その場考学のすすめ(08)
・哲学からの再出発
その場考学と最も近い著書は、ハイデガーの「存在と時間」である。その場考学は、純粋な哲学とは基本的には大いに異なるのだが、時と場所とを最重要視する考察であるという点において共通のものがあると、勝手に思い込んでいる。
この「存在と時間」という書は、難解であるとの評判が高く、ハイデガーの研究の第1人者である、京都大学の木田 元名誉教授も2010年9月の日本経済新聞の私の履歴書でこの様に述べておられる。(O内の数字は、掲載回を示す)
「⑰ そのうち、現代ドイツの哲学者のハイデガーが、ドストエフスキーとキルケゴールの二人の影響を受けながら「存在と時間」という本を書き、無神論の立場で人間の在り方を分析していることを知った。
これだ、と思った。これさえ読めば生きる道筋が見えてくるにちがいない。さっそく古本屋にいって翻訳を買ってきた。当時1種類だけ翻訳があり、どこの古本屋にもころがっていた。
だが、読もうとしてもさっぱり分からない。いくらか読書の訓練は積んだつもりでいたが、文学少年が読んで分かるような本では無かったのだ。」
「⑳ ようやく読破、しかし…一度では理解にほど遠く。」
「(21)私がハイデガーについて初めて書くのは、「存在と時間」を読み始めてから33年後の1983年に、岩波書店の「20世紀の思想家」の一冊として書いた「ハイデガー」である。」
このように、「存在と時間」は一介の技術者が太刀打ちできるような代物ではない。しかし、彼に興味をもって図書館でありったけの 著書を借りて斜め読みを試みた。
幸い、図書館の書架の最初が100番台に分類される哲学であり、ハイデガーの著書は難なく見つけることができる。もっとも詳しいのは、昭和30年代から出版が続いた理想社の「ハイデガー選書」であった。その第18巻は「技術論」とある。これだ!、である。その中味を拾い読みしてみよう。
M.ハイデガー「技術論」理想社[1965.4.26]
この書は、小島威夫、アルムブルスターの共著となっている。冒頭には、「序にかえてー日本の友に」と題して、ハイデガーが1963.8.18に小島氏あてに書いた手紙が10ページにわたって示されている。そこから引用する。
『一般の通念では、技術とは数学的・実験的物理学を自然力の開発や利用に応用することと解されていています。そしてこの物理学の成立のなかに、西欧的近代すなわちヨーロッパ的なものの始まりが認められています。』(pp.6)
彼らは、技術を通じて世界がヨーロッパ化されることに注目をしていた。
『この自然科学の根本特質はかかる意味での技術的なものであって、それがなによりも近代物理学によって初めて、全く新たな独自な形態をとって現れてきたのです。この近代技術によって、自然の中に閉ざされていたエネルギーが打ち開かれ、その開発されたものが変形され、変形されたものが補強され、補強されたものが貯蔵され、貯蔵されたものが分配されるようになりました。
自然のエネルギーが確保される在り方が制御されるばかりではなく、その制御自身もまた確保されなければなりません。いたるところで、このように挑発し、確保し、計算するように自然を立たせることが、支配し統べているのです。
それのみではなく、遂には様々なエネルギーを手元に立ち上げるということが、あるがままの自然のうちには決して現れて来ないような要素や素材の生産にまで、拡大されてしまいました』
(pp.6)
ここでは、哲学者とドイツ語の独特な言い回しがあり、翻訳者を悩ませている。特に、「立ち上げる」は、ドイツ語のstellen(シュテレン)で、地上に横たわっているものを、垂直にするとの意味がもともとの解釈である。更に、「追いたてる、取り立てる,責め立てる」という意味が含まれている。この元締めがgestellenなのだが、これを「徴発性」と訳す場面が多い。
この文章の全体的な流れは、例えば鉄鉱石と石炭を掘り出して、製鉄を行い、それを様々な場所に移してものを作り、貯蔵をして利用するといった流れを想定すればよい。
『あるがままの自然のうちには決して現れて来ないような要素や素材の生産にまで…』とは、当時始まったばかりの核反応の利用を指していると思われる。
そして、『このさけることも制することもできない力は、その支配を全地球上に否応なく拡大してゆくばかりです。しかも時間的にも空間的にもその都度達成されたどんな段階をもたえず乗り越えてゆくことが、このちからの持ち前なのです。』(pp.7)
としている。人間は、技術の拡散を制することができないとの議論の始まりだ。つまり、科学技術が将来世界を完全に乗っ取ってしまうとの宣言になっている。
そして更に、
『人間は、ますます自己の人間性を喪失してゆく脅威の高まりの中に立っています。(中略)人間はこの立たせる力に売り渡されてしまって、自己の生存の本来の意義を塞ぎ立てられているのです。』と続く。(pp.8)
しかし、その先が本来の哲学になってくる。
『その際必要なことは、仕立てることに没頭したり技術的世界を観察したりする代わりに、むしろ私たちはこの立たせる力の統率から一歩引くことです。そこから引き退る歩みが必要です。』(pp.10)
『この引き退る歩みとは、決して過去の時代への思惟の逃避でもなければ、ましてや西欧哲学の復興を行っているのではありません。(中略)むしろ仕立ての進歩や退歩が生気している路面から抜け出す歩みなのです。』(pp.11)
『立たせる力は人間を呼び求め、その求めに応ずることを必要としています。だから、かく呼び求められている人間は、この立たせる力の本来的なもののなかへ一緒に所属してゆきます。人間はかくのごとく呼び求められた者であるということ、-これが世界の技術時代における人間の成存の固有なものを特徴づけています。』(pp.11)
『つまり世界の技術化の本来的な意味――を垣間見る閃きが、まさしく人間本来的なものへの到る道を教えてくれます。この本来的なものとは、人間が存在によって、存在の為に呼び求められている意味において、自己の人間性を特徴づけているものを行っているのです。(中略)
この力を制御しえない人間の行為の無能をひそかに暴露しているものです。しかしそのことは同時に、未だ覆い隠されているこの立たせる力の秘密に、自ら反省しつつ適応するようにという合図も含んでいます。』(pp.11)
ここに至って、「存在と時間」の匂いがしてくる。
以上の文章は、ハイデガーが日本の哲学者の小島威彦氏に1963年に送った文章として、序文に載せられている。
前述のように、「存在と時間」は専門の哲学者にとっても難解なので、この様な私信から入る方が良さそうだ。
「存在と時間」は、主に生と死に関するものなのだが、技術論としては、このように書かれている。
『科学的認識や技術的発明の前進は、この立たせる力の支配の結果、世界文明といったようなものを仕立てたり切り揃えたりするために、風土的・民族的に芽生えた国民文化が(一時的にか永久的にかはともかく)消え失せてゆくのです。』(pp.7)
人間が技術を支配している時間は短く、いずれ技術に人間が支配されるであろう、技術にはそのような力が備わっている、ということなのだが、ではどうするか。開発設計を行っていると、技術に関する決断を一日に何十回も行うことになる。すべて、その場・そのときに決断が必要になる。よほどの信念が無いと技術に支配されてしまう。その場考学の発想は、そこから来たのかもしれない。
「GEやRolls Royceとの長期共同開発の経験を通して得られた教訓 (その10)」
">>【Lesson10】世界中のエアラインの特徴を把握する[1980]
V2500エンジンの前に,RJ500のプロジェクトがあった,一切ののれん代無しに日英で50対50で短距離用エンジンの開発を進めようという,野心的な契約が交わされた。その第1陣のリーダー役として派遣された私は,マーケティングに始まるすべての部署のオリエンテーリングを受けた。
大型航空機用のエンジンは,生まれながらのグローバル製品である。世界中のすべての国のエアラインが顧客の候補であり,一旦運航が始まれば,世界中のすべての空港での離着陸が行われることを配慮しなければならない。駐機中に問題が発生すれば,その場で直さなければならない。
したがって,設計者は世界中のエアラインで起こりそうな問題を,できるだけ知っておく必要がある。たとえ中古機であっても,事故の原因がエンジンにあることは許されない。例えば,「英語のマニュアルが正確に読むことのできない空港でも,整備上のヒューマンエラーが生じない設計を考えること」,「日本人の手は小さく,指も細いが,世界にはグローブのような手を持った人種の国もある。そのようなところでも,on wingの整備で必要な個所には,手が入らなければならない」などであった。
また,エンジン会社よりもエンジンの詳細に詳しいエアラインがある。ドイツのルフトハンザ航空だそうだ。「彼らの最新かつ広範囲な知識も,身につけなければいけない。その情報は,マーケティング部門からもたらされる」も貴重な教えだった。
このように考えてゆくと,日の丸エンジンのスタートには,重要なものの多くが抜けていることが自ずと分かってくる。
【この教訓の背景】
日本の企業もかなりグローバル化が進んだと評価されるようになった。しかし、航空機用エンジンの常識からみると、すべては国際化であって、グローバル化、すなわち地球化でなない。ある特定の国や地域の文化に適合するように、製品の一部の機能やデザインを修正する、といったことが多いように思う。つまり、スタートから方向が違っている。
文明の条件は色々あるのだが、単純明快なものの一つが、「だれでも簡単に入手できて、利用できるもの」というのがある。司馬遼太郎がアメリカ素描で書いたように、Gパンは、取り扱いが容易でどこでも入手が可能で、見ればTPOが分かる。マクドナルドハンバーガーは、誰でもおいしい食べ方が分かる。
今は、情報が簡単に手に入るのだから、その気があれば世界中の文化を知ることができる。スタート時点で、どこまでの情報を入手し、分析をするかの気構えだけの問題であるように思う。
このことは、新製品の開発時の原価企画にあると思うのだが、それはまた別の話になってしまう。
・哲学からの再出発
その場考学と最も近い著書は、ハイデガーの「存在と時間」である。その場考学は、純粋な哲学とは基本的には大いに異なるのだが、時と場所とを最重要視する考察であるという点において共通のものがあると、勝手に思い込んでいる。
この「存在と時間」という書は、難解であるとの評判が高く、ハイデガーの研究の第1人者である、京都大学の木田 元名誉教授も2010年9月の日本経済新聞の私の履歴書でこの様に述べておられる。(O内の数字は、掲載回を示す)
「⑰ そのうち、現代ドイツの哲学者のハイデガーが、ドストエフスキーとキルケゴールの二人の影響を受けながら「存在と時間」という本を書き、無神論の立場で人間の在り方を分析していることを知った。
これだ、と思った。これさえ読めば生きる道筋が見えてくるにちがいない。さっそく古本屋にいって翻訳を買ってきた。当時1種類だけ翻訳があり、どこの古本屋にもころがっていた。
だが、読もうとしてもさっぱり分からない。いくらか読書の訓練は積んだつもりでいたが、文学少年が読んで分かるような本では無かったのだ。」
「⑳ ようやく読破、しかし…一度では理解にほど遠く。」
「(21)私がハイデガーについて初めて書くのは、「存在と時間」を読み始めてから33年後の1983年に、岩波書店の「20世紀の思想家」の一冊として書いた「ハイデガー」である。」
このように、「存在と時間」は一介の技術者が太刀打ちできるような代物ではない。しかし、彼に興味をもって図書館でありったけの 著書を借りて斜め読みを試みた。
幸い、図書館の書架の最初が100番台に分類される哲学であり、ハイデガーの著書は難なく見つけることができる。もっとも詳しいのは、昭和30年代から出版が続いた理想社の「ハイデガー選書」であった。その第18巻は「技術論」とある。これだ!、である。その中味を拾い読みしてみよう。
M.ハイデガー「技術論」理想社[1965.4.26]
この書は、小島威夫、アルムブルスターの共著となっている。冒頭には、「序にかえてー日本の友に」と題して、ハイデガーが1963.8.18に小島氏あてに書いた手紙が10ページにわたって示されている。そこから引用する。
『一般の通念では、技術とは数学的・実験的物理学を自然力の開発や利用に応用することと解されていています。そしてこの物理学の成立のなかに、西欧的近代すなわちヨーロッパ的なものの始まりが認められています。』(pp.6)
彼らは、技術を通じて世界がヨーロッパ化されることに注目をしていた。
『この自然科学の根本特質はかかる意味での技術的なものであって、それがなによりも近代物理学によって初めて、全く新たな独自な形態をとって現れてきたのです。この近代技術によって、自然の中に閉ざされていたエネルギーが打ち開かれ、その開発されたものが変形され、変形されたものが補強され、補強されたものが貯蔵され、貯蔵されたものが分配されるようになりました。
自然のエネルギーが確保される在り方が制御されるばかりではなく、その制御自身もまた確保されなければなりません。いたるところで、このように挑発し、確保し、計算するように自然を立たせることが、支配し統べているのです。
それのみではなく、遂には様々なエネルギーを手元に立ち上げるということが、あるがままの自然のうちには決して現れて来ないような要素や素材の生産にまで、拡大されてしまいました』
(pp.6)
ここでは、哲学者とドイツ語の独特な言い回しがあり、翻訳者を悩ませている。特に、「立ち上げる」は、ドイツ語のstellen(シュテレン)で、地上に横たわっているものを、垂直にするとの意味がもともとの解釈である。更に、「追いたてる、取り立てる,責め立てる」という意味が含まれている。この元締めがgestellenなのだが、これを「徴発性」と訳す場面が多い。
この文章の全体的な流れは、例えば鉄鉱石と石炭を掘り出して、製鉄を行い、それを様々な場所に移してものを作り、貯蔵をして利用するといった流れを想定すればよい。
『あるがままの自然のうちには決して現れて来ないような要素や素材の生産にまで…』とは、当時始まったばかりの核反応の利用を指していると思われる。
そして、『このさけることも制することもできない力は、その支配を全地球上に否応なく拡大してゆくばかりです。しかも時間的にも空間的にもその都度達成されたどんな段階をもたえず乗り越えてゆくことが、このちからの持ち前なのです。』(pp.7)
としている。人間は、技術の拡散を制することができないとの議論の始まりだ。つまり、科学技術が将来世界を完全に乗っ取ってしまうとの宣言になっている。
そして更に、
『人間は、ますます自己の人間性を喪失してゆく脅威の高まりの中に立っています。(中略)人間はこの立たせる力に売り渡されてしまって、自己の生存の本来の意義を塞ぎ立てられているのです。』と続く。(pp.8)
しかし、その先が本来の哲学になってくる。
『その際必要なことは、仕立てることに没頭したり技術的世界を観察したりする代わりに、むしろ私たちはこの立たせる力の統率から一歩引くことです。そこから引き退る歩みが必要です。』(pp.10)
『この引き退る歩みとは、決して過去の時代への思惟の逃避でもなければ、ましてや西欧哲学の復興を行っているのではありません。(中略)むしろ仕立ての進歩や退歩が生気している路面から抜け出す歩みなのです。』(pp.11)
『立たせる力は人間を呼び求め、その求めに応ずることを必要としています。だから、かく呼び求められている人間は、この立たせる力の本来的なもののなかへ一緒に所属してゆきます。人間はかくのごとく呼び求められた者であるということ、-これが世界の技術時代における人間の成存の固有なものを特徴づけています。』(pp.11)
『つまり世界の技術化の本来的な意味――を垣間見る閃きが、まさしく人間本来的なものへの到る道を教えてくれます。この本来的なものとは、人間が存在によって、存在の為に呼び求められている意味において、自己の人間性を特徴づけているものを行っているのです。(中略)
この力を制御しえない人間の行為の無能をひそかに暴露しているものです。しかしそのことは同時に、未だ覆い隠されているこの立たせる力の秘密に、自ら反省しつつ適応するようにという合図も含んでいます。』(pp.11)
ここに至って、「存在と時間」の匂いがしてくる。
以上の文章は、ハイデガーが日本の哲学者の小島威彦氏に1963年に送った文章として、序文に載せられている。
前述のように、「存在と時間」は専門の哲学者にとっても難解なので、この様な私信から入る方が良さそうだ。
「存在と時間」は、主に生と死に関するものなのだが、技術論としては、このように書かれている。
『科学的認識や技術的発明の前進は、この立たせる力の支配の結果、世界文明といったようなものを仕立てたり切り揃えたりするために、風土的・民族的に芽生えた国民文化が(一時的にか永久的にかはともかく)消え失せてゆくのです。』(pp.7)
人間が技術を支配している時間は短く、いずれ技術に人間が支配されるであろう、技術にはそのような力が備わっている、ということなのだが、ではどうするか。開発設計を行っていると、技術に関する決断を一日に何十回も行うことになる。すべて、その場・そのときに決断が必要になる。よほどの信念が無いと技術に支配されてしまう。その場考学の発想は、そこから来たのかもしれない。
「GEやRolls Royceとの長期共同開発の経験を通して得られた教訓 (その10)」
">>【Lesson10】世界中のエアラインの特徴を把握する[1980]
V2500エンジンの前に,RJ500のプロジェクトがあった,一切ののれん代無しに日英で50対50で短距離用エンジンの開発を進めようという,野心的な契約が交わされた。その第1陣のリーダー役として派遣された私は,マーケティングに始まるすべての部署のオリエンテーリングを受けた。
大型航空機用のエンジンは,生まれながらのグローバル製品である。世界中のすべての国のエアラインが顧客の候補であり,一旦運航が始まれば,世界中のすべての空港での離着陸が行われることを配慮しなければならない。駐機中に問題が発生すれば,その場で直さなければならない。
したがって,設計者は世界中のエアラインで起こりそうな問題を,できるだけ知っておく必要がある。たとえ中古機であっても,事故の原因がエンジンにあることは許されない。例えば,「英語のマニュアルが正確に読むことのできない空港でも,整備上のヒューマンエラーが生じない設計を考えること」,「日本人の手は小さく,指も細いが,世界にはグローブのような手を持った人種の国もある。そのようなところでも,on wingの整備で必要な個所には,手が入らなければならない」などであった。
また,エンジン会社よりもエンジンの詳細に詳しいエアラインがある。ドイツのルフトハンザ航空だそうだ。「彼らの最新かつ広範囲な知識も,身につけなければいけない。その情報は,マーケティング部門からもたらされる」も貴重な教えだった。
このように考えてゆくと,日の丸エンジンのスタートには,重要なものの多くが抜けていることが自ずと分かってくる。
【この教訓の背景】
日本の企業もかなりグローバル化が進んだと評価されるようになった。しかし、航空機用エンジンの常識からみると、すべては国際化であって、グローバル化、すなわち地球化でなない。ある特定の国や地域の文化に適合するように、製品の一部の機能やデザインを修正する、といったことが多いように思う。つまり、スタートから方向が違っている。
文明の条件は色々あるのだが、単純明快なものの一つが、「だれでも簡単に入手できて、利用できるもの」というのがある。司馬遼太郎がアメリカ素描で書いたように、Gパンは、取り扱いが容易でどこでも入手が可能で、見ればTPOが分かる。マクドナルドハンバーガーは、誰でもおいしい食べ方が分かる。
今は、情報が簡単に手に入るのだから、その気があれば世界中の文化を知ることができる。スタート時点で、どこまでの情報を入手し、分析をするかの気構えだけの問題であるように思う。
このことは、新製品の開発時の原価企画にあると思うのだが、それはまた別の話になってしまう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます