日本にとり世界とは南蛮文化との邂逅を果たしたものの、南蛮文化は基盤となるキリスト教価値観の理解が必要で、先ず普及させるには価値観の重なる儒教が求められたのでしょう。

貞観政要、中国の太宗が集めた政治理論、初期のものです。徳川幕府の統治機構は、興味深い事に鎌倉幕府の将軍と御家人を対等とした調和型でも室町幕府の曖昧な統治機構と連合政府型という方式でも無く、明確な中央集権国家を意図していました。この背景の一つ。

三略。もう一つ印刷されたのは兵法書です。治において乱を忘れず、この視点なのでしょうか。伏見版木活字はこうしたものを印刷したという。ただ、現在の圓光寺には印刷工場としての趣はありません、いやあっても可動はしていないほど前の技術なのですけれども。

臨済宗南禅寺派の寺院、こう説明しましたが、修行道場、とも記されている山門ですが、これは明治時代以降の事です。しかし、始まりの伏見学校圓光寺という名前の通り、当初は当地よりも遠く、叡山電鉄沿線と云うよりは今の近鉄沿線に在ったと云えば遠さが分る。

伏見城が廃城となりますと伏見学校圓光寺の立地の利点は当然ですが無くなります、すると洛中が良いということになりまして、相国寺山内に遷座するのですね。そしてまた三世澤雲祖兌禅師の時代に、現在地に遷座しました。寛文7年こと西暦1667年のことという。

今年もたくさんの活字を打ちました、COVID-19の時代ゆえに写真を撮影出来ない事も多く、その分だけ活字を打っていたようにも思います、この背景には活字はWebを通じて広く意見や見識や知識を普及し交換する事が出来る為なのですが、これも活字があってこそ。

活字文化というものは、日本では活字が有れば読む文化があり、文字に親しみ文章を工夫する価値観もあります。しかし辿りますと、こうした先人の努力が支えているとも思うのですね。今年もあと僅か、ふと、このお寺を紅葉の季節に拝観した事を思い出しました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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教育こそが国家安泰の要、徳川家康がこの寺院を拓きました背景にはこうした願いが在ったのでしょうか。

圓光寺、徳川家康は東国にあります足利学校のような教育機関が関ヶ原の戦い、その後の世界には必要だと考えたのでしょう、足利学校より庠主、つまり学長、閑室元佶を京都に招きまして、先ず伏見城下に伏見学校圓光寺という学問を目的とした寺院を拓きました。

奔龍庭という枯山水の庭園、ここの瓦を用いました波紋の演出は、いつ頃から作庭に取り入れられているのでしょうが、白洲とともに気持ちよく個性的です。枯山水の庭園は数多ありますが、親しめるほどに近くで眺める事が出来るというのも面はゆく楽しいものです。

瑞雲閣。ここにもズイウンがあったのか、とは閑話休題です。そして待月庵という茶室が在りまして、此処から眺める椛が非常に美しいのですね。もっとも、この写真を撮影しました翌日から予約なしには入れなくなりましたので、この日に自由に拝観できて幸でした。

待月庵の茶室から十牛之庭を眺める、今年も拝観者が少なくて心地よいものでして、紅葉の季節、その入り口に拝観したのですが、幸いに快晴に恵まれまして、青空と白洲の青と白、青椛が紅葉に染まり始める色彩の極彩色が印象に強く残り、素晴らしい写真を撮れた。

徳川家康の学問普及という視点は、閑室元佶とも重なるものでして、伏見版木活字という活版印刷胃必要な活字と印刷技術を開発普及させる事に尽力しました。写本で本を一冊一冊増やしていた時代から活版印刷ができるようになりますと知識はもう一気に普及します。

孔子家語、伏見版木活字ではまず説話集の大量印刷を行ったとされています。当時には日本にとり世界とは南蛮文化との邂逅を果たしたものの、南蛮文化は基盤となるキリスト教価値観の理解が必要で、先ず普及させるには価値観の重なる儒教が求められたのでしょう。

貞観政要、中国の太宗が集めた政治理論、初期のものです。徳川幕府の統治機構は、興味深い事に鎌倉幕府の将軍と御家人を対等とした調和型でも室町幕府の曖昧な統治機構と連合政府型という方式でも無く、明確な中央集権国家を意図していました。この背景の一つ。

三略。もう一つ印刷されたのは兵法書です。治において乱を忘れず、この視点なのでしょうか。伏見版木活字はこうしたものを印刷したという。ただ、現在の圓光寺には印刷工場としての趣はありません、いやあっても可動はしていないほど前の技術なのですけれども。

臨済宗南禅寺派の寺院、こう説明しましたが、修行道場、とも記されている山門ですが、これは明治時代以降の事です。しかし、始まりの伏見学校圓光寺という名前の通り、当初は当地よりも遠く、叡山電鉄沿線と云うよりは今の近鉄沿線に在ったと云えば遠さが分る。

伏見城が廃城となりますと伏見学校圓光寺の立地の利点は当然ですが無くなります、すると洛中が良いということになりまして、相国寺山内に遷座するのですね。そしてまた三世澤雲祖兌禅師の時代に、現在地に遷座しました。寛文7年こと西暦1667年のことという。

今年もたくさんの活字を打ちました、COVID-19の時代ゆえに写真を撮影出来ない事も多く、その分だけ活字を打っていたようにも思います、この背景には活字はWebを通じて広く意見や見識や知識を普及し交換する事が出来る為なのですが、これも活字があってこそ。

活字文化というものは、日本では活字が有れば読む文化があり、文字に親しみ文章を工夫する価値観もあります。しかし辿りますと、こうした先人の努力が支えているとも思うのですね。今年もあと僅か、ふと、このお寺を紅葉の季節に拝観した事を思い出しました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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