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詩篇31篇

2010年02月09日 06時23分38秒 | 詩篇
 恐らくサウルから逃れていた時に作られたものなのだろう。敵に囲まれ、追い詰められた時に、読むべき歌である。イエスもまた、十字架の苦しみの中でこの詩篇をくちずさんで言った。「私の霊を御手にゆだねます」(5節)。
 ダビデは振り返る。敵が自分に何をしたかを。敵は、失脚を狙ってひそかに網を張った。その網にすでにひっかかっている自分を思わされたのだろう「私をねらってひそかに張られた網から私を引き出してください」(4節)。と祈っている。実際、敵は、親友の忠誠を崩すことに成功してもいた。ダビデを暖かく見る者はいなかった。だれもかれもが疑惑の目で彼を見た。不思議なことであるが、一旦風向きが変わると、どうすることもできないということが人生にはある。根も葉もない噂が立って、それを消し去ろうにも消し去ることもできない。親友までもが、疑惑の目で見るようになるということがある。
そのような状況の中で、ダビデは、さらに病を患たようでもある。(10節)外側の敵のみならず、体内に巣くう敵というべきか。内からも外からも魂が責めたてられていく。まさにダブルパンチ。自分は屍であり、壊れた器である。ゴミ捨て場に捨てられ、誰からも顧みられることのない、忘れ去られていく壊れた器。なんと寂しい心境であろうか。
「しかし、主よ。」ここがついていけない。こうなれればいいのになあと思う人は多いのではないだろうか。しかししかしなのだ。ダビデの言い分は、「あなたこそ私の神です。私の時は、御手の中にあります」(14節)。考えてみればじたばたしても始まらない。敵に囲まれ、首根っこを掴まれてまさに首を打ち落とされそうになった所で、じたばたするのは見苦しい。ならば、潔く、打ち落とされて、真実は動かぬことを印象づける方がよい。イエスは、十字架の苦しみの中で、悔い改めた強盗にパラダイスを約束し、つまりは最後の最後まで淡々と救いの職務を全うし「私の霊を御手にゆだねます」と祈りつつ、息を引き取られた。そこに敵が打ち落としえぬ、イエスの魂の真実さが語りつくされている。そしてイエスの十字架は敗北ではなく、救いの完成という勝利であったのだし、イエスの屍は、復活へと続いたのである。あれもこれも神の御赦しの中で、連続して起こっている事柄である。
壊れた器と自分のことを思うことがあっても、感傷的にその状況に浸り続けることは止めよう。また「私はあなたの目の前から絶たれたのだ」とあわててふためくことも止めようではないか。
むしろ、敵に囲まれた時の最善は、神を信頼し、神を待ち望み、神のあわれみを讃えることである。「ほむべきかな。主。主は包囲された町の中で、私に奇しい恵みを施されました」と信仰を持って、主が正しい者になされることを待ち望むことである。神の前に真実であるならば、敵に囲まれても堂々としていよう。

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