気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

松浦武四郎の足跡(道東エリア)-5厚岸~別海

2011-12-19 22:25:46 | 日記
2011年9月7日快晴(気温19℃)釧路のホテルを早朝にスタートし、国道44号線から厚岸に向かう。厚岸駅前の氏家待合所で「カキ弁当」を昼食用に購入。店の壁に整いました!で有名なWコロンさんのサインがあり、お店の人は「駅弁の旅」で来たんですよ・・・と。
 厚岸大橋を通過し、道に「お供山展望台」という案内看板を見て、寄り道。厚岸大橋の全景の撮影スポットでは・・・と思ったので小山を登った。登り口付近の家のご主人に登られるか聞いたところ、「あまり人は登らないよ・・・車はここに止めていいよ。」物好きな人がいるもんだね・・・と思われたよう、家の横に駐車させてもらった。
低い山ですが結構傾斜あり、頂上には「チャシ」と「展望台」があった。
厚岸大橋全景(向かい側が厚岸湖)と「鹿落しチャシ跡」          鹿を追い落として狩りをしたといわれ、崖下から鹿の骨が出土したとのこと。昭和35年史跡に指定されている。チャシとはアイヌ語で柵囲い・館・砦などを意味すると厚岸教育委員会の説明板がありました。

国泰寺跡と正門(葵のご紋が付いている)
    
 国泰寺跡の横の案内には「江戸時代後期、蝦夷奉行の願い出により幕府が和人の定着に慰撫。
蝦夷地の教化及び法務活動を行わせるために、文化元年(1804年)に建立した蝦夷三官寺(様似の等澍院、有珠の善光寺、厚岸の国泰寺)の一つで、第十一代将軍徳川家斉の直願寺として臨済宗鎌倉王山派に属し、十町四方(約9.9ヘクタール)の風除林を加えて造営された。現存する建物はほとんどが、後代の改修を経ているが、よく江戸時代のたたづまいを伝えており、蝦夷地に於ける特異な歴史的役割を果たした寺として重要なものがある。」厚岸町教育委員会
とある。(有珠の善光寺は訪ねているので、この次は日高の旅で様似の等澍院を訪問予定)
境内には古い桜の木がある。1830年アッケシ請負人山田文衛門が奥州石巻から移植したと伝えられ、樹齢160年を超える古木で北海道の銘木に選ばれている。(今年は大震災で石巻も大変な被害であるが、アッケシと桜で結ばれてもいるんですね・・・。石巻の方に伝えたいですね。)
「神明寺跡の松浦武四郎の歌碑」
説明案内板には「安政三年千島の探検に幕府巡察使最上徳内は、北辺鎮護と夷人教化の必要を痛感し、帰途厚岸に立ち寄って幕府に上書し、ここに社殿を造営した。また、安政五年、松浦武四郎は厚岸記行(※紀行とは書かれていなかった。)の折、この神明社に詣で『はるかなる此島かげに いかにして鷲の山風ふきかよいけん』と詠んだのもこの地である。神明社とは厚岸神社の草創稀代の社名で、その後神明社、亀甲社等と呼称されたこともあったが、明治八年厚岸の総鎮守神社と改称し、今日に至っている。」昭和五十九年、厚岸町教育委員会建設・・・と書かれてあった。江戸時代後期の北方調査の歴史を感じた。
厚岸神社   
「アイヌ民族弔魂碑」 国泰寺境内の入り口に石碑がある。これは先住のアイヌの人々に和人が残酷な搾取をしたり、労働を強制し、多くの命が奪われたことに対する弔魂である。
霧多布の松浦武四郎歌碑   
 台風の影響で霧多布の岬の海は大荒れと強い風g吹いていた。岬の駐車場から歩き、湯沸灯台の先を進むと松浦武四郎の歌碑がある。木製なので文字はかすかに読める状態。
歌は「かねてより あらきしほ路きりたふの 島根にたかく よする志らなみ」と書かれているはずである。

別海町「加賀谷文書館」この資料館は江戸時代後期に秋田県から来た加賀谷一族の持つ蝦夷地の貴重な資料や松浦武四郎から加賀谷伝蔵に贈られたものを展示されている。
壁にある年譜には室蘭に「ブロートン」の来たことや、五稜郭の箱館奉行所のイラストなどが記載されている。(ブロートンはイギリスの航海探検家でヴロビデンス号で室蘭に寄っている。)
 松浦武四郎より伝蔵に贈られた資料