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詩篇137篇

2010年05月26日 06時27分42秒 | 詩篇
 戦争の傷跡、悲しさを感じさせるというべきか。最後は何か憤りをかきたててくるような詩篇である。しかもこれまでの詩篇にはない、捕囚の時代に起こった経験を振り返っている。
 バビロニヤに捕囚として連れ去られた時に、余興としてエルサレムの歌を歌えと絡まれた経験。こういうことは、日本がアジアの国を占領した時にもあったのではないか、と考えさせられるところでもある。敵国の人間に絡まれ、遊びに、大事な心の歌を歌えと求められる。そんな要求には応じられないと思うものだろう。
 7節以降は、その敵国の横暴とそれに加担したエドム人に対するのろいが語られる。聖書の中のこのような呪いをどのように考えればよいのか。「(敵の)赤ん坊を岩に投げつける人に、祝福があるように」(9節)。こんな暴言をどのように考えればよいのか。クリスチャンに、このような暴言は許されているのか?
 しかし、このような激しい感情の発露は、神もまた感じておられることなのではないだろうか。つまり、彼らの恥は、神の恥であり、彼らの憤りは神の憤りであり、彼らののろいは神ののろいであるということである。
 神もまた、バビロンの川のほとりですわり、泣いている彼らの気持ちをわかっておられる。神もまた、余興で主の歌を歌うようにと強要され、悲しんだ彼らの気持ちを知っておられる。彼らがどれほど、エルサレムを熱望し、敵に対して激しい怒りと憤りを抱いているのかをわかっておられる。
 黙示録の七つの教会へのメッセージを読むとなるほどと思うことがある。エペソの教会に対して、イエスは、「わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている」(2:2)と語っておられる。しかし原語の流れは「知っている!あなたの行いと、労苦と忍耐を」である。つまりイエスの知っていることに強調がある。同様に、七つの教会に対して、イエスは、スミルナの教会に対しては「知っている!あなたの苦しみと貧しさを!」と言っている。さらにペルガモの教会に対しては「知っている、あなたの置かれた環境を!」と言っている。神は、私たちの行いも、苦しみも貧しさも、そして置かれた状況も、皆知っている!わかっている!というわけである。
 この詩は、単純に読めば、最後には憤りをかきたてられるようなところがある。しかし、なぜこんなむき出しの感情を歌う詩が、詩編集の中に収められているかといえば、それは、私たちのそのような悲しみ、怒り、憤りを、神もまた感じておられることを、詩人も感じたからではないか。神もまたこんな不正は許されない。こんな悪は決して許されない。神も悪に対しては、このような表現を使うかは別として、私たちと気持ちは同じである、ということであろう。
 そういう意味で、私たちは善人になる必要はない。自分の感情を押し殺して、ものわかりよく、許すことばかり考える必要もない。間違いはどこまでいっても間違いなのであるし、不正は許されるべきことではない。神に正義を訴えて祈ることは大切であろうし、人間が感情の塊であることはよくわかっておられる。あるがままに神に祈ってみようではないか。ハンナのように、気持ちがはれやかになるまでに、ただひたすら、神に自分の気持ちを打ち明けてみようではないか。荒削りに、荒削りに、素直にさらけ出してみよう。

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