ヘブル語で読むと、この詩篇は、各行がヘブル語のアルファベットで始まるいろは歌になっていることがわかる。ヘブル語の最初のアルファベットはアーレフ、その次がベイト、ギメル、ダーレットとなるが、順にアーレフから始まる単語、ベイトから始まる単語、ギメルで始まる単語が各行の先頭に並び、最後のタウという単語で始まる行で終わっている。最初のハレルヤを除けばヘブル語のアルファベット数の22行でまとめられている。新共同訳は、丁寧に(アルファベットによる詩)と冒頭にカッコ書きが据えられる。112篇もそのようであって、111篇と112篇は対になっているようだ。実際、111篇は、主のみわざを称え、112篇は、主を称え、主を畏れる者の祝福を描いている。
七十人訳やラテン語訳の聖書では、ハレルヤに続いて「ハガイとゼカリヤの帰国について」と表題が付け加えられていることから、捕囚期後のものであると考えられている。
1節「直ぐな人のつどいと集会において」新共同訳では「正しい人々のつどい、会衆の中で」となっている。「直ぐな人」、「正しい人々」と訳されたヘブル語の形容詞はヤシャル。「まっすぐな道」(詩篇107:7)といった組み合わせで使われることが多い。「直ぐな」はそういうイメージがある。ただこの言葉は、倫理的、宗教的に、正しい人間の行為を言い表すのにも用いられる(伝道者の書7:29)。ここでは、義を求め、それを行うことに関心を持ち、道徳的にも、実践的にも正しい、会衆の性質を言い表しているのだろう。大切なのは、その連帯感だ。共に、主の民として主の正しさの中に生きる者の間にあって、主に感謝をささげる連帯感である。私たちの礼拝において重要なのは、まずこの連帯感を味わうことだろう。
<夜のディボーション>
さて一読、この詩篇は、神の御業を称える。その御業は熟読するとどうも、出エジプトのことのようだ。「奇しいわざを記念とされた」(4節)というのは、過ぎ越の祭りのことであろうし、「食べ物を与え」(5節)というのは、荒野のマナの経験のことを言うのだろう。「契約」(5節)は、アブラハムおよびシナイ契約のこと、「異邦の民のゆずりの地を、ご自分の民に与え」(6節)というのは、カナンの地に導かれたこと、「御民に贖いを送り」(9節)というのは、エジプトからの脱出のこと、また捕囚期以降にこれが書かれたということから、捕囚からの解放のことも言い含めていると考えられる。
このように、出エジプトの記憶を思い起こしつつ、捕囚からの解放の恵みを味わう、これが、旧約の民が共有した聖書の基本的な価値観である。さしずめ、私たちにとっては、イエスの十字架の記憶を思い起こしつつ、罪からの救いの恵みを味わう、ことになる。キリスト教信仰は、歴史的な遺産を持つ。歴史的な根拠に自分の信仰を築き上げていく。つまり、8節「世々限りなく保たれ、まことと正しさを持って行われる」と神の御業の繰り返しを、堅く信じていく。そういう意味で、9節は「ご自分の契約をとこしえに定められた」というよりも、「主は契約をとこしえのものと定められた」という方がよい。神の御業は個々バラバラに起こっているわけではない。一つの揺るがない歴史的大事件を基本とし、その小さな繰り返しとして起こっている。出エジプトが基本であり、捕囚がその繰り返しであり、私たち自身の信仰的な課題の解決もまたその繰り返しである。歴史には、神の御業の繰り返しが刻まれている。だからこそ、私たちは神を畏れなくてはならない。神を畏れる時に、「良い明察を得る」。慣れないことばを使うよりも、「すぐれた思慮を得る」で十分という気がする。いつでも神に心を開き、神に聴く者であろう。
七十人訳やラテン語訳の聖書では、ハレルヤに続いて「ハガイとゼカリヤの帰国について」と表題が付け加えられていることから、捕囚期後のものであると考えられている。
1節「直ぐな人のつどいと集会において」新共同訳では「正しい人々のつどい、会衆の中で」となっている。「直ぐな人」、「正しい人々」と訳されたヘブル語の形容詞はヤシャル。「まっすぐな道」(詩篇107:7)といった組み合わせで使われることが多い。「直ぐな」はそういうイメージがある。ただこの言葉は、倫理的、宗教的に、正しい人間の行為を言い表すのにも用いられる(伝道者の書7:29)。ここでは、義を求め、それを行うことに関心を持ち、道徳的にも、実践的にも正しい、会衆の性質を言い表しているのだろう。大切なのは、その連帯感だ。共に、主の民として主の正しさの中に生きる者の間にあって、主に感謝をささげる連帯感である。私たちの礼拝において重要なのは、まずこの連帯感を味わうことだろう。
<夜のディボーション>
さて一読、この詩篇は、神の御業を称える。その御業は熟読するとどうも、出エジプトのことのようだ。「奇しいわざを記念とされた」(4節)というのは、過ぎ越の祭りのことであろうし、「食べ物を与え」(5節)というのは、荒野のマナの経験のことを言うのだろう。「契約」(5節)は、アブラハムおよびシナイ契約のこと、「異邦の民のゆずりの地を、ご自分の民に与え」(6節)というのは、カナンの地に導かれたこと、「御民に贖いを送り」(9節)というのは、エジプトからの脱出のこと、また捕囚期以降にこれが書かれたということから、捕囚からの解放のことも言い含めていると考えられる。
このように、出エジプトの記憶を思い起こしつつ、捕囚からの解放の恵みを味わう、これが、旧約の民が共有した聖書の基本的な価値観である。さしずめ、私たちにとっては、イエスの十字架の記憶を思い起こしつつ、罪からの救いの恵みを味わう、ことになる。キリスト教信仰は、歴史的な遺産を持つ。歴史的な根拠に自分の信仰を築き上げていく。つまり、8節「世々限りなく保たれ、まことと正しさを持って行われる」と神の御業の繰り返しを、堅く信じていく。そういう意味で、9節は「ご自分の契約をとこしえに定められた」というよりも、「主は契約をとこしえのものと定められた」という方がよい。神の御業は個々バラバラに起こっているわけではない。一つの揺るがない歴史的大事件を基本とし、その小さな繰り返しとして起こっている。出エジプトが基本であり、捕囚がその繰り返しであり、私たち自身の信仰的な課題の解決もまたその繰り返しである。歴史には、神の御業の繰り返しが刻まれている。だからこそ、私たちは神を畏れなくてはならない。神を畏れる時に、「良い明察を得る」。慣れないことばを使うよりも、「すぐれた思慮を得る」で十分という気がする。いつでも神に心を開き、神に聴く者であろう。