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詩篇88篇

2020年01月12日 09時02分38秒 | 詩篇
88篇 主は最善を成す
おはようございます。今日の詩篇は、賛歌とありながら、実際には、心の悩みと苦しみを吐き出し、それで終わってしまう詩篇です。これが賛歌と呼ばれるところを、私たちは理解しなくてはなりません。つまり信仰は単純なものではないということです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.救いのない詩
 表題は、「歌。コラ人の賛歌」「指揮者のために。マハラテ・レアノテの調べに合わせて」「エズラフ人ヘマンのマスキール」と三つある。それだけ様々な機会に用いられた重要な詩であったのだろう。ダビデの時代に、レビ族の楽長であるサムエルの孫ヘマンがいた。またソロモンの時代にも同名の賢人がいた(1列王4:31)。いずれを指すのか、あるいは、別人を指すのかは、わかっていない。
この詩篇は一読、解放がない。救いのない苦悩の叫びと嘆きでとん挫している。詩篇の中で最も悲哀に満ちた詩であるとする者もいる。ヘマンは恐らく、何かしらの苦悩の内にあったのだろう。ヘマンは何度も叫び祈る。1節「昼、夜も」、9節「あなたを呼び求めています。あなたに向かって両手を指し伸ばしています」13節「朝開けに」と、彼はずっと懇願し続け、その中に絶望的な思いを吐き加えている。つまり自分が死に瀕し、復帰できない状況にあることを繰り返し語っている(4節、10節)。さらに親友からも見捨てられ、孤立無援の状態にあること(8節、18節)。そして神からの答えも解放もなく、この状態で死の世界にまで引きずり込まれるのではないか、という恐怖感すら残しながら、詩は途切れてしまうのだ。注目すべきは、詩人が、この状態のすべての背後に、神の怒りを感じていることだ(7節)。確かに最終的には、私たちの営みは、すべてを支配する神の一存によって決まるものだろう。神が私たちを高めもし、低めもするのである。
2.単純ではない賛美
こうしてこの詩篇には、「賛歌」と表題づけられながら、普通に期待する賛美も、信仰も表明されていない。ただそれは神に毒づく祈りである。そして、この詩人は今の不幸に、さらにこれまでの不幸の数々を思い出している(15節)。自分は思い返せばずっと不幸だった、と言うかのようだ。このような余裕のない、ただ毒づくだけで、神に叫ぶだけの詩が、それでも賛歌として愛称され、様々な機会に読まれてきたことの意味は何だろうか。
それは、信仰は綺麗ごとではない、ことなのだろう。罪の世の現実の中で、人は様々な形で神に裏切られたような思いになることがある。「神様に委ねましょう、神様がよくしてくださるから」と言われても、「そんなの嘘だ」と思うような時だってある。そのような時にこの詩篇は、私たちが正直になること、つまり、信仰者としてうわべを飾って、苦難があったって私は大丈夫です、と突っ張って生きなくてもよいことを教える。人が、毒づき、その感情を吐き出すことであっても、それが神への訴えであれば賛歌なのだ、と。綺麗に声を合わせながら、いいね!と歌うばかりが賛美ではない。実際、自らの惨状を訴え、神に泣きつく行為は、信仰を基本としている。最も深い悲痛を、ありのままに神に向けて叫ぶ、それは、不信仰ではなく、逆に信仰の証である。神の最善になおも希望を捨てきれない行為なのである。それは結び付きがたい「憤り」と「賛美」が結び付くようなものなのである(詩篇76:10)。
9.11同時多発テロ事件の際には、米国の教会の礼拝で詩篇88篇が朗読されたと聞く。あの時、誰が貿易センタービルの崩壊を見ながら、神に感謝し、私は敵を愛します、と言いえただろうか。信仰を綺麗ごとにせず、しかし不信仰にならずに、ただ叫び続けること、ただ神に泣きつくことをよしとしたのは、米国教会の成熟さの証拠だったように思う。ありのままの正直な信仰の歩みを導いていただきたいものだ。神の御前にあること、つまり教会にあるということは、そういうことなのだ。

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