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その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼シリーズ(42) 日本書紀と埴輪の謎

2017年08月15日 15時09分37秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(42)
          
TITLE:  日本書紀と埴輪の謎 KMB3366
書籍名;「日本書紀 全現代語訳」[1988] 
著者;宇治谷 猛  発行所;講談社 学術文庫 
発行日;1988.6.10


このシリーズはメタエンジニアリングで「文化の文明化」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。


 
北杜市考古資料館と長野県の井戸尻考古館、八ヶ岳美術館が3館合同で「ぐるぐる八ヶ岳、縄文時代の渦巻模様」という企画展と、山梨県立考古博物館の「考古博の土偶、縄文王国の土偶大集合」なる特別展を鑑賞した。そこでの縄文土器と土偶の形状は複雑で、なぜか埴輪の起源について調べようと思いたった。特に、中期に作られた中空土偶の製造技術には驚かされた。デザインのさることながら、厚肉と薄肉部分の接続が現代の鋳物でも割れるのではないかと思えるほどであった。

縄文時代には、とてつもない数の土器がつくられた。1万年以上つくり続けられた縄文土器と土偶である。古墳時代に作られた埴輪も素焼きのままなので、技術的につながりがあるのではと考えた。素焼きの土器としては、世界的にも優れた複雑な形状であっても、大型で薄肉の製造技術が完成されていた。その技術が引き継がれないわけはない。

また、技術的なつながりがあれば、製作上の思想にもつながりがあるはずである。しかし、技術的にも思想的にも、一切の繋がりは学会では認められていないことが分かった。

埴輪の起源は円筒埴輪と云われている。Wikipediaの概要には、次のように書かれている。
『埴輪の中で一番早く登場するのが円筒埴輪である。 その起源は、弥生時代後期に吉備地方で発達し葬送儀礼用の特殊な土器であると考えられている。 3世紀半ば過ぎに最初の前方後円墳といわれる箸墓古墳の葬送儀礼で使われた器台や壺(特殊器台・特殊壺)が初めである。』

また、種類と大きさについては、
『本埴輪は、もともと壺を載せる器台だったものが、垣根のように並べて配置されるため、下部が単純な土管(円筒)状になっており、突帯で数段に分けた胴部に円形や四角形の透かし孔を開けている。 種類は多くないが、普通円筒と朝顔形円筒がある。他には鰭付(ひれつき)円筒埴輪がある。これらの埴輪は円筒埴輪数本に対して朝顔形埴輪1本の割合で配置されるのが普通である。 大きさは、数十cmから1m程度のものが一番多いが、中には2m前後のものもある。』 

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E7%AD%92%E5%9F%B4%E8%BC%AA

 円筒埴輪の由来については、過去には日本書紀の垂仁天皇の記述にある「殉死の代用」説がもっぱらだったが、昭和42年(1967)に二人の高名な考古学者が、「埴輪の起源」という論文を「考古学研究」という学会誌に発表して以来、日本書紀の記述は虚偽であり、墳墓上で行われた葬送儀礼に用いられ聖域を区画するという役割であったとされた。以降、「日本書紀の記述は虚偽」が定説となり、少なくとも学会における反論は無いようである。そこで、日本書紀の記述を辿ってみることにした。

いわゆる有名な数々の神話の後に、歴代天皇に関する記述が始まる。神武天皇に関する部分は、東征を含めて21ページ分ある。続く巻4は、綏靖天皇から開化天皇までの6代で、全部で10ページしかない。続く巻5は崇神天皇で13ページと記述が増える。巻6は垂仁天皇で18ページもあり、神武天皇と同等である。内容も非常に具体的だ。その記述内容が項目別に書かれている。 

① 即位、② 任那・新羅抗争のはじまり、③ 狭穂彦王の謀反、 ④ 角力の元祖、⑤ 鳥取の姓、 ⑥ 伊勢の祭祀、⑦ 野見宿祢と埴輪、⑧ 石上神宮、⑨ 天日槍と神宝、⑩ 田道間守の10項目だ。この内容は、ほぼすべて現代でも否定されていないのだが、なぜ、⑨項だけが虚偽と断定されるのであろうか。

その内容は、野見宿祢が天皇から、「殉死は長い間の習慣だが、良くないことなので従わなくてよい。殉死を止める方法を考えよ」、と云われて、
『使者を出して出雲国の土部(はにべ)百人をよんで土部たちを使い、埴土で人や馬やいろいろのものの形を造って、天皇に献上していうのに、「これから後、この土物(はに)を以って生きた人に替え、陵墓に立て後世の決まりとしましょう。」と。天皇は大いに喜ばれて、野見宿祢を詔して、「お前の便法はまことに我が意を得たものだ」といわれ、・・・』とある。

これらを名付けて埴輪といい、野見宿祢は本姓を改めさせて土部(はじの)臣(おみ)とした、十分に納得ができる内容なのだが、それ以前の殉死の習慣も含めて、その証拠がどの古墳からも見つからないということなのだ。

私は、初期の王が死んだ際には、多くの殉死が行われていたと思う。もしそのような習慣が存在したとするならば、突然それを止めるのは危険である。ある時に前述のことが起こり、「殉死」すなわち「人はしら」の代わりに円筒埴輪を並べた。最初は、ほぼ等身大の円筒埴輪の中に、本当に「殉死者」が入っているようにみせかけた可能性もあるように思う。「殉死」は立っているほうが良い。そして、中に殉死者が入っていないと信じられるようになってからは、殉死が正式にとりやめられて、ヒト型や動物などの形象埴輪が置かれる様になった。素人眼には、その方が自然の流れのように思えてしまう。
その場合には、土偶から円筒埴輪を経て、様々な形象埴輪に移った経緯が、思想的にもつながる。すなわち、素焼きの形状には、常に霊が宿るということである。

私は、垂仁記の10項目のうち、この1項だけが虚偽であるという説には、「野見宿祢は本姓を改めさせて土部(はじの)臣(おみ)となった」との記述も併せて、納得がいかない。

一方で、『埴輪円筒棺・埴輪棺という物がある。円筒埴輪を転用したものや埴輪製作の技法で作られた円筒状の物で、5~6世紀に類例が多く、古墳の主埋葬に対して従属的な存在だという。』との連絡が、友人の古代史の専門家(あんたの説は、いい加減だと大いに怒られています)から知らされた。

いずれにせよ、土偶から埴輪への技術伝承があったということだけは確かなようなので、技術者としてはそれだけで満足がゆく。
日本書紀の記述については、古い部分の内容についての虚偽説がもっぱらなのだが、成立の意図はともかくも、個々の逸話について、なぜそのようなストーリーにしたのかの研究は、それらの逸話の中身の複雑性と関連性において、まだ奥が深いように思う。政治や政権の歴史ではなく、日本固有の縄文文明の発展という視点で見てゆくと、面白味が増してくる。



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