上ノ国にある「旧笹浪家」の所にある「にしん街道」の木柱を訪ねた。その説明版にの中に「大蔵鰊」という伝説があり、旧笹浪家から「上ノ国八幡宮」への参道入り口にある民家の外壁に
旧笹浪家とにしん街道木柱
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/67/8fcf5bc2e81536cae2ffb0ec571e1a99.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/70/4072a9b4e04ef264d99f10ce2386a266.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/fe/77790a68efe2809b7a122fd740caa263.jpg)
「大蔵鰊伝説の跡」という木版がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/2b/0f7aade6a72f90fba63659141ec0c4c2.jpg)
にしん街道の説明板を読むと「大蔵鰊」についてかいてある。また、菅江真澄遊覧記 2」(内田武志・宮本常一編編訳)を読むと当時、彼が見聞きしたことが記されている。
因みに菅江真澄は江戸時代 宝暦4年(1758)三河国に生れ、寛政元年~3年にかけて江戸地を旅した国学者。元年松前の沖の口に上陸した。
遊覧記の一部引用
『菅江真澄は松前から江良・小砂子、メノコ鷲居の浜辺の道を通ったり、時には漁師の船に乗せてもらったりして、汐吹きの浦にきている。上ノ国について、むかし勝山といって、此の島に領主の祖先が を定めたところで、漁師にさしずしている老人が語ったということ・・・華徳山上国寺のかたわらの大きな梅の木があり、梅が咲いている。松逕上人(むさしの国からきた)が言うには「この花が咲きはじめるともうニシンと云う魚は群れてこなくなると言って人々はみな嘆く。だから、この梅の花が早く咲かないことを被とはみな願い、咲いたころには浦の人たちはうらみののしっている。寺の門を出ると神社があり「何の神を祀るのか」とたずねると「にしん神です」と答えた。百年のむかし大蔵法師秀海という修験者が庵をむすんで修行しておられた。
ところがある年とくににしんの群れがまったく来ず、ひどい不漁に浦々の人すべてが嘆いているのを秀海法師が聞いて「お前たちがせちに願うのであれば、私は神に実情を訴え、祈ってにしんをとらせるようにしてやろう・・・』と云い法師は身を清め祈ると・・・海いっぱいにかもめが群がり、クジラは大波を起こしてしおを吹きあげ餌をあさった。これはみなにしんの群れがきた証拠である。
にしん街道の説明版にはその他「村人たちは大漁になったとたん、群来は自然のものと難癖をつけたので、山伏(秀海法師のこと)は怒りのあまり食べ物を断って死んでしまいました。・・・翌年江差には群来しましたが、上ノ国には群来せず、祟りもあったので、村人は恐れて山を神として祀ったそうです。以後、他の村にはにしんが来ても、上ノ国では神の効験があって大漁の年もあったそうで、これを人々は「大蔵鰊」と言って不思議そうにしていたという。
上ノ国に暮らす人たちはこれを「大蔵鰊」といって謙虚に学び地域の歴史や文化を掘り起こし未来への確かな手がかりとつけたいと考えています。・・・と記されている。
「史傳若宮社跡」
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上ノ国八幡宮には秀海の御霊が若宮として祀られている。
また、上ノ国八幡宮は文明5年(1473)武田信廣が勝山館内に館神として創建した社で北海道神社史上貴重な存在であると・・・。
上ノ国八幡宮鳥居と社殿の彫刻
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/9c/b19a9c1167fcad15815d95e3c6d16c29.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/3e/83452feafd6e49246228c66a85c9dcbb.jpg)
旧笹浪家とにしん街道木柱
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「大蔵鰊伝説の跡」という木版がある。
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にしん街道の説明板を読むと「大蔵鰊」についてかいてある。また、菅江真澄遊覧記 2」(内田武志・宮本常一編編訳)を読むと当時、彼が見聞きしたことが記されている。
因みに菅江真澄は江戸時代 宝暦4年(1758)三河国に生れ、寛政元年~3年にかけて江戸地を旅した国学者。元年松前の沖の口に上陸した。
遊覧記の一部引用
『菅江真澄は松前から江良・小砂子、メノコ鷲居の浜辺の道を通ったり、時には漁師の船に乗せてもらったりして、汐吹きの浦にきている。上ノ国について、むかし勝山といって、此の島に領主の祖先が を定めたところで、漁師にさしずしている老人が語ったということ・・・華徳山上国寺のかたわらの大きな梅の木があり、梅が咲いている。松逕上人(むさしの国からきた)が言うには「この花が咲きはじめるともうニシンと云う魚は群れてこなくなると言って人々はみな嘆く。だから、この梅の花が早く咲かないことを被とはみな願い、咲いたころには浦の人たちはうらみののしっている。寺の門を出ると神社があり「何の神を祀るのか」とたずねると「にしん神です」と答えた。百年のむかし大蔵法師秀海という修験者が庵をむすんで修行しておられた。
ところがある年とくににしんの群れがまったく来ず、ひどい不漁に浦々の人すべてが嘆いているのを秀海法師が聞いて「お前たちがせちに願うのであれば、私は神に実情を訴え、祈ってにしんをとらせるようにしてやろう・・・』と云い法師は身を清め祈ると・・・海いっぱいにかもめが群がり、クジラは大波を起こしてしおを吹きあげ餌をあさった。これはみなにしんの群れがきた証拠である。
にしん街道の説明版にはその他「村人たちは大漁になったとたん、群来は自然のものと難癖をつけたので、山伏(秀海法師のこと)は怒りのあまり食べ物を断って死んでしまいました。・・・翌年江差には群来しましたが、上ノ国には群来せず、祟りもあったので、村人は恐れて山を神として祀ったそうです。以後、他の村にはにしんが来ても、上ノ国では神の効験があって大漁の年もあったそうで、これを人々は「大蔵鰊」と言って不思議そうにしていたという。
上ノ国に暮らす人たちはこれを「大蔵鰊」といって謙虚に学び地域の歴史や文化を掘り起こし未来への確かな手がかりとつけたいと考えています。・・・と記されている。
「史傳若宮社跡」
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上ノ国八幡宮には秀海の御霊が若宮として祀られている。
また、上ノ国八幡宮は文明5年(1473)武田信廣が勝山館内に館神として創建した社で北海道神社史上貴重な存在であると・・・。
上ノ国八幡宮鳥居と社殿の彫刻
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