様々なメタシリーズ(77)社会学系(22)
このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
初回作成日;2022.2.19 最終改定日;
TITLE: メタメッセージ
養老孟子が、あるところで「メタメッセージ」という言葉を使った。そのことは、「新型コロナと人生100年時代」(新聞通信調査会[2021])に示されている。
この書は、2020.11.7にプレスセンターで行われた新聞通信調査会が主宰するシンポジウムの記録で、A5版の小冊子になっている。主要部分は、養老孟子を含む4人のパネリストの対談だが、その基調講演を養老孟子が行い、その中で、「メタメッセージ」が説明されている。
『皆さんが、メッセージそのものの内容を聞いているときには、それを聞いていることによって受け取る「裏」があります。その「裏」というのは、メッセージの裏じゃなくて、今「メタメッセージ」と申し上げたようなことです。』(p.18)
彼は、その前段で「社会そのものの固定化」について述べている。平安時代の和歌、鎌倉時代の文学などは自由だったが、江戸時代以降は、社会の固定化が進んだ。そして、現代はそれが顕著になってきた。それは、「格差」として、また「スマホのボタン」などによって表されている。
『「なんで今そのボタンを押したのか」ということについては、「こうするにはここを押すしかないんだよ」って、こういう話になります。日常使うものですから,これに従うしかどうしようもないのです。』(p.17)
つまり、日常社会の色々なことの裏に、「社会の固定化のせいで、・・」というメタメッセージが隠されているというわけである。
さらにその前段では、「情報の特徴とは何か」について話をしている。彼は『意外に「情報とは何か」という議論が無い。まあ、分かっているということかもしれません。私は、これの特徴をよく考えます。それは、「時間と共に動かない」ということですね。』(p.15)
これは、例えば「動画」は動くが、何度見ても、どこでいつ見てもおなじ「動画」であることを示している。『情報をしょっちゅう扱っている人は、時間と共にひとりでに変化してゆくものについて、あまり考えない。つまり、毎日扱っている情報そのものが現実だと考えるようになります。しかし、その情報の特徴は、今申し上げたように、動かないって云うことです。』(pp.15-16)
この話は、彼の情報化時代に対するメタメッセージということなのだろう。一人の人間は常に変化しているので、情報で固定化されてはならないということか。
事例としては、「本人確認」の「本人」とは何かについての経験が語られている。養老孟子が銀行で「本人確認」を要求された。銀行員は、勿論彼とは顔見知りだが、マイナ・カードとか健康保険証を要求したが、彼はその場で持っていなかった。つまり、「本人」が目の前に居るのに、「本人」では「本人確認」ができない。
彼は、この現象を『本人は「ノイズ-雑音」なのです。』(p.19)と言い切っている。つまり、病院ではカルテが、会社の業務ではパソコン上のデータが「本人」であって、常に変化する「真の本人」はノイズが多くていちいち対応するのが難しい、ということのようだ。
Wikipediaでは、次のように説明されている。
『メタメッセージ(metamessage)とは、メッセージが伝えるべき本来の意味を超えて、別の意味を伝えるようになっていることを指す社会学用語。
グレゴリー・ベイトソンによって設定された概念であり、メッセージとメタメッセージという構図によってコミュニケーションを考えようとされた。ベイトソンによればこれはメタ言語的な位置づけの意味になるかと思えば、表現されたメッセージに対する裏の隠されたメッセージという意味にもなりうる。
デボラ・タネンによればメタメッセージというのは人間関係における立場や気持ちを伝えるものであり、しばしば真の意図を伝えるということになるものである。例えば親が子を叱る場合には、親が子の一段上に立って見下すような構図が見て取れる。ここからはまず人間関係におけるパワーの差や上下関係の差が伝わる。メタメッセージは、言葉の選び方、声の調子、トーン、表情、話すスピードなどといった言葉に覆いかぶさっているさまざまな要素によって伝わる。』
実は、このことは我が国では起こりやすい。日本社会では、ある一つの言葉から、その言葉の裏の情報を読み取ることを美徳としており、それができない人は社会的なコミュニケーションが不得意な人という認識を持たれることが多い。忖度が起きやすいのは、その一面だと思われる。
このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
初回作成日;2022.2.19 最終改定日;
TITLE: メタメッセージ
養老孟子が、あるところで「メタメッセージ」という言葉を使った。そのことは、「新型コロナと人生100年時代」(新聞通信調査会[2021])に示されている。
この書は、2020.11.7にプレスセンターで行われた新聞通信調査会が主宰するシンポジウムの記録で、A5版の小冊子になっている。主要部分は、養老孟子を含む4人のパネリストの対談だが、その基調講演を養老孟子が行い、その中で、「メタメッセージ」が説明されている。
『皆さんが、メッセージそのものの内容を聞いているときには、それを聞いていることによって受け取る「裏」があります。その「裏」というのは、メッセージの裏じゃなくて、今「メタメッセージ」と申し上げたようなことです。』(p.18)
彼は、その前段で「社会そのものの固定化」について述べている。平安時代の和歌、鎌倉時代の文学などは自由だったが、江戸時代以降は、社会の固定化が進んだ。そして、現代はそれが顕著になってきた。それは、「格差」として、また「スマホのボタン」などによって表されている。
『「なんで今そのボタンを押したのか」ということについては、「こうするにはここを押すしかないんだよ」って、こういう話になります。日常使うものですから,これに従うしかどうしようもないのです。』(p.17)
つまり、日常社会の色々なことの裏に、「社会の固定化のせいで、・・」というメタメッセージが隠されているというわけである。
さらにその前段では、「情報の特徴とは何か」について話をしている。彼は『意外に「情報とは何か」という議論が無い。まあ、分かっているということかもしれません。私は、これの特徴をよく考えます。それは、「時間と共に動かない」ということですね。』(p.15)
これは、例えば「動画」は動くが、何度見ても、どこでいつ見てもおなじ「動画」であることを示している。『情報をしょっちゅう扱っている人は、時間と共にひとりでに変化してゆくものについて、あまり考えない。つまり、毎日扱っている情報そのものが現実だと考えるようになります。しかし、その情報の特徴は、今申し上げたように、動かないって云うことです。』(pp.15-16)
この話は、彼の情報化時代に対するメタメッセージということなのだろう。一人の人間は常に変化しているので、情報で固定化されてはならないということか。
事例としては、「本人確認」の「本人」とは何かについての経験が語られている。養老孟子が銀行で「本人確認」を要求された。銀行員は、勿論彼とは顔見知りだが、マイナ・カードとか健康保険証を要求したが、彼はその場で持っていなかった。つまり、「本人」が目の前に居るのに、「本人」では「本人確認」ができない。
彼は、この現象を『本人は「ノイズ-雑音」なのです。』(p.19)と言い切っている。つまり、病院ではカルテが、会社の業務ではパソコン上のデータが「本人」であって、常に変化する「真の本人」はノイズが多くていちいち対応するのが難しい、ということのようだ。
Wikipediaでは、次のように説明されている。
『メタメッセージ(metamessage)とは、メッセージが伝えるべき本来の意味を超えて、別の意味を伝えるようになっていることを指す社会学用語。
グレゴリー・ベイトソンによって設定された概念であり、メッセージとメタメッセージという構図によってコミュニケーションを考えようとされた。ベイトソンによればこれはメタ言語的な位置づけの意味になるかと思えば、表現されたメッセージに対する裏の隠されたメッセージという意味にもなりうる。
デボラ・タネンによればメタメッセージというのは人間関係における立場や気持ちを伝えるものであり、しばしば真の意図を伝えるということになるものである。例えば親が子を叱る場合には、親が子の一段上に立って見下すような構図が見て取れる。ここからはまず人間関係におけるパワーの差や上下関係の差が伝わる。メタメッセージは、言葉の選び方、声の調子、トーン、表情、話すスピードなどといった言葉に覆いかぶさっているさまざまな要素によって伝わる。』
実は、このことは我が国では起こりやすい。日本社会では、ある一つの言葉から、その言葉の裏の情報を読み取ることを美徳としており、それができない人は社会的なコミュニケーションが不得意な人という認識を持たれることが多い。忖度が起きやすいのは、その一面だと思われる。
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