気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

道南の伝説:門昌庵事件

2018-01-13 20:53:41 | 旅行
道南西部方面にある熊石町は以前は爾志郡であったが、町村合併によって二海郡八雲町熊石となっている。現在は国道も整備されて絶景の日本海奇岩を眺めながらドライブできるが、昔は交通の不便なところだったとのかと思う。近くにはあわび山荘や平田内温泉もあり、現在は「久遠郡」という自治体の区分はなくなった。
久しく遠い・・・というイメージはない。
 この地については蝦夷地探検家の松浦武四郎も「渡島日誌」巻之参で平田内温泉やヤンカ岳・冷水岳にも触れているが、『ヤンケ岳に近しと佐平衛(案内人)は云いしかど、其の用意もなければ帰りぬ。』と山登りの準備がないので、諦めたということを記録している。さらに『川を越えて人家つづき、則熊石村なり。弥助崎上に戒社有、ボウシ岩、畳岩二つならび海中に有。上は平山。イシンボウ先、中歌、根崎、上に門昌庵禅宗大神宮、明專寺一向宗、勢至堂浄土宗等云有。』と地域の探検調査の記録がある。
また、江戸後期の国学者、紀行家である菅江真澄も松前の沖の口に着いてから、道南の松前・江差から日本海側太田神社西側では戸井町・豊浦方面を旅し、歌碑や文献にも残っている。
彼の著書「えみしのさえき」に熊石の門昌庵について記述がある。
≪熊石≫
『ちかとなりの門昌庵という、寺めける庵に、常陸国多賀郡よりすすめる実山上人をとぶらふ。上人ものがたりして、この庵は、福山の法幢時の六世にあたる柏巌峰樹和尚として、世に聞こえあるすけ(出家)ながら女ごころありけるよし、人のざうげんにて、山越しのつみとて、この浦にながされておはしたるをりしも建給ひて、をこない給ひしをいよいよいよざうげんいひそへて、猶つみやおもりかに、きらるべきのうて(討手)むかひしかば、峰樹やすからず、われ、なき名にくもりていまこゝにきられ(斬られ)なん。よし、いのち(命)はめされるとも、たましゐはあめ(天)にとび、つちにはしりて、此のうらみはるけんと、りしぶをとり、かさぐりにくりて、うたれ給ふ。その頚を、福山にさらすべきとてもてまいるに、みち遠ければ、江差の寺に一夜とどまりてけるほどに、そのくびおきたるひとまより火のいでて、此寺のこり(残り)なくやけ(焼)、そのうらみしげしげなりしかと、ところどころのおほんいりのしるしにて、いまはゆめなけんとか。』と実山和尚の語る門昌庵の記述。
熊石町史

 熊石町史の中にも「門昌庵事件」として「熊石と云えば門昌庵といい、門昌庵と云えば柏厳和尚と、道南地方の人でこの事件を知らない人は一人もないほどで、すでに三百年以余も経過しているのに何故だろう・・・」ともある
道南五霊場の一つ門昌庵全景

因みに説明版によると、門昌庵の赤門は京都の桃山御殿の裏門を五代慶広が豊臣秀吉から賜ったもので、後に十四代章広が門昌庵に寄進したものである。熊石観光協会
門昌庵の説明版(要約)

『松前藩は重大矩広活世で太平に流れていたが、たまたま奸臣一派が藩政をほしいままにし、その陰謀に巻き込まれた柏厳禅師は延宝五年(一六七七)に熊石に流刑となり、此の地の地蔵堂に「門昌庵」と名付け読経の日々を過ごしたが、翌六年十に月斬首に処せられ四十五年の生涯を閉じた。死に臨み、大般若経を朗誦すると小川が逆流するなど異変が続き、天罰と恐れた藩では門昌庵の傍に手厚く葬ったのである。』
門昌庵開山柏厳和尚山脈

柏厳和尚が迎えられた松前の法幢時

説明版の中に・・・
『開創、再建について諸説があるが、文明二年(一四七〇)若狭国遠敷神通寺出身の宗源和尚が大館に創建・・・天文一〇年(一五四六)松前家三世義広、四世季広(すえひろ)の二大にわたり、再興・・・以後松前家の菩提寺となり・・・、明治元年(一八六八)箱館戦争の折り、御用火事に遭った・・・。道南で有名な伝説「門昌庵事件」の主人公柏厳和尚はこの寺の六代目住職であった。   松前町』と書いてある。次回は今まで、菅江真澄の歌碑を訪ねたところをまとめてみよう・・・と思っている。



史跡探訪で出会った灯台その(7)石狩市・はまなすの丘公園内、石狩灯台

2017-11-05 11:40:59 | 旅行
2017年10月、浜益へ向かう途中、石狩市はまなすの丘公園に向かいました。このエリアは歴史公園でもあり、先人たちの碑がある。
 また、石狩灯台は映画「喜びも悲しみも幾歳月」のロケ地にもなった所。雄大な石狩川左岸(河口に向かって、左側)の砂丘にある。
 燈台はかって白と黒の縞模様であったという。

説明版には
 『明治25年(1892)開設。道内最古のもの。
   初点灯 明治22年1月1日
   当初は木造六角形で白黒2色だった。』
燈台の写真



石狩川が見える場所の灯台


映画のテーマ

 「俺ら岬の 燈台守は 妻と二人で
   沖行く船の 無事を祈って、灯りをかざす・・・」と刻まれている。

史跡探訪で出会った灯台その(2)稚内市ノシャップ岬灯台

2017-08-17 10:36:42 | 旅行
稚内市を訪ねたのは、「道北の釣りと旅」のホームページ管理者の福士さんから頂いた情報「猿払村と声問に松浦武四郎の新しい史跡案内版が出来たよ~」ということで道北の旅に出ました。
 尊敬する松浦武四郎の著書「戊午東西蝦夷誌目録」秋葉實解読の中に、声問や稚内についての記録があります。
因みに、彼は宗谷地域を3度訪れている。(※ 声問の宿営地碑の記録より)
  弘化三年(1846)
  安政三年(1856)
  安政五年(1858)
声問川・ノシャップ岬について
『六月五日、ソウヤ運上屋を出立てしてコイトイ番屋に到り、是より小舟に棹さし川まゝ上り、シュブントウを廻り、其の水源のあらましを志るす。・・・コイトイ番屋元を六月七日出立して、クシャルプト(※現在の南稚内)え到り、シリクラエンルン、トウベンナイ等を過ぎて、ノシャフ岬を廻り、本道なるルウランにて出会、バッカイ番屋元に到る』と記録し、彼はさらに「現在の根室にも同名有り・・・(納沙布岬のこと)と「北岬日誌と置なれども・・・」とこだわりを現わしている。

稚内では土木遺産になっている「稚内港北防波堤ドーム」を見て、稚内公園に立ち寄り、ノシャップ岬にいった。
夕日が絶景という所であるが、次の予定時間もあり、夕日は諦め、イルカのモニュメントや灯台を写真に収めた。
後日、稚内灯台について調べた。
 「野寒布岬」に立つ灯台は、高さは北海道で一番(42.7m)
  当初はノシャップ岬の丘陵地に建てられたが、昭和41年、ノシャップ基地の拡張により現在地に移設された。
  初点灯は明治33年(1900)12月10日
この灯台は宗谷海峡の航路を守る重要な役割があった。
1900年頃というと、日露戦争が1904年からなので、この戦争を見ていたのではないか・・・と想像しましたが・・・果たして灯台はロシア艦隊を見たか・・・?

稚内声問川の側の松浦武四郎「宿営の地」碑

稚内港北防波堤ドーム

ノシャップ岬

稚内灯台とイルカ

旧稚内灯台は映画「喜びも悲しみも幾年月」のロケ地の一つであった。

史跡探訪で出会った灯台その(1)初山別の金毘羅岬灯台

2017-08-16 15:05:56 | 旅行
「北海道」の名付け親でもあり、安政の探検家である松浦武四郎の蝦夷地足跡を訪ねて、蝦夷地徘徊、史跡のほかにも、偶然にも出会った灯台もあり、その存在に気になる所もある。
その中でも、松浦武四郎著「西蝦夷日誌」にある「初山別」という場所。
 以前(数年前)、私たちは、雄冬や増毛・留萌・小平の彼の史跡や像を見、オロロンラインの国道232号線を北上し、天塩に向かう途中、天文台がある初山別に寄り道した。
 武四郎の記録には初山別について
『笘前領(苫前)に
 シロチャナイ(小澤)、此邊惣じて赤崩岸にて埋もれ木多く出たり、チョチョナイ(小川)名義。水も沙も宜しき處との義、水崩岸より滴落、濱は沙堅くして歩行よし。シュシャンベツ〔初山別〕(小洲)、本命ソウサンベツと云よし、瀧落る川との義なり。澤目畑地に可ㇾ宣と思はる』
とその辺りの地域について記録している。

天文台の先は「みさき公園」となってキャンプ施設などもあるが、目に入ったのは灯台である。
初山別天文台

みさき公園(キャンプ用ログハウスがあり、下方に浜辺・・・

金毘羅岬灯台
この灯台は「金毘羅岬灯台」といい、プレートには

~金毘羅様と共に海の安全を守る~  金毘羅岬という地名の由来は、この海域を航行する船舶ふぁ夏季は濃霧、冬季は日本海からの強風と吹雪で進路を誤り、多くの会なんが発生したことから、金毘羅様を祀ったことによると言われている。北海道西岸を航海する船舶の道しるべとして、大切な働きをしている。』
初点灯 昭和44年10月31日
 灯台の存在を改めて感じた。初山別の岬公園から、天塩川方面の松浦武四郎の足跡を続けた。

松浦武四郎著「渡島日誌」にある福島町殿様街道を歩く

2017-05-20 21:27:43 | 旅行
2017年5月18日、安政の探検家、松浦武四郎著「渡島日誌」第壱之巻に記録のある古道、現在は福島町千軒地区にある通称「殿様街道」をウオーキングしてきた。
彼の書物には
『知内川、源千軒岳にして、岳の南西の川是に集まる。ハキチャリの東にて東西の川々と合わせて知内川に至る。・・・此の岳元和の頃開礦に成りし時は、麓に山丁(かなほり)千余軒も移住して住みしと。依て此名有なり。・・・越えて休息所茶屋一軒有。・・・しばし過ぎて茶屋峠、知内峠とも云。右の山方山脈千軒岳、左知内岳に距る。四時とも雪有て眺望よろし。此所を以て知内、福島の境とす。九折恰も蜀嶮の桟も如ㇾ此と思はる処をしばし下り従十八丁峠下人家一軒。・・・・是福島川の右股の源なり。福島川、源は此所より左峠の後ろに入り、千軒岳の麓に至る。水清冷にして魚類少し。・・・予三月頃(注釈:安政三年四月二日・・・陽暦5月5日)深雪の中通行せし時、辛夷(こぶし)処々に咲きたるを見、また山芍、福寿草、白根葵・・・雪間に萌出て咲きたりしが、いとおもしろかりし。』とこの古道のことを書いている。
私たちが歩いたのも5月、彼よりすこし後の時期にあたる。山道には彼の記録にある「シラネアオイ」も散りそうな状態であったが、昔から咲いていたのだ。
松浦武四郎の記録にある「茶屋」と「茶屋峠」はコースの途中にある。

「殿様街道」入り口の説明版。奥の方に残雪の千軒岳が遠くに見えている。

私がウオーキングの参考に持って行ったのは知人のsakagさん「一人歩きの北海道山紀行」hpの管理者)のコースマップです。

最初は、「熊出没中につき・・・」の看板がある「クリ林」の奥からブナの快適な山道をしばらく歩いて「砲台跡」の広場に着く

「砲台は明治元年10月末頃作られ、砲・300匁2門設置」とあり、調べると、松前藩が箱館戦争に備えて急遽設置したらしい。土方歳三率いる700人が松前城へと向かうということへの対処。
砲台写真

白根葵

途中にあった道しるべ「知内領・国鉄松前線跡」

しばらく歩いて「ブナの森100年観察林」の標識があった。森林は大満足・・・空気が爽やかで、美味しい。

国鉄松前線跡と茶屋跡への道しるべもある。

旧国鉄松前線跡(茶屋沢鉄橋)

鉄橋2・トンネルは閉鎖されている。

説明版には開通 昭和17年11月1日 48,56m(福島地区)
     廃止 昭和63年1月3日
鉄橋を渡り、急な坂に張られたロープを使いながら、下り、丸木橋の架かった川を何箇所か通り、茶屋跡に着いた。

茶屋跡

殿様街道と書かれた古い木柱

ブナの巨木・兵舞林道分岐の標識がある。兵舞林道は福島川に向かうようなので、茶屋峠方向へ行く。

ブナの巨木

説明版によると、樹齢約200年、幹周り335㎝、樹高24mで、地元の古老によると御神木として大切に保護してきたとのこと。
新緑の中、野鳥の鳴き声を聴きながら、アップダウンがあり、結構大変な街道と感じたので、昔の人はこの道を使うした交通手段がなかったのか・・・殿様は馬に乗ったのか、それにしても細い道急な道、楽な道ではないと感じた。
でも松浦武四郎の通過した時代に茶屋があったのだから、茶屋で働く人・松前から箱館方面への旅人も休憩所を必要としたということ・・・ですね。
この街道は約3時間位のコースとのこと。私たちは大自然を満喫しながらと言いたいが、年齢的にゆっくりペース。
勿論このエリアはクマのテリトリーであるので「入らせてください・・・」という思いと「出会わないように」鈴を鳴らしながらでした。
最後の目的地「茶屋峠」に着いた。

茶屋峠で休憩して、その後は緩やかな下り坂で、駐車した場所近くに到着。