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【京都発幕間旅情】尼崎城,平成から未来へ再建進む桜井松平氏の複合式層塔型四重四階天守閣

2018-10-17 20:06:58 | 旅行記
■平成時代いちばん新しい天守閣
 尼崎城、行って参りました。1873年廃城令により失われた天守閣、その再建が進む様子を紹介しましょう。

 平成の御世も天皇陛下が御譲位され本年限り、即ち平成最後の年という事になりました。平成最後の、という言葉ですが考えれば様々な紀元の節目というものがあるものでしょう、そして平成最後の天守閣、というものが現在11月の落成に向け建設が進められています。

 尼崎城、兵庫県尼崎市へ再建が進む城郭です。今年十一月に落成予定ですが、夏には天守閣の再建部分がほぼ完成しました。考えてみますと建設が進む天守閣の様子というものは中々見る事が出来ず、その威容はかの、台風21号や台風25号の強風にも耐え抜きました。

 琴浦城とも呼ばれる尼崎城、大垣より戸田氏鉄が移封された尼崎城は1618年には複合式層塔型四重四階の天守閣を冠しました。大垣城や急斜面を徒歩で踏破した赤坂明星輪寺、この様子は既に紹介しましたが、戸田氏鉄はこの道中記にて所縁の人物として紹介しました。

 安土桃山時代の天正年間まで遡れば、この尼崎城という名は荒木村重が主君織田信長へ反旗を翻した際、籠城した有岡城、伊丹駐屯地と千僧駐屯地の近く、この有岡城が落城の際に落ち延びた先が尼崎城、先月再放送のNHK大河ドラマ軍師官兵衛にて紹介されています。

 猪名野神社として伊丹駅前の有岡城縄張りの遺構が延びていますが、この有岡城と並ぶ尼崎城は、しかし、今日の尼崎城とは異なる場所にあり、これを区別して尼崎古城と呼ばれているとも。そして江戸時代に造営された壮大な城郭が、現在、再建されつつあるという。

 桜井松平家が尼崎藩主として正徳年間の1711年に移封、幕末までこの地を治めています。最後の藩主松平忠興は日本赤十字創設に尽力した事でも知られ、実は現在進む天守閣再建はその建物こそ新しいですが、江戸初期の天守閣を再現するという壮大な取組なのですね。

 阪神尼崎駅、元々尼崎城はこの目の前にありましてその周りの大物川と庄下川といった河川も外堀として機能していたという、そして城郭の遺構は明治以降、廃城令により地上に残るものはありませんが、指呼の距離にある桜井神社は城郭遺構に建立されている、とも。

 桜井神社へ昨年、散策途中に道に迷った御縁で参拝し興味深く本殿を眺めていたところ、宮司の方にご案内を頂きまして、目的地の難波八幡神社、戦艦榛名マストが現存する神社が見当違いの場所という事と尼崎空襲の話、そして尼崎城のお話を聞かせてもらいました。

 戦艦榛名マストにはその後に辿り着きまして、成程見当違いの場所を散策していたのだなあと、ふらり旅の塩梅は難しいという実情を知りました次第ですが、今まさに再建途中である城郭の天守閣が直ぐ間近にある、と奇遇な話題には少々興奮を覚えました次第です。

 複合式層塔型四重四階天守閣は明治初期の1873年廃城令により取り壊され現存しません。ただ、桜井松平氏はいち早く新政府へ恭順の意を示した事で徹底的な破壊は免れ、本丸御殿などは残りました。しかし、その本丸御殿も第二次世界大戦中の空襲で全損してしまう。

 安保詮氏、尼崎城は遺構だけとなりましたが転機となったのは一人の実業家の篤志でした。旧ミドリ電化、現エディオンの創業者である安保詮氏が創業の地に恩返ししたい、としまして私財10億円を寄付、これにより長く城址公園であった跡地へ天守閣が再建されます。

 平成最後の天守閣は来月落成、2019年の早春から内部一般公開が予定されています。この撮影は中部方面隊創設記念伊丹駐屯地祭の帰路、有岡城前から転進し撮影、更にこの十数分後に撮影したG7Xを落として壊す残念な事となりましたが充実した撮影となりました。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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