生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

その場考学との徘徊(28)北肥後4泊5日の路線バスの旅(その5)

2017年11月17日 09時52分56秒 | その場考学との徘徊
題名;北肥後4泊5日の路線バスの旅(その5)
場所;山鹿2 年月日;H29.11.2
テーマ;装飾古墳      作成日;H29.11.17  
 
7:00 ホテルで朝食
ちょうど、付近の工場へ出かける外国人研修生が食事を終えて、出かけるところだった。10人ほどの若い男女。聞くとインドネシア、タイなどからで、来た時期もバラバラ。礼儀正しく、挨拶はしっかりとした日本語だった。

朝食後に、荷物をそのままで、「さくら湯」に向かった。松山には何度も行ったが、「ぼっちゃん湯」に入ったことはない。ここは大衆的な¥300で入ることができる。時間に余裕があるので、その前に昨日聞いた、灯篭祭りの「大宮神社」まで行くことにした。朝日を浴びて、かなりの道のりだった。



参拝を済ませて社務所へ向かう。早朝だが、神主に聞くと、「灯篭殿」もあけてあるとのこと。ここにもかなりの数の灯篭が収められていた。どうやら、各町内でひとつづつ納めているようだ。毎年のことなので、大変だ。




灯篭と呼ばれているが、じつは女性が頭にのせる以外に、宮づくり、座敷づくり、お城、鳥かごなどいろいろある。由来は、12代景行天皇が行幸の際、霧の中を行宮であるこの地まで案内するのに用いられた松明の灯りとのこと。展示品が新品ばかりなのは、奉納された「とうろう」を、毎年希望者に一つ数十万円で払い下げるとか、かなりの収入になることだろう。



脇に、教育勅語の石碑があった。朱文字で書かれているのは、なぜなのだろうか。早朝で、尋ねる人もいない。画像を検索すると、阿蘇神社をはじめこの地方独特のもののようだ。




8:26 大宮神社出発で、さくら湯へ向かう(3200歩)

朝風呂を楽しんでいるのは、超老人ばかりだ。私が、入ってから出るまで、ずーと湯船の端にもたれて、眠りこけている人もいた。むかし、三沢に泊まった時に、やはり歩いてゆける距離に温泉があった。そこでの朝風呂は、若い自衛隊員がたくさんいて、私と同じように酔い覚ましをしていた。由緒には、「旦那衆(起業家たち)が一日の仕事前の清めの場として、」とある。受付場が広く、多くの記念品を売っていた。



9:30 温泉にたっぷりと浸かって、部屋に戻った。朝は冷え込むと聞いて、ダウンを着ていったので、汗びっしょりになってしまった。
10:04 チェックアウトして、荷物は預けてバスセンターから乗車。
10:14 市立博物館入口で下車。ここから坂道を10分ほど登る。



博物館の入り口には、またも西南戦争の絵図があった。ほかのところならば、日露戦争の絵図と思うだろう。入口に、二人の先客がいた。博物館の人が「これから二人をチブサン古墳まで案内するが、よかったら私の車に乗ってゆきますか?」とのこと。まさに奇跡的なタイミングだった。彼の車で、チブサン、オブサン古墳を見学。なんと鍵を開けて、中まで入れてくれた。




古墳内部は、薄暗くてよくわからなかった。やはり、レプリカと両方見るのが良い。しかし、現地での説明は丁寧で、よく理解できたと思う。




再び車で少し離れた「オブサン古墳」へ。突堤付き円墳という変わった形の古墳だが、規模が小さいので特徴的な形状が良くわかる。水たまりを避けて、かなりかがんで入ったが、中は暗くてよく見えなかった。やはり、図柄はレプリカ出ないとわからないようだ。



博物館に戻って、展示物の見学を始めた。「帰りのバスは気にせずに、ゆっくりとみてください。」博物館の人が、BSまで車で送ってくれるそうだ。



オブサン古墳は、西南戦争時に塹壕として使用された。古墳の入り口の石には、くっきりと弾痕の跡がいくつも残っている。




このあたりでは、弥生の遺跡が多く、縄文土器は軽視されているようで残念だ。縄文 ⇒弥生 ⇒古墳時代の技術の流れは、日本独特の文化なのだから。



11:30 博物館の車で、BSまで送っていただいた。あっという間だった。
すぐわきの長崎ちゃんぽんのリンガーハットで昼食。荷物をとりにホテルへ戻った。

12:39 昨日と同じ4番乗り場から、菊池に向かって出発。この路線も2時間に1本なのだが、相変わらずの貸し切りバス。
ここまで、9390歩。午前中に、ずいぶんと歩いてしまった。






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