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生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

第14章 日本での実用化と7年間の空白(その3)

2023年12月31日 07時19分58秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
14.2.3 日本ジェットエンジンという会社

 禁止期間が終了すると、直ちに1953年に石川島重工、三菱重工、富士重工、富士精密、後に川崎航空機が出資による日本ジェットエンジン㈱(以後,NJE)が設立された。通産省の補助金を受けて、J01, J1, J2などのエンジン試作と試験が続けられたが、搭載する機体の具体的な計画までは進められなかった。会社の設立当時の状況について、プリンス自動車の社史には、次のような言葉が記されている。
 『ジエット機、とくにそのエンジンの試作研究については、ばく大な費用を要するものである。欧米における研究も、各国政府の多大な援助によってそれぞれ達成せられたものであり、更にその性能向上のために、引続きあらゆる援助を与えているのが実状であった。
 これに反し、わが国においては、航空機工業再開直後のことでもあり、ジエット・エンジンの研究開発に対する政府の基本方針も確立されておらず、加うるに、敗戦による復興経済の途上にあって、企業はいまだ資本蓄積も充分でなく、個々の企業が独力でこの研究にたずさわる程の体制には、到底達してはいなかったのである。いわんや、こうした新事業の開発にみられ勝ちな、排他的研究態度をとられるにおいては、ジエット・エンジンの早期開発は望むべくもなかったのである。
こうした情勢の中で、通産当局は、航空機生産審議会の答申もあって、政府出資の国策会社設立を計画し、関係機関協議の結果、とりあえず第1 段階として、石川島重工業株式会社、富士重工業株式会社、富士精密工業株式会社、新三菱重工業株式会社4社の共同出資によりジエット・エンジンの研究開発会社を設立することになった。』(pp.231)(11)
 
 日本ジェットエンジン㈱が1967.8に関係者に配布した「社史」がある。この書には、発行日も発行社名もない。私の手元にあるのは、今井兼一郎氏に送られた1冊であり、添付の送り状の日付は昭和42年8月となっているので、それを発行日とした。
 内容は、本文が41ページで、そのあとに全従業員の名簿が続いている。先ずは、その中から我々がお世話になった方々を拾ってみる。ちなみに、社長は植村甲午郎である。



 取締役 土光敏夫
 研究部長 永野 治
 第1研究課員 石田一男
 第2研究課員 飯島 孝
 第2設計課長 今井兼一郎
 第2設計課員 土光陽一郎、杉山佐太郎、関根正信、村島完治
 工作技術課 榎本喜一  試作部次長 板垣乙吉
まだまだ数名おられるが、いずれも「ひとから、ひとへの技術の伝承」でお世話になった方々だった。

年表によると次のような経緯を辿っている。
 昭和28年7月23日創立 資本金 4000万円(その後、毎年増資)
 昭和29年7月31日 JO-1組立完了 同年12月15日 運転開始
 同年10月1日 J1 試作着手見合わせ、同日 J2設計着手
 昭和30年4月1日 J2設計中止
 同年6月11日 本社田無に移転
 同年12月25日 JO-1 運転実験打切
 昭和31年3月31日 防衛庁よりJ3エンジン3基受注
 同年11月16日 J3 第1号機(#31)組立完了
これ以降、順次試運転が行われたが、圧縮機破損、サージング発生、ベアリング破損、タービン翼破損などが、連続して発生している。
昭和34年10月1日 設計業務石川島に移管(前日に、多くの技術者は退社)
同年12月31日 技術関係残留社員全員退社
昭和35年4月30日 残務整理残留社員全員退社

 「まえがき」には、『戦後わが国航空機工業再建の要請に応え、いち早く航空エンジンメーカーが大同団結をして、・・・。』とあるが、それが防衛庁からの受注も順調に進む中、多少の開発遅れのために、わずか数年で解散してしまったことと、それから20年ほど後に、全く同じことを繰り返した歴史の理を知ることを目的とし読み進める。

 20年後の繰り返しとは、V2500エンジンの開発作業のさなか、それまで一致団結して設計にあった設計統括班を解体するばかりか、総ての設計グループを解散して、各社に戻してしまったことを指す。ジェットエンジンの開発には、巨大な資金とリスクが伴う。特に開発資金の回収には、機体製造会社の数倍の期間を要する。従って、世界に伍する産業として成長するためには、日本の一企業では、到底勝つことはできない。さらに、エンジンの設計についていえば、それは個別システムの統合作業にあらず、全体を一つのインテグレートしたシステムとして考えなければ、一つのエンジンを完成ささることはできない。 
 バラバラになった組織下でのジェットエンジン産業は、防衛庁の要求を満足させるエンジンの設計はできても、世界市場に乗り出すエンジンの開発は不可能であると考える。なぜ、同じことを繰り返されるのか、その理由をこの社史の中に見つけたように思う。

 既知のように、昭和27年4月の解禁と共に、大宮富士重工㈱が320万円の補助金を受けて、研究試作を開始、また、石川島重工業㈱は、駐留米軍からジェットエンジンを借用して、研究調査を始めた。しかし、『欧米に著しく引き離されてしまった現実を思えば、この際むしろ各社一致協力して、これに当たるべきことは当然考えられるべきであろう・・・。』(p.5)とある。

 そして、設立時の「覚書」は、『次の各項を誠意を以って遵守し、違反しないことを約する。』(p.6)として、15の項目が述べられている。しかし、そこには官製のために、いくつかの無理があることが見受けられる。それは、第5条の「役員は4社同数とする」、「もし合併が行われた場合には、権利は1社分として再配分する」、「将来当事者間に紛議を生じた場合には、通産大臣はその指名する者の裁定によって、・・・」などであり、ある一社の独走を敢えて阻む内容になっている。困難な開発作業をすすめれば、当然主導的な役割を果たすチームが必要になるが、私には、そのことを敢えて認めない内容に思える。そのことが、新エンジンの設計上でいかに重要であるかは、私のV2500とGE90エンジンでの経験が示している。

 続いての「設立趣意書」では、復興中の日本にとっての重化学工業の振興が、いかに重要であるかが述べられている。つまり、狭い国土と人口稠密、資源不足であるが、その条件は現在もなんら変わりはない。当時は、多くの若者の命が失われて、若者不足の老齢社会であることも共通している。

4項目の「従業員」の特徴は、総務部長に通産省の役人を充てたくらいであり、後は至極普通と思われる。
7項目は「親睦会」とある。中核社員である出向者は、親会社の組合に属しており、早くから「親睦会」が発足した。このこともJAECと酷似している。もっとも、我々の場合は、単なる飲み会であったが、これが毎週のように行われた。
8項目の、「エンジン開発経過」には、多くの写真が収録されている。「大宮作業所運転場」、「富士重工の燃焼実験装置」、「富士精密の補機実験装置」、「石川島の翼回転試験装置」、「日本精工の軸受試験装置」、「田無の高速翼列実験装置、燃焼実験装置、様々な加工機械」などであり、このこともFJR710やV2500と同じである。ただし、FJR710の場合は、多くの回転実験装置は航空技術研究所にゆだねられていた。
 特筆事項としては、新明和工業が防衛庁のC46輸送機をFTBに改造して、J3エンジンを胴体下に懸吊して、機内には運転計測室を設け、高空再着火試験を行ったことが記されている。このことも、同様なことがFJR710で再現された。
 そして、最後に、本題の第12項の「事業中止」の項目が、僅か2頁で語られている。これでは、教訓を残すには不十分と言わざるを得ない。しかし、この様なことの再発防止の教訓が遺されていれば、後のJAEC設計統括班の解体は免れたかもしれない。

 冒頭は、『J3エンジンの基本的開発が完了し、その生産が石川島で行われることになったので、今後事業を継続して行くために、新たなる目標を何に置くべきか、我が社としては重大な死活問題に直面するに至った。』(p.37)で始まっている。
 どうも、散々資金を投入して完成されたエンジンの製造が石川島一社に独占されてしまい、他の4社が、追加資金の供出を拒否したことが主原因と思われる。石川島から「製造権実施料」を取って、資金に充てる案も検討されたが、防衛庁からのみの受注量に期待が持てないとのことで、沙汰止みとなった。そして、会社の解体は必然となってしまった。
 
 このような経緯を見れば、後の歴史は必然的に起ったと言えよう。要は、組織の在り方だった。実際、RJ500もV2500も同等な権利を有する開発組織では、開発中に色々な問題が生じたときの対応の調整は困難を極めるし、その時の時間と経費の浪費は膨大である。 GE,PWA,RRでの経験者は、そのことを知って、二度と同じ組織形態は望まなかった。即ち、その後は、ある一社がプライムになり、共同開発相手を募集して、個々に参加条件を決めて、単機種の開発にあたると云う組織形態である。 
 その様な中で日本の個々の会社では、プライムになるには、あまりにも力不足で、RSPに甘んじざるを得ないのは、当然と思える。やはり、歴史上唯一のチャンスは、RRとの50対50のRRJAEL社で、それは、当時の英国と日本の特殊な国情下でのことだった。そのような政治情勢の偶然は、もう二度と訪れることはない。

14.2.4 JRシリーズの研究のはじまり


 1939年に設立された東京三鷹の逓信省所管の中央航空研究所の後を受けて、1955年に改めて総理府に航空技術研究所(NAL)が設立されて、それ以降の民間航空機用エンジンの研究の中心的な拠点となった。しかし、NATO戦略の一部に組み込まれた西ドイツと比べて、防衛との関係を一切遮断した研究は、実用とは離れたものと言わざるを得ない状態だった。

 民間航空機用では、すでに欧米に大きく差をつけられており、当初この研究所が扱ったのは、垂直または短距離離着陸機用のエンジンであった。日本の狭い国土と短い滑走路に適した航空機とエンジンの研究に終始することになる。そこで必要なのは、各種の要素試験装置であった。このために研究所の設置に続けて、直ちに第1次6か年計画が実行された。主な設備は、空気源、圧縮機試験用、タービン試験用、実機燃焼器用、小型航空燃焼器用、高速翼列用、構造強度試験用、軸受試験用などの試験設備であった。(10)そして、技術的な研究を主目的とした研究用エンジンJRシリーズが始まった。幸い、全て要素に対して、試験設備が整えられていたので、多くの研究論文が発表された。また、それらを組み合わせて、要求性能を満足できるエンジンの設計も可能だった。

 一つは、垂直離着機用エンジンであり、もう一つは短距離離着陸用エンジンだったが、前者が先行した。いわゆる「リフト・ジェットエンジン」である。このエンジンに第1に要求されることは、軽量化であり、世界一の推力重量比の達成が目標とされた。
 まず、JR100エンジンで推力重量比10の実現が試みられ、既存の材料と加工法で実現するための構造設計がすすめられた。このエンジンは、垂直離着陸機VTOLのエンジンの姿勢制御の研究に用いられ、1971年に試験用テストベットの自由飛行に成功した。
 つづいて、JR200,220の設計が行われ、推力重量比15を達成した。このためには、サイクル温度の高温化技術が必須であり、各要素の性能向上の中で、特に高温タービンの研究への注力が続けられた。


図3.9 JR100エンジン(10)

第14章の参考・引用文献;
(1)「日本の航空宇宙工業戦後史」日本航空宇宙工業会(1987)
(2) 林 貞助「旧陸軍試作の補助ジェットエンジンの全貌(その2)」日本ガスタービン学会誌、5-17(1977)
(3) 「幻のジェットエンジン「ネ-230」」日立製作所、日立タービン60周年記念会(2010)
(4)八島 聰「翼列失速フラッタに関する研究」東京大学博士論文(1977)
(5)芹沢良夫「変転の日々に生きて」日本機械学会誌87-793 (1984)
(6)棚沢 泰「極限状態でのネ-20」日本ガスタービン学会誌10-40(1983)
(7)長島利夫「ガスタービンの発明と技術変遷―航空用エンジンを主テーマに」日本ガスタービン学会誌36-2(2008)
(8)大槻幸雄、「日本における発達・開発process全体像」日本ガスタービン学会誌 36-3(2008) p.180-183
(9) R.C.ミケシュ「破壊された日本軍機」石澤和彦訳、三樹書房(2014)
(10)松木正勝「国産ジェットエンジンの開発」日本ガスタービン学会誌(2000) p.346-351
(11)「プリンス自動車株式会社 社史」(1997)
(12)「IHI航空宇宙30年の歩み」石川島播磨重工業(1987)
(13)前間孝則「ジェットエンジンに取り憑かれた男」講談社 (1989)
(14)八田圭三「ジェットエンジン再開」日本航空宇宙学会誌、第33巻 第374号(1985)


第14章 日本での実用化と7年間の空白(その2)

2023年11月27日 12時48分51秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
第14章 日本での実用化と7年間の空白

14.2 空白の7年間の影響

 日本は敗戦によって1945年から7年間、航空に関するすべての研究、開発、製造が禁止された。具体的には、昭和20年8月15日の無条件降伏後、8月24日には日本国籍のすべての航空機の飛行禁止、9月22日には「降伏後の日本に関する米軍の最初の政策」が発表されて、全ての軍用機と民間機の破壊が開始された。さらに、11月18日にはGHQからの覚書が発表されて、航空機に関する生産・研究・実験を始めとする一切の行為が禁止された。それによって、中央航空研究所、東京帝大航空研究所が廃止された。(1)

 一方で、諸外国はその間に、レシプロエンジンから、ターボジェットエンジンへの大幅な切り替えが行われた。とくに米国では1950年からの朝鮮戦争用にジェットエンジンの大量生産が行われ、F100、F102戦闘機などの生産が進んだ。

 日本が終戦直前に完成させたネ-20エンジンは、4台の完成品が米国に接収されて、米国内で運転試験が行われた。合計22回で11時間46分のデータと分解検査の経過が詳細な調査報告書に纏められた。このようにジェットエンジンは、最先端の軍事技術として、その当初から期せずして国際間で技術の伝承と共有が進んでいたことになる。

14.2.1 残された日本軍機

 この間に破壊された日本製の機体とエンジンについては、米軍による詳細な記録が残され、その多くはワシントンの国立公文書館に保管されている。それらは、多くの写真を交えた大型本としてスミソニアン協会の国立航空宇宙博物館の元主席学芸員の手によって纏められた。原題は「Broken Wings of the SAMURAI」(9)
 そこには、当時の戦場を始め世界各地に保存されている機体とエンジンについての詳細な記録も含まれている。特に東南アジアでは、残された機体とエンジンをもとに、戦後直後の各国の軍用機に関する技術の伝承も行われたと記されている。
 
 「序文」には、『1945年6月末までに、8000機の体当たりがあり、4800機の陸軍機と、5900機の海軍機が特殊攻撃用に改造されていた』、と記されている。それらは、製造時は戦闘機、爆撃機、練習機および偵察機だった。このように、すべての航空機は特にエンジンの換装などにより、用途を比較的容易に代えることが可能で、このことは、現在でも広く行われている。
 戦争の終末期には、米軍は上陸を敢行しなければならない。この作戦に対して、上陸地点で、無数の特攻機が上陸用舟艇に乗り移る局面で、戦艦や輸送艦に対して用いられると考えられていた。そのような状態では、本土上陸作戦は大いに危険であると判断されたことは、容易に推測される。

 1946年末時点で、処理を終えた航空機の総数は12,735機で、そのうちの1,589機は、処分ではなく取得と記録されている。残された機体の一部は、エンジンと共に完全な状態でパナマ運河を通過して、ニューワークに送られ、オハイオ州デイトンの航空資材センターで一覧表が作成され、その際に独自の航空機識別番号が付与された。その中には飛行艇もあった。当時、米国が日本の航空機技術の系統化に、いかに熱心だったかが解る。
 
 当時、飛行艇の設計技術は米国よりも日本が優れていたようで、特に次の様に記録されている。(9)
 『アメリカに別便で輸送された、この川西H8K2 「エミリー“Emily”」(2式飛行艇12型)は、戦後入手した日本軍機の中でおそらく最も役に立った機体である。第2次世界大戦中の4発飛行艇の中で最も効率の良
いことが認識されていたので、その艇体形状は何回も滑水試験を繰り返して徹底的に評価されたのである。
貴重な調査結果は後にアメリカ海軍P5M 「マーリン」、P6M「シー・マスター」およびR3Y「トレードウインド」飛行艇に適用された。』(p.127)


図14.8 2式飛行艇12型(9)

  この飛行艇のエンジンは、三菱火星22型(1,850馬力)で、最高速度は高度5,000mで465km/h、M0.38、
航続距離 7,153km(偵察過荷)とある20mm旋回銃5門、7.7mm旋回銃4門を装備し、爆弾最大2t(60kg×16)または航空魚雷×2の爆装が可能なので、当時としては飛行性能と装備に関して世界でも有数な能力があったと思われる。
 なお、飛行艇のエンジンはレシプロ機では大きな変更は必要ないが、ターボエンジンの場合には、エンジン
前方から波しぶきを被った時の水吸い込みに拠るエンジン停止が大問題になる。

14.2.2 影響の概要

 我が国のジェットエンジンの歴史は、松木正勝により次のような5期間に纏められている(10)
第1期 第2次世界大戦終了まで(黎明期)
第2期 終戦から1952年の航空再開まで(一切の活動禁止期)
第3期 航空再開から1970年まで(基礎技術の蓄積期)
第4期 1971-1988年の通産省大型プロジェクト終了まで(発展期)
第5期 1979年からの国際共同開発期(実用期)

 当初から現在まで、航空機用エンジンの研究と開発には官用・民用を問わず国家予算からの援助が続けられている。軍用機(現在は自衛隊機)に関する諸技術の維持・向上が主目的だが、その技術の多くが民間機用エンジンの国際共同開発で維持され、さらに更新されている。このことは、自衛隊機用のエンジン開発は、よくても10年に一度なので、その間の技術者の維持・育成と新技術の取得は、民間用のエンジン開発プロジェクトに頼らざるを得ない状況から生じている。この状況は、軍用機用エンジン開発に継続して膨大な予算があてられている米英の状況とは全く異なる。

 その様な状況下にあって、1979年から始まった国際商品としての民間航空機用のジェットエンジンの開発は、既に40年間も続いているが、国際共同開発の枠組みから脱して、独自のジェットエンジンを開発できる状況にはない。僅かに、ホンダジェットがビジネス機の分野で頑張っているだけである。この状況は、空白の7年間の影響から、まだ抜け出せていないと考えられる。つまり、第5期が40年間以上も続いており、第6期への入り口は見えていない。

 第2期の一切の航空関係の研究と産業が禁止された期間中には、我が国の技術は産業用ガスタービンの分野で続けられた。それは、運輸技術研究所、機械試験場などの国立研究機関が主であった。
 
 この間の実例としては、「鉄研1号ガスタービン」が挙げられる。このエンジンは戦時中に石川島芝浦タービンで開発中だった高速魚雷艇用のものを、堀り起こして改造したとされている。戦後、航空用に従事していた海軍空技廠と中央航研の技術者約20人が、鉄道技術研究所(以下、鉄研)に入り、開発予算を獲得した。この時の石川島芝浦タービンの社長は土光敏夫で、彼はこの後も航空用の立ち上げに大いに貢献した。この時のメンバーの山内正男(後の航空宇宙技術研究所所長)は、「しかし、航空用ガスタービンの隠れ蓑というような意図は全くなかった」と語っている。(13)

 しかし、当時の鉄研の所長の中原寿一郎の「日本はいま航空の研究は禁じられているが、いつか必ず再開される日が来る。その日のために、この人たちは大切に育ててほしい。」(13)という言葉が遺されている。このガスタービンは、完成後の試験運転で何度も失敗を繰り返し、そのたびに改良が加えられた。潤沢な研究費と、実験室を長期間自由に使うことを提供した土光のお蔭であった。

 最終的には、1時間以上の定格・耐久運転に成功したが、目標の燃費には遙かに及ばず、更に騒音が都市部の機関車には不適当ということで、鉄道用の動力源としての採用には至らなかった。
このガスタービンは、後に運輸技術研究所に引き継がれ、和歌山県の興亜石油の給油所内のコンプレッサー駆動用として使用された。このように、技術の伝承は人を通じて行われていたが、基礎技術は維持できても、航空用としての実用化と運用面の技術は全く育成ができずに、その影響は今日まで続いている。

コラム

終戦直後の大学の航空学科とその学生の動向が、八田圭三「ジェトエンジン再開」(17)に詳しく書かれている。このような人脈によって日本のジェットエンジン技術は、かろうじて保たれたと云える。
 
 『それにしても 戦時中に大膨張していた各大学の工学部の航空学科としては,多数の学生をかかえているわけですから,この禁止指令は反抗できない占領軍命令とはいえ大変だったわけで,学生をそのままほうり出すわけには参りませんので,マッカーサー司令部とあれこれ交渉して,やっと在校生だけは,航空以外の教育をして卒業させるという了解(当時の大学は3年制でしたので,航空学科の学生が1学年卒業すると教,助教授の数も1/3 減らし,3年間で消滅するという条件でした)をとりつけたわけです。それでたとえば東京帝大第―工学部の卒業生のなかに内燃機関学科(航空学科原動機専修の過渡的学科名)卒業という方がおられたりすることになった次第です。私は幸い機械工学科に採用され引きつづき大学にのこれましたが,それらの結果,工学部や研究所の航空関係のかなりの数の教,助教授が退任を余儀なくされました。しかし航空機や航空原動機の設計や性能に直接結びついた講義や研究はできませんが,航空に直接的に関係のない流体力学の研究や教 育ができないわけでなく,航空原動機はいけないが陸舶用のピストンエンジンや,ガスタービンに関する研究や教育は行われたわけです。戦後私なども機械学会などで今から思うと極めて初歩的で恥ずかしくなるようなガスタービンの話を良くしたものです。』





第14章 日本での実用化と7年間の空白(その1)

2023年10月21日 06時55分28秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
第14章 日本での実用化と7年間の空白

 ジェットエンジンに関する日本での研究と開発は、比較的早くから始められた。航空機工業が産業としての形態を整えたのは、昭和5,6年のことだと云われている。(1)その科学技術的な基礎を構築するために、1920年に東京帝国大学に航空学科が創設された。特に大学での流体力学と燃焼理論に関する研究は、世界的にも進んでいた。ジェットエンジンについては、12.3.4で示したように、種子島大佐の下で研究が開始された。
 しかし、当初はエンジン名の「ネ」(燃焼の頭文字)が示すように、初期には構造がより簡単な燃焼器のみを基本とするロケットが注目されていた。それは、陸軍の戦闘機や輸送機のレシプロエンジンの出力が限界に近づいたために、その補助推力を得るためのものであった。しかし、試作と実験を繰り返しても、期待した性能は得られなかった。そして、俄かにジェット機の開発が実用に向かって加速されたのは、海軍によってドイツからもたらされたエンジンの断面図によるものであった。

14.1 日本での実用化
 1944年7月、日本からの天然資源と引き換えに取得したドイツのBMW003Aの図面が潜水艦(伊号第29など)で日本に運ばれた。しかし、全ての潜水艦は連合軍により撃沈され、総ての技術史料は海の藻屑と消えたのだが、わずかにシンガポールから空輸された15分の1の断面図だけが日本にもたらされた。そこから、産官学あげての本格的な実用機の開発が急ピッチで進んだ。この時点で、失敗続きとはいいながらも、実機テストを積み重ねていたので、断面図一枚からでも、詳細設計が見通せたのであった。
14.1.1 ネ―0からネ―4まで
 
 1943年(昭和18年)に、陸軍に於いてレシプロに代わる、連続燃焼の燃焼器の開発が俄かに始められた。
燃焼効率もさることながら、目的はロケットとして機体の下部に装着して補助推進力を得るためのもので、冷態時(非燃焼時)の空気抵抗により優劣が競われた。ネ―0用の燃焼器として候補になった6種類の図を(図14.1)に示す。


図14.1 ネ―0用の燃焼器(2)  


図14.2 陸軍航空機用補助ジェットエンジン(2)


 その改良型の燃焼器に圧縮機を取り付けたネ―3(軸流圧縮機)とネ―4(遠心型圧縮機)が、キ―48Ⅱ型の双発軽爆撃機に搭載されて空中試験が行われた。燃焼飛行試験に成功した時の写真を(図14.3)に、その時の性能諸元を(図14.4)に示す。この時点では、軸流式に軍配が上がった。熱効率は悪いが、得られた推力による機速の増加が大きかったためである。


 図14.3 キ―48Ⅱ型の第1回燃焼試験飛行(2)


 図14.4 ネ―4のエンジン性能((2)のデータより筆者作成)

 
 しかし、これらの成功の裏では、軍用機用のピストンエンジンの質及び生産数の低下が顕著になり、実戦機用の改良と増産と整備に注力されることになり、この種の開発は中断してしまった。そして、それ以降はジェットエンジンの開発は海軍の手にゆだねられることになった。その中断に関して、当時の関係者は『ネ―4による日本初のターボジェット推進飛行を実施し得たものと、今もって痛恨に堪えぬ』(2)(p.31)と激白している。
先に述べたドイツ軍の事情と酷似しており、技術とハードの信頼性欠如が問題だった。

14.1.2 ジェットエンジン「ネ-130,230、330」

 ドイツからもたらされた断面図をもとに進められた開発プロジェクトは、海軍の航空技術廠が有名であるが、民間各社でも並行して開発がすすめられていた。そのことは、日立製作所の「日立タービン60周年記念会」から発行された、「第2次世界大戦中の日本におけるジェットエンジン技術」(3)に、当時携わった社員自らの記録として示されている。この書は、A4サイズで21ページにわたり、当時設計や製作に直接に作業にかかわった人たちによる生々しい未公開の資料ということになる。
私は、日立のOB会のご厚意により偶然に入手した。内容の紹介は、いくつかの文節を直接に引用する。すべての文章は、直接かかわった人たちの言葉なのだから、それがベストの方法だと思うゆえである。そもそもの始まりは、このように記されている。三菱、日立、石川島による3社同時並行の競争だったことがわかる。

 『“ネ-230”の試作は、1944年(昭19)4月、当時の日立工場松野原動機部長がタービン設計課長の柴田を連れて帝国海軍空技廠に出頭して種子島大佐から潜水艦によってドイツから送られて来たジェットエンジンの断面図を1枚下付されて、至急設計試作せよと命じられたところから発足している。 この席上には見知らぬ民間会社の人達が同席していた。それは、三菱、石川島、中島飛行機からの技術者と責任者達であって、三菱グループ、石川島グループとの競争試作への命令が下された。日立の航空機機体部門は中島飛行機と組むことが示された。』(p.1)

 具体的な分担について、ネ-20と、これらのエンジンとの関係は、次のように明確に示されている。
『昭和19年の7月空技廠で、タービンロケットに関する大会議がひらかれ、日立からは松野さんが出席され、私はカバン持ちでお供をした。柴田さんか山中さんもご一緒だったと思うが、記憶はない。この席上ドイツから潜水艦で持ってきたというタービンロケットの組立断面図1枚が配られた。写真で引き延ばしたというこの図面には、寸法が1箇所も記入されていない。 三菱の人だったと思う、使われているボルトの太さを想定してそれから計算してみると、ロケットの全長はこれこれの大きさになると発言した方がおり、うまいところに目をつけたものだと感心した覚えがある。この会議の結果、日立はネ-230の開発を、それを搭載する飛行機は中島飛行機が担当することに決まった。ネ-130は石川島、ネ-330は三菱担当と決まったのもこの会議のときである。ネ-20は空技廠自身が開発を担当したもので、海軍はネ-20 の開発に全力をそそぎ、民間三社の開発にはあまり口出しはしなかったと、いまはそんな気持ちもしている。』(p.15)

 そして、直ちに設計と試作が始まった。『唯1枚の断面図を頼りに設計試作することは、戦時下とは言え全くの難題であったが、タービン設計課は全力を挙げてこれに取組み、当時の設計課内で各人の分担を定めて総合設計と部分試作に取組み、翌1945年(昭20)の6月に試作機を組立て、火入れを行うに到った。6月20日のB29による大爆撃によって日立工場は壊滅に等しい状態になったが、この時、試作機2機は高萩工場に移されていて難を免れた。試作を通して最も難行したのは、タービンの中空冷却翼の成形であったと記憶している。』(p.1)
 
 設計については、こんな記述がある。
『「“ネ-230"のネは燃焼する(非火薬燃料を)という意味で230はスラスト・ ホース・パワーが2300馬力であることを示す」と呼称の意味を柴田さんから伺いました。推力の計算は山中さん作成の技術資料にあった計算式に依りました。噴出する 燃焼ガスのモーメンタムからエンジンに吸込まれる空気のモーメンタムを差し引くという理論通りの式でした。ダイヤフラムの設計では燃焼室を出る800 ℃のガスによる熱変形が心配でしたが、別に新しいことはしませんでした。』(p.3) 

 特に、高圧タービンの冷却設計には苦労をされたようで、試運転の様子も詳細に書かれている。
 『高温ガスの中での、ディスク、翼は高温度にならないように、空気圧縮機からの圧縮された空気でディスクのまわりを包み、翼を中空にして圧縮された空気を流入させて、高温化を抑制する構造にすることになったのですが、耐熱合金を中空にする加工は加工工数の関係で困難であることなどからパイプを原材料として 成形加工によって中空空冷翼を成形する方法が採用されました。 製作完了後、高萩の試験場に据付けられて試運転が始まったが、ガス噴出口から見ると翼の温度は相当高い様子である。試運転中に翼が損傷したなら万事休すの気持ちで試運転に携わっていたのですが「青木さん」の記述にありますように仕様通りの出来栄えで試運転が終わりほっとした記憶が強く残っております。』(p.6) 

 これと同じ経験は、後に1970年から始まる三鷹の航空技術研究所におけるFJR710の高圧タービンの高温試験機に引き継がれることになる。私自身が設計したタービン翼が、回転が上がるにつれて赤色から橙色になり、さらに透明に見えたときには心臓が高鳴った。実に25年間のギャップがあったことになる。

 試運転については、ネ-20で活躍する「永野少佐」との関係が示されている。後に、石川島播磨の副社長としてFJR710の設計と、それに続く日英共同開発事業の立ち上がりで、大いに活躍をされた方である。
 『起動には30kw程度の電動機が使われましたが自力で加速するところまでもって行くのが思ったほど容易でありませんでした。私はもっと楽に始動出来るものと予想していましたので、それを見てタービン・ブレードの入口側のプレス加工の関係でシャープでなく円くなっていることが気になりました。竹内さんが何かの折りに「ブレードの代わりに円い棒を立てて置いてもタービンは回る 」と言われたことがありますが、空技廠の永野少佐もこれをかなり気にしておられました。』(p.4)

 3月に入り、B29による本土爆撃の恐れにより、3月2日と4月11日に、拠点を移したとある。そして、いよいよ試作機の飛行機への取り付けが行われた。
 『「ネ-230」は一号機で、中島飛行機製の本体に二号機と共に左右に搭載され、機名は火龍と命名されていたということでした。飛行機の全長11.5メートル、2台のジェットエンジンの中心距離4.5メートル。最大時速約800キロメートル、航続距離1000キロメートルという計画であったとのことでした』(p.8)
 その後、日立工場は6月10日にB29の「大爆撃」にあったが、その前に高萩に移動したために、終戦までに9000回転までの運転に成功した。試運転についての記述は以下のとおり。
 『私が書いた前記の一文によると、ネ-230の一号機が完成したのは昭和20年5月、ひきつづき2号機、3号機が完成しており、1,2号機は運転の結果使用不可能なまでに破損し、3号機の運転にはいろうとしたときに終戦になってしまったと、残念そうに書いている。ただ私のおぼろげな記憶では、この3台のほかにもう1台あったと思われてならないのである。田無にあった中島飛行機の発動機試運転場に、たしかに一台運びこんでいる。杉林のなかを一部伐りひらいてつくった運転場で、コンクリート造りのものものしい運転室がいくつも並び、人影はなく、こんな処に置いて帰るのかと思ったことをかすかに覚えている。』(p.13)
 
当時の中島飛行機田無工場の写真(図14.5)によれば、日立や中島の工場は何度も空襲にあったようだが、この写真にある田無工場の「ウナギの寝床」は、無事石川島播磨重工のジェットエンジン工場として21世紀初頭まで存続した。(確かに、工場建屋の形は似ているのだが、ごく近隣の他の工場との説もある)


図14.5 中島航空金属製作所(後のIHI田無工場?)

 技術の伝承については、終戦後にGHQの呼び出しに応じて話された内容として、次のような記述がある。
 『先生(沼池教授)のお話を要約すると、戦後GHQの呼出しに応じて行ってきた。(中略)米国でできなかったことを君達は成功した。その原因を教えてくれ、ということであった。それは「カルマンの学説に対して、沼池の翼の干渉理論の方が正しかった。軸流圧縮機の効率の良否だ」と説明した。』(p.11)
 当時の日本の高速流体理論が、カルマンよりも優れていたとは驚きなのだが、V2500設計時にも、同じことがあった。東大航空学科卒で石川島播磨重工業(現IHI)の若手社員であった八島 聰が書いた圧縮機内の非定常流に関する学位論文(4)が、Rolls-Royceの最先端の理論よりも、はるかに優れていたことが、今も同社内で伝わっている。なお、IHIが担当したネ-210エンジンについては、8月に松本での台上試験で最高回転数までに成功したが、異物吸い込みで破損したと伝えられている。

(注記)田無工場は中島飛行機の工場又は下請け(豊和産業)でアクチュエーターを生産しており、当時の発動機試験場は現在の東大和市にあったガス電の所にありJ01などの開発に使われた、との話もある。

14.1.3 「ネ-20」エンジン
 このエンジンの開発時の正式な日本語の記録はない。そこで、実務に携わった芹沢良夫「変転の日々を生きて―海軍ジェットエンジンの開発など」日本機械学会誌 [1984](5)から一部を引用する。
 彼の経験はわずかに4か月半だったが、当時の開発プロジェクトの様子を知ることができる。
 『昭和19年設計開始、20年4月試作第1号の実験に入った。恐らく試作を12台ぐらい作り、搭載した双発戦闘機「橘花」で試験飛行に成功し,終戦の時はすでに量産に入っていた。私の着任はその実験の初日であったが、挨拶もなく、実験見学、仕事に入った。』(p.1328)
 また、当時の技術レベルについては、以下のように記されている。
『実験の始めに,軸流送風機の翼列の知識不足から圧力が出なかつたが,推定で計算をやり直し, ペンチで羽根をひねって見事に圧力を出した。断面図の見違いで,円周上に並んだ円筒状の燃焼室を,一つのリング状の燃焼室と間違え,燃焼の偏りに悩んだ。高圧の燃料ポンプが難しく,多くの変わった試作をしたが,歯車ポンプに落着いた。噴射弁,その直後の空気と燃料を混ぜるスワールカップ,一次,二次の燃焼室の形,溶接の苦労, タービンについても材質,冷却,強度などの努力、またスラストが大きく,軸受でも,ミッチェル式 などいろいろな試作をした。』

 ネ-20を搭載した橘花の飛行試験については、周知のように2回目の試験の滑走中に、補助装置のロケットの燃焼時間を誤り、離陸できずに木更津の海に着水し、その歴史を閉じた。それと同時に、全ての技術に関する資料は破棄されてしまった。しかし、米軍に接収されたエンジンは米国で研究され、英文の論文と単行本が存在する。そのリストが下記のように記載されている。

『参考のため「ネ-20」に関する論文と単行本の一部を添えておく。
(10-1)種子島時休氏の研究の全容は,同氏 がSmithsonian Instituteの要請によって書かれた“The Technical History of the Development of the jet Engine in Japan”(1968) に詳しく述べてある。
(10-2)その内容を整理したもの“The Technical History of The Development of The Jet Engine in Japan”という題目で,防衛大学の紀要Vol. 10, No.1 (1970),pp. 23-27.に掲載されている。
(10―3) Robert C. Mikesh 著“KIKKA” (Nomogram Aviation Publications,Mass. 1979)
中には「ネ-20」と「橘花」の生立ちと,specificationが詳しく書かれている。』(5)


ネ-20エンジンは実物が日本に実在する。(図14.6)その経緯については、技術の系統化の項で述べる。




図14.6 ネ-20エンジンの実物写真(IHI提供)


図14.7 ネ-20エンジンの断面図(IHI提供)

 しかし、当時はれっきとした技術の系統が存在した。それは、ネ-10からネ-20への伝承であった。
ネ-10エンジンは、海軍空技廠で実機試験が繰り返されていたが、遠心圧縮機のために所定の圧力比を得るために回転数を異常に高くし、結果インペラー等の破損事故を繰り返していた。そこで、前部に4段の軸流圧縮機を加えたネ-10改、更に改良を加えたネ-12の開発を進めていた。そこに、ドイツから全段軸流圧縮機の断面図が送られてきたというわけであった。つまり、基本的な設計技術も製造技術も十分に備わっていたわけである。また、タービン動翼についても、蒸気タービンの度重なる事故調査から、翼の振動問題や製造方法に関する十分な技術の蓄積があった。(2)
ジェットエンジン技術は、当時の国際関係の中にあって、特に同盟国間の技術の伝承と国家による援助が早期から行われていた。この国際間での協力の伝統は、現在もなお続いている。また産官学の連携についても同様で、このことはまさに最初のネ-0から始まっている。

 『陸軍では、川崎航空機が1942年11月に第2陸軍航空研究所の委託により,東京帝国大学航空研究所の援助を得ながら,ターボジェットエンジンの研究試作を開始した。林貞助技師以下僅か10名がこれに当たり,「ネ-0ラムジェットエンジン」を開発し,早くも1943年12月23日 には陸軍99式双発爆撃機「キ-48」に搭載して試験飛行に成功した。これは日本においてジェット推進による空中で運転した最初のエンジンであった。』(p.180)(2)
このように、航空機用エンジンに係わる技術の伝承と系統化は、当初からヒトからヒトへであった。それは、この製品が何よりも安全性が必要であり、かつ広範囲な科学と技術の同時適用が必要なためであったからと考える。
終戦までの間に製造された航空機用エンジンの数は、三菱重工が約5万1000台、中島飛行機が4万6726台、川崎航空機が約1万4000台という膨大な数であった。しかし、これら全ては軍需用であった。民間機としては、昭和13年の「航研機」による周回飛行距離世界記録の樹立、翌年の「ニッポン号」の世界20か国、5万2800キロに及ぶ世界一周飛行などの記録があるのみである。(3)周回飛行距離世界記録とは、これを実現するために特に設計された飛行機で、関東平野の一周約400キロのコースを62時間以上無着陸で飛行し続けた記録であった。

 しかし、このような軍用偏向には大きな欠点があった。それは、品質管理、コスト分析といった工業化としての基本的課題が全く追及されなかったことである。特に品質管理に関しては、エンジンの運用上に大きな問題があった。当時の日本の飛行機は、単発機の性能では世界一であったが、大型の4発機はうまく操縦ができなかった。これはエンジンの性能がバラバラだったためと云われている。また、エンジン修理に於いては、他のエンジンからの交換部品が手直しをしないと取りつかないといった問題があり、全体としての稼働率は世界最低のレベルだった。
さらに、戦術面でも大きな問題が語り継がれている。ゼロ戦に悩まされたアメリカ軍が、個々の空中戦では不利と考えて、新たな戦闘法を実行することを決定した。それは、戦場まで高空で大編隊を移動させて、一気に急降下攻撃をする戦法であった。このためには、飛行性能、特にエンジンの性能が均一でなければならず、アメリカの工場では当時品質管理が徹底的に行われていた。その結果、ゼロ戦はその後連戦連敗になってしまった。この品質管理に関する話は、私自身が戦後まもなくGHQ(連合軍総司令部)で品質管理(敢えてQuality Controlと呼ぶ)を学んだIHIの先輩から伺ったのだが、その教育は朝鮮戦争にあたって、修理などを日本企業に委託せざるを得ず、短期間に急遽行われたものとも伺った。これ以来、特にIHIの航空エンジン部門では、Quality Controlに関する研究と実践が大いに進むことになるのだが、そのことは後の章で説明する。

第13章 ジェットエンジンの成立(その7)

2023年07月30日 13時37分40秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
第13章 ジェットエンジンの成立(その7)

13.1.5自動車に勝る速度が求められた

 当時の飛行機は、飛行速度が遅く、向かい風時には平均速度で自動車と同等だった。かつ、エンジンの信頼性は極端に低く、燃料ばかりを大量に必要とする代物だった。そこで、飛行機と自動車でのスピード競争が始まった。
 時速200kmの壁は、14気筒(7気筒の複列)で180馬力のエンジンを搭載したデベルヂュッサン機により1913年に突破された。ライト兄弟の初飛行からわずか10年の経過は、技術競争の激しさを示している。

 しかし、瞬間的な速度とは別に、民間用旅客機に求められるのは長距離飛行の平均速度になる。この記録は、エンジンの強力化により急速に伸びた。1913年レベルでは、160馬力のGnome14エンジン搭載機の時速73.6km/hだったが、10年後の1923年では、465馬力エンジン搭載のカーチスR3機が285.5km/hを達成、さらに1931年には、2769馬力のRolls-Royce エンジン搭載機が547.3km/hを達成した。(p.113)(1)
 この時のエンジンの進化については、後章の図5.3に示す。このように、航空機の速度が圧倒的に勝ることが示されて、民間用旅客機への期待が高まった。

13.1.6最初の実用旅客機
 
 飛行機の性能と信頼性が向上し、旅客機製造の機運が俄かに高まった。そのような中で、経験のなかった新興メーカーのダグラス社がDC-1の開発を始めた。ボーイング247に遅れること5ヶ月あまりの1933年6月に初飛行を行った。カーチス・ライト社の690hp(Wright R-1820)のエンジンで12座席の旅客機であった。その性能・機能において、多くの点でボーイング247を上回ったが、小型すぎたことから1機のみの試作に終わった。
 TWA社は、DC-1のエンジンを強化し、機体長を18インチ延長して2座席増加の14座席にした機体を20機注文した。これが量産型のDC-2となった。
 機種選択競争はこの頃から始まり、以降、「スポーティーゲーム」と呼ばれる熾烈な戦いが現代まで続いている。新機種が、有力なエアラインに選ばれるかどうかは、常に企業全体の死活問題になる。このことは、後の章で解説する。

 DC-2は、TWA社に続いてKLMオランダ航空など他の航空会社からの受注にも成功する。KLMオランダ航空は植民地であるジャワとの長距離定期便に就航させ、国際旅客航空網が作られ始めた。日本では日本航空輸送が8機を輸入して運用した。日本アルプス上空を飛ぶDC-2機は、日本で切手になった。(図13.4)

(略)
図13.4 1937年に発行された飛行場整備寄付金付愛国切手


13.1.7長距離飛行の信頼性問題
 
 この時代の飛行機の信頼性は、もっぱらエンジンが飛行中に止まるかどうかだった。「エンジンが止まると、飛行機は石になる」との名言がある。この問題は、IFSD(in flight shut down)」と呼ばれて、今世紀初めまで延々と続いたエンジン設計と製造上の大問題だったので、後に別項を設けて詳述する。
 この時代のIFSDの原因の多くは、高圧電流を必要とする点火系統と、エンジンの冷却系統だった。ラジエターの水漏れは、1960年代の乗用車でもたびたび経験されていた。この問題は、1930年代に冷却水をエチレングリコールに変更して解消された。(p.124)(1)

13.1.8日本でのプロペラ機の発展
 
 この時代の日本は、日清・日露の戦争に勝利し、まさに富国強兵時代の只中にあり、航空機に対する開発熱は異常なものであったと推察される。中でも、軽快機敏な戦闘機と長距離飛行が可能な輸送機は重要視されたために、多くの機種がほぼ毎年登場することになった。
 1937年には三菱96式陸上攻撃機が、中国本土に向かって長距離渡洋爆撃を行い、世界中を驚嘆させた。さらに、1式陸上攻撃機では、長大な航続距離のために、独自の艦隊護衛行動が可能になった。これらは、エンジンの出力と燃料消費率が飛躍的に向上したことを示している。

13.2プロペラ機からジェットエンジン機へ
 
 プロペラ機の性能と信頼性が許容できるまでに増し、多くの実用機が商用飛行に用いられ、エアラインの収益性も向上した。一方で、更に高空を高速で飛行する要求は、軍用機の世界で急速に高まった。単に目標を爆撃するだけならば、ロケットでも良かったのだが、パイロットが乗る戦闘機としてのジェット機は、制空権を握るための必須の条件であり、第2次世界大戦中の英米独日のそれぞれの国で、国家を挙げて開発がすすめられた。その結果、大戦の終末期には、いくつかのジェット機が実用化への道を進んだ。その技術は、終戦と同時に一気に民間機に適用されることになった。

13.2.1パンナムの登場とその影響力

 1927年3月に実業家グループによってパンナム社(パンアメリカン航空)が設立された。キューバへの航空郵便から始めたが、その後カリブ海路線、南アメリカ路線を開発し、1930年代には路線網をヨーロッパやアジア太平洋地域をはじめとした世界各国へ拡大した。1980年代には、アメリカのフラッグ・キャリアーとして世界中に広範な路線網を広げた。この時期、各国がフラッグ・キャリアーするエアライン(日本では日本航空)を持ち、そのエアラインの注文を取り付けることが、新規の開発機種とエンジンの双方にとっては最重要課題だった。

 従って、パンナム社は世界の航空機業界内での影響力が大きく、アメリカ初のジェット旅客機であるボーイング707や、世界最初の超大型ジェット旅客機であるボーイング747といった機材の開発の後押しをした。また、現在も使われている、航空関係のビジネスモデルの多くを開発した。ボーイング747機とその進化型はエンジンの改良により実現した。燃費の大幅な改善により、以前はアラスカでのワンストップが必須だった同じ機体で、1976年に東京-ニューヨーク直行便が可能になった。つまり、同量の燃料で、より遠距離への飛行が可能になった。続いて、全ての日欧間の飛行ルートも直行便になった。つまり、大陸間航空路を持つ有力なエアラインは、民間航空機とそのエンジンの分野で、多くの技術の系統化に最大の影響力を持つ企業体ということができる。

 しかし、1970年代にアメリカで導入された航空自由化政策「ディレギュレーション」の施行により、パンナム社は次第に経営が悪化を始めた。そして、1988年末にイギリス上空で発生したPA103便の爆破事件が追い打ちとなり、1991年12月に会社は破産し消滅し、その機能は分散してしまった。米ソ冷戦時に作成された米国のTVドラマ「Pan Am」では、乗務員が外交官の役割の一部を演じる場面まであり、その影響力の大きさを推測することができる。

13.2.2ジェット旅客機の導入

 米国のダグラス・エアクラフト社は1921年7月に設立された。同社は、1924年に世界初の世界一周飛行(ダグラス ワールド クルーザー)を行って社名を広めた。1920年代後半には軍用機市場での地位を確保し、水陸両用機市場にも乗り出した。その後は軍用機の量産で会社を拡大して、1933年に民用双発機DC-1と、翌年にDC-2を製造し、続いて1936年には有名なDC-3を開発した。
 DC-3はダグラスの民間部門を一躍トップシェアにした上に、軍の輸送機C-47のベースになった。その後継機であるDC-4もベストセラーとなり、DCシリーズは近代的な旅客機の代名詞となった。多くのダグラス製航空機は非常に耐用期間が長く、DC-3やDC-4は21世紀初頭の今日も少数は現役として残されている。エンジンは、プラット・アンド・ホイットニー R-1830-92で、空冷二重星型14気筒。日本海軍は三井物産にダグラス社からDC-3の製造ライセンスを取得させ、実際の生産は1937年に設立された昭和飛行機工業に委ねた。

 昭和飛行機では、当初少数の機体をノックダウン方式で生産したが、その後完全に国産化した。このような手法は、エンジンの世界でも共通している。その後、エンジンは三菱の「金星」に変更され、日本海軍から零式輸送機として、大東亜戦争における日米開戦前の1940年に制式採用された。このエンジン換装によりカタログデータ上ではC-47を一部上回っていたとも云われる。太平洋戦争中期からは中島飛行機も一時生産を行い、両社によって、1945年までに合計486機が製造された。技術の系統化は、このような形でも行われた。

 民間航空機のジェット化は、1950年代初頭に世界最初のジェット旅客機であるデ・ハビランド DH.106 (コメットI)が、パンナムと英国海外航空(BOAC)や日本航空(以降JAL)、エールフランスなどのフラッグ・キャリアーから発注されたことに始まった。しかし、その直後に同機の設計に問題が発覚、ボーイングがアメリカ空軍の輸送機として開発していたボーイング367-80を民間旅客機用に転用したアメリカ初のジェット旅客機のボーイング707型機に乗り換えられた。

 一方で、戦後のダグラス社は、大型旅客機のDC-8と、その後ベストセラーとなったDC-9などの量産で維持されたが、品質とキャッシュフローの問題からマクドネル・エアクラフト社と合併し、マクドネル・ダグラス社となった。日本が初めて民間旅客機用エンジン開発に参加したV2500エンジンはマクドネル・ダグラス社のMD90機に独占的に採用され、日本国内でも黒澤明の虹の七色の塗装でローカル線に採用されたが、TDAがJALに吸収される際に機種の絞り込みが行われ、MD90機は日本から姿を消してしまった。その後マクドネル・ダグラス社がボーイング社に吸収され、ダグラス製航空機の製造は終了した。
以上、プロペラ機から始まり、ジェットエンジン機に至る民間航空機の技術の系統の概略を示した。各技術の内容については章を改めて解説する。

13.2.3 ドイツでの実用化
 
 1941年5月に、グロースター・ホイットルE28‐39ジェット機が、英国で初飛行に成功すると、ジェット機の実用化への認識がにわかに高まり、特に第2次世界大戦の当事国では、開発競争が始まった。そこで先行したのは、同年すでにポーランド侵攻を開始していたドイツだった。
 当時の戦争は、制空権が重要視され始めたときで、戦闘機の高速化が最大の課題であった。その期間には多くの名機が誕生した。日本のゼロ戦、英国のスピットファイアー、ドイツのメッサーシュミットなどである。
しかし、当時の星形発動機エンジンでは、高速を要求すればエンジン重量は増し、さらに空気抵抗が高まってしまう。そこで注目されたのが、ジェット機だった。
 
 英国に先行して、ドイツではハインケル社が1939年にターボジェット機ハインケルHe178の初飛行に成功していた。また、1941年にはHeS8ジェットエンジンを搭載したV-1機が飛行した。さらに、メッサ―シュミットMe262機は、高度7000メートルで時速868 km/hの飛行記録を達成した。しかし、エンジンの安定性と信頼性が十分でなく、量産は遅れた。同機は、1944年7月にようやく実戦配備されたが、既にドイツの敗戦は決定的だった。このことからも、当時米軍内でグラマン機に適用された、製品機能のバラツキをコントロールするための品質管理技術が、開発成功から量産に至る過程でいかに重要かが解る。

 ドイツのエンジン開発は、ハンス・フォン・オハインにより主導された。上記の初飛行は、第2次世界大戦が始まる僅か5日前のことだった。ドイツでのターボジェットの開発は、当初は国家の援助を受けない2社(ハインケル社とユンカース社)により行われた。フォン・オハインは、博士課程でジェット機の基礎計算を行い、時速500マイルが可能であるとして、特許も取得した。そして、1936年にハインケル社に入社した。1937年委は、水素燃料でHeS1エンジン(図2.5)のテストに成功した。その改良型のHeS3Bエンジン(図13.6)で初飛行に成功した。ドイツでは、早くから遠心に拘らずに、軸流の圧縮機との併用を進めていたことが分かる。しかし、性能的には十分なのだが、信頼性が全くなく、寿命に関するデータも全くない状態では、戦争を目前に控えたドイツ航空省には相手にされなかった。


図13.5 HeS1エンジンの断面図 (2)


図13.6 HeS3Bエンジンの断面図(2)

 しかしその後、実績の積み重ねで航空省の援助を取り付け、ついにHeS011エンジン(図13.7)を完成させた。圧縮比4.2、2段空冷タービン、回転数10205 RPMという、小型エンジンとしては戦後の発展期でも遜色のないものだった。(2)断面図を(図13.8)に示す。


図13.7 HeS011エンジン(2)


図13.8 HeS011エンジンの断面図(2)

第13章の参考・引用文献;
(1) 黒田光彦「プロペラ飛行機の興亡」NTT出版(1998) 
(2) 吉田英生訳「Hans von Ohain博士による先駆的なターボジェット開発」日本ガスタービン学会誌(2008)p.141-146
(3) 勝又一郎「石川島播磨重工におけるFJRジェットエンジン開発とV2500エンジンへの実用化」日本ガスタービン学会誌(2016)p.452-457

ジェットエンジン技術の系統化(その6)

2023年07月09日 09時14分00秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
第13章 ジェットエンジンの成立

 現代の大型の民間航空機はすべてがジェットエンジンだが、その技術の系統化を語るには、プロペラ機から始めなければならない。ジェットエンジンの基本であるガスタービンは、高効率な要素技術を必要としており、それらは理論と実験室的には20世紀前半には確立していた。そして、第2次世界大戦を境に、軍用機としての実用化は大いに進んだのだが、経済的な性能と信頼性が十分に出せず、民間航空機としてプロペラ機の市場を代替えするのは容易ではなかった。
 そこで、軍用機としての開発と実績とを民間機用ジェットエンジンに転用する方法が選ばれた。そのことは民間航空機の発達の状況を一変させた。特に、大陸間飛行の実現には高速で高々度まで飛行可能なエンジンは必須の動力源だった。

13.1プロペラ機の時代
 プロペラ機は、小型から大型まで非常に多くの機種が開発された。当初は、自動車と小型機による遠距離間の到達時間競争だったが、次第に大型化して長距離を飛べるようになった。本稿では、現代と近未来に繋がってゆくジェットエンジンの技術の系統化が主題であるので、プロペラ機については、トピックス的な項目にとどめる。

13.1.1動力航空機による人類の初飛行
 動力航空機による人類の初飛行は、1903年12月17日にライト兄弟によって行われた。風速15メートルで離陸し、40メートルを飛んだと云われている。この時のエンジンは、直列四気筒の水冷式ガソリンエンジンだった。
 ガソリンエンジンは、オットーガス機関に始まる。それ以前の動力は、もっぱら蒸気機関だったが、ボイラーの爆発事故などが多発し、より安全な内燃機関が求められていた。オットーガス機関は、当初は工場用の動力として用いられたが、燃料をガソリンにすることで、自動車に多用されるようになり、一気に需要が高まった。しかし、当時の自動車には、軽量、高出力の要求は高くなく、馬力当たりの重量は、蒸気エンジンと大差はなかった。しかし、小型化にはガソリンエンジンが圧倒的に有利であり、航空機用の動力源として適していたと云える。
 ガソリンエンジンで飛行機を飛ばすには、プロペラが必要になる。つまり、推力を発生させるための動力源としてはエンジンとプロペラのセットが必要になる。飛行に関しては、当時すでにグライダーの技術があり、ライト兄弟の成功の要因は、安定した動力に加えて、機体の安定性と操縦性の獲得だった。


 図13.1 ライトの直列4気筒水冷エンジン(1)

 彼らは、スミソニアン協会への手紙で、飛行に関する多くの文献を入手した。また、自身でグライダーを製作して、1000回以上の滑空を経験して安定性を学んだ。最後に、動力装置に移り、4000cc 12馬力のエンジンを完成した。そのエンジンで、左右のプロペラをチェー ンで結び動力装置を完成させたのだが、片方を逆掛けすることで、左右のプロペラを逆回転させて安定性を得ることができた。(1)


図13.2 ライト機のチェーンドライブ図(1)

13.1.2 航空機用エンジンメーカーの誕生
 当初は機体メーカーがエンジンも製造したが、やがてエンジン専門メーカーが誕生した。そこから、性能が向上し1907年7月には、英仏海峡横断に成功した。エンジンは、3気筒扇形だった。機体名称は、ビレリオ11で、1910年にはアルプス越えにも成功した。英仏海峡とアルプス越えは、ヨーロッパ内の軍事路としても重要な意味を持っている。この頃から航空機は、郵便や旅客の輸送ばかりでなく、偵察能力なども含め、軍事的にも重要なものとなった。(p.41-42)(1)

13.1.3ロータリーエンジン(星形エンジン)

 1910年12月に、徳川好敏大尉が日本における初飛行を達成した。機体は、アンリ・ファルマンでエンジンはロータリーであった。エンジンのクランクシャフトが直接プロペラと結合されているので、回転を安定させるためのフライホイールが必要なく、かつエンジン内の上下動が、星形に配列された複数のエンジンにより相殺されるので、振動を大幅に減らすことができた。以後は、この星型エンジンが主流となっていった。(p.44-48)(1)




図13.3 徳川大尉の日本初飛行の地記念碑と徳川大尉の胸像
 (代々木公園内にて筆者撮影)

13.1.4特許権の影響
 1900年代の初めは、特許の全盛期と呼ばれている。エジソンが膨大な数の特許でビジネスを成功させると、その気運が一気に高まった。ライト兄弟も特許に固執した。カーチスが航空機を商売にしようとすると、すぐに特許侵害の異議を唱えた。異議は裁判となり、長く続くことになる。しかし、このために米国ではその後の進歩が遅くなり、ヨーロッパが独り勝ちの開発競争がすすめられることになってしまった。(1)(p.34-35,51)
 ライト兄弟の場合は、その機体が改良に向かずに周辺特許を出せなかったが、エジソンの場合は、エジソン発電会社の利益を投入して、技術開発を継続的に進め、そこから特許を量産する体制を整えたことによる。
(1)(p.36-37)

 このことは、現代にも当て嵌まる。特許の独占により利益を得ることが多いのだが、一方で、早期の公開が世界の発展に貢献した例も少なくない。ジェットエンジンの場合は、特殊材料の使用量が他の産業に比べて極端に少ない。そのために、新材料を独占すると材料データの統計値や加工法の進化が遅れる傾向にある。つまり、早期に多くの技術者に当該技術が採用されることにより、更なる技術の進化が促進されて、全体の能力が一気に高まることを、特許の独占使用が抑えてしまうことが起こる。特許戦略についても、長年の経験が重要になる。

コラム(その1) 
国際エンジン開発から得られた教訓(その1)特許論争の使い方(3)

 1970年代中頃の通産省大型プロジェクトFJR710/20が行われていた時代は,すでにBoeing747などのジャンボジェット機の最盛期で,オーバーホウルなどから,実機のタービン翼の冷却構造なども明らかになってきた。そのようなときに,事前に提出した精密鋳造の冷却構造の特許が審査の時期を迎えた。
 それ以前にも,いくつかの特許を提出していたが,特に問題はなかったが,これに関しては特許庁から「異議申し立てがありました。」との通知が来た。内容から異議の申し立てはGEからのものであることは明白だったが,私は,彼我の違いを説明する回答書を直ちに送った。しかし,再度の異議申し立て書が送られてきた。そのような往復が3回は繰り返されたと思う。そして,最終的には「冷却性能の飛躍的改善は伝熱工学的に明らかなので,その他の部分にGE社の特許と同じ構造が含まれていても,全体としては明らかに新発明である。」との意見が採用されたようであり,めでたく登録された。
 この特許の冷却構造は,以降の多くのタービン翼(CF6-80A,E3など)に応用されているのだが,量産に至らずに金銭的な収入にはならなかった。しかし,たとえGEが相手であろうとも,とことん議論を尽くすというこの時の経験が、以降の国際プロジェクトのV2500とGE90では大いに役立った。意見が対立するときには,先ずは反論をすること。それに対する反論にも,更に反論をすること。少なくとも3回はこれを繰り返さなければ,お互いの力を理解し合うことはできない。そして,国際共同開発プロジェクトにおいては,この「お互いの真の力を見極めること」が,真の協力体制を築くうえで最も重要なことの一つである。

第13章の参考・引用文献;
(1) 黒田光彦「プロペラ飛行機の興亡」NTT出版(1998) 
(2) 吉田英生訳「Hans von Ohain博士による先駆的なターボジェット開発」日本ガスタービン学会誌(2008)p.141-146
(3) 勝又一郎「石川島播磨重工におけるFJRジェットエンジン開発とV2500エンジンへの実用化」日本ガスタービン学会誌(2016)p.452-457

第12章 ジェットエンジンの原理と初期の歴史(その5)

2023年06月14日 07時06分05秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
第12章 ジェットエンジンの原理と初期の歴史(その5)

12.3.3 史上初の飛行
 一般には、上記のホイットルエンジンによる初飛行が有名だが、実際には、それに先行したジェット機があった。それは、ドイツのハンス・フォン・オハインが主導したHeS3Bエンジンを搭載したハインケル社のHe178機で、初飛行は1939年8月27日だった。英国よりも2年先行していたことになる。
 しかし、第2次世界大戦に実戦配備されたのは、ともに1944年の半ばであり、ドイツの2年間の先行は、独国の敗戦もあって独国航空機産業にはあまり生かされなかった。彼が製作に関与したHe280が独空軍に採用されずMe262が採用されたために、ジェットエンジンの実用化が進まなかったのであった。
一方で、次項で述べるように、日本のジェットエンジン技術開発の黎明期に独国のジェットエンジン断面図がもたらした恩恵は大きなものがあった。彼は後に米国空軍航空宇宙研究所で所長としても活躍し、数件の先端的な米国プロジェクトをリードし、退職後はデイトン大学で研究室を創設・維持して後進の米国若手技術者を指導した。

12.3.4 日本における初期の研究
 わが国におけるジェットエンジンの開発は、種子島時休(1902-1987)海軍大佐の夢から始まったと伝えられている。彼は昭和9年(1934)に「航空ガスタービン」という論文を発表し、それをもって昭和11年からパリ駐在の航空監督官として2年間在欧した。
 昭和13年に帰国後、直ちに海軍航空技術廠発動機部で試作エンジンの研究を開始した。しかし、実機の製作に取り掛かれたのは、昭和17年からであり、翌年ようやく自立運転に成功した。この時のエンジン名はTR-10(後にネ10と改称)で、「エンジンは外部からの送風を止めても、見事に自力で回転を続行した。この瞬間が日本で最初のジェットエンジンの産声であった」(9)と記録されている。自立運転への到達が、いかに困難だったかが分かる。
 ネ10エンジンは、その後回転数を落とすなどの改良を加えて、ネ12Bとして30台の生産が決定されたが、間もなくドイツから実用機の図面が入手できるとの情報があり、中止された。


図12.13 TR-10 ジェットエンジン概念図(2)

次回は、第13章 ジェットエンジンの成立

第12章 ジェットエンジンの原理と初期の歴史(その4)

2023年05月26日 12時53分46秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化

12.3.2 ホイットルエンジンの初飛行までの道のり

 ホイットルは、1953年自伝を執筆し「Jet, the Story of a Pioneer」と題して発行した。この書は翻訳されて「ジェット、ある先駆者の話」(6)として発行されている。その中には、技術者への示唆に富む話が述べられているので、一部を引用する。

 最初の特許の申請については、『科学課目の課題として,われわれは学期毎にーつの論文を書かねばならなかった。第4学期のとき,私は“Future Development in Aircraft Design” という題目を選んだ。この課題がジェット推進に関する私のその後引続く仕事の事実上の出発点となったものである。この下調べをしている間に,非常な高速と,大きな航続距離とを同時に満足させようとするならば,空気密度が小さく,したがって速度に対する空気抵抗が大巾に減ずるような,高高度を飛行することが必要である,という結論に達した』。(p.11)
 
また、当時の大学側との軋轢に関しては、『数年間の実地の経験を経て大学に入ったということは、いろいろの場合に大きな利益であった。何故なら私自身の経験の中で遭遇した多くの現象について,その理由を知りたいという強い願望を抱いていたからである。勿論,私の最大の関心事は航空工学に密接に関係した問題であった。私にとっては極めて実際的な意義をもっているような諸問題が、学校から直接大学に進んだ人々から見ると,むしろ学問上丈の問題と思えるらしかった。』(p.43-44)(6)と述べている。このことから、彼が特許の提出時点から、最終目的であるジェット機の飛行を念頭に置いていたことが分かる。



図12.11 グロースター・ホイットルE28-39(8)
                                       
 ジェットエンジン搭載機による初飛行は、1941年5月15日にグロースター・ホイットルE28-39(図12.11)により達成された。1930年の実用機の特許から11年が費やされたことになる。その間の事情は、英国の機械学会誌に投稿された次の論文に詳しく述べられている。そこには、58の図表と写真が掲載されている。

THE FIRST JAMES CLAITON LECTURE「The Early History of the Whittle Jet Propulsion Gas Turbine」(Int.MechE,1946)

 最初の実験機から実用機に至るまでの試験機の設計―製造―試験のすべが、「Diagram Illustrating the Principal Events in Early History of the Jet Propulsion Gas Turbine」として纏められている(図12.12)。そこには、実験の総運転時間は1000時間に及んだことが示されている。



  図12.12 ホイットルエンジンの試験運転の年表(8) 

 図表中で注目されるのは、実験用エンジンW.1とW.1.Xの複雑な動向である。「SENT TO GE.C LYNN, Mass.OCT.1941」とある。つまり、母国である英国から米国に引き渡された。その間の事情は詳しくは述べられていないが、本文による経緯は以下のようにある。
 
 1941年初めにGloster Aircraft CompanyによりE28の機体が完成し、WX1が搭載された。初回試験では滑走路でのタキシング中に、わずかに地表を離れたとある。初飛行は5月14日に行われた。ここに至る経緯については、1939年に空軍省から、一切の基礎試験を中断して、実用機による試験飛行用のエンジンとしてのデータを取りそろえることが要求された。そのために25時間の特別なカテゴリーのテストを短期間で完結しなければならなかった。その結果は、エンジンの回転数―燃料消費率―排気温度のグラフが示されている。試験飛行用の機体に搭載する燃料は、全体の軽量化のために最小限でなければならない。
 試験機の概略が図に示されている(図12.11)。いずれのエンジンも、短期間で設計・製造され、試験運転に供されていることが分かる。

 さらにアメリカへの輸送に関しては、次のような簡単なメモ書きで済ませれている。
「英米両国政府のアレンジにより、WX1機とW2Bに関する図面一式、Power Jet社の小チームが1941年秋にGeneral Electric社のLinn工場に送られた。集中開発テストの為である。」

 筆者の推定ではあるが、ホイットルは、ジェットエンジンの構成要素である、圧縮機、燃焼器、タービンなどの基礎試験の積み重ねが無ければ、確かなエンジンを設計することはできないことを確信していた。一方で英国では、そのために必要な十分な資金も援助も得られないことを、過去の経験から認識していたのではないだろうか。つまり、技術の伝承に関して当時の英国には大きな問題が存在していた。しかし、大戦中という非常事態ではあったが、独空軍の爆撃を避けるための選択という事情があったとはいえ、有能な頭脳と試験機に関するすべてを米国に移す決断をした英国政府の判断は正しかった。

第12章の参考・引用文献
(1)John Golley「WHITTLE The True Story」Airlife Publishing Ltd.(1987)
(2)吉中 司「数式を使わないジェットエンジンの話」酣灯社(1990) p.16-17
(3)吉田英生「George Braytonとその時代」日本ガスタービン学会誌(2009.5) p.126
(4)八島 聰「最近の航空エンジンの動向」日本航空宇宙学会誌(1992) p.230
(5)岩井 裕(抄訳)、「Whittle Turbojetの開発」日本ガスタービン学会誌(2008.5) p.134-139
(6)Sir F. Whittle著、荒木四朗他訳「ジェット・ある先駆者の話」一橋書房(1955)
(7)小茂鳥和夫「ホイットル自伝より」日本ガスタービン会議誌(1975) p.40-46
(8)THE FIRST JAMES CLAITON LECTURE「The Early History of the Whittle Jet Propulsion Gas Turbine」Int.MechE, Vol.152(1946)p.419


第12章 ジェットエンジンの原理と初期の歴史(その3)

2023年04月29日 07時53分35秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
第12章 ジェットエンジンの原理と初期の歴史(その3)

12.3 自立運転の成功


 ガスタービン自身の自立運転は、タービンで得られる回転力が、自己の圧縮機を回すための力を上回ることで成立する。その残りが動力となって利用されるので、従って、圧縮機とタービンの効率が高くないと必要な出力を得ることはできない。実は、エンジンのスタートからアイドリングまでの熱力学サイクルの安定がもっとも難しい。従って、スタートからある回転数までは、スターター(補助始動装置)による補助が必要になる。このために、自立運転の成功までには、長い年月と多くの失敗が重ねられた。

 また、ジェットエンジンの場合には、タービン出口で高速なジェットを噴き出すための圧力が維持されていなければならず、しかも、安全のためには、いずれの状態からでも急加速が安定して行われることが要求される。従って、更に高い効率と安定性が要求される。
 英国人フランク・ホイットル(Frank Whittle、1907-1996)は空気が希薄な高空を高速で飛ぶ航空機にはジェットエンジンが必須の機関であること主張し、特許を出願して自ら試作を繰り返し、ついに自立運転に成功した。その後、当時戦禍の中にあった欧州で、ジェット戦闘機用のエンジンとしての開発競争が急速に進み、彼は、その功績により英国女王よりサー・フランクの称号を得て、ターボジェットエンジンの先覚者として讃えられている。

12.3.1ホイットルによる成功

 彼は、英国空軍大学(Royal Air Force College)の飛行士官候補生として勉学し、優秀な成績で卒業後ケンブリッジ大学工学部に派遣された。彼は、グリフィスが主張する軸流式ターボプロップエンジンではなく、構造が簡素な遠心式ターボジェットこそが早期の戦力化に適する、と反駁する論文「航空機設計の展望」(Future Developments in Aircraft Design) を1929年に軍需省に上申し、翌1930年1月これを特許(Patent347206)として出願した。そこには、(図2.5)に示される基本図が示されている。(1)


図12.5 ホイットルの特許に示された図面(1)

 しかし、彼のアイデアは当時の技術では実現が不可能と考えられ、諸権威から逆風を受けた。そのために、航空省はわずか5ポンドの更新料を払わずに、特許は失効した。そこで、彼は1935年に改めて実験用ターボジェットの特許(Patent459980)を申請した。そして、1936年にPower Jet Ltd. を設立し、WU(Whittle Unit)シリーズの実験用エンジンを次々に製作し、実験を続けた。最初の仕様は、圧縮機効率80%、タービン効率70%、燃焼器出口温度1052°K、推力は630kgとされていた。その時の様子を示す写真と図が残されている。


図12.6 実験中のホイットル(1) 


図12.7 最初のホイットルエンジン(1)

 ホイットルは、その後WU Model2(図12.8)とWU Model3(図12.9)を製作し、実験を続けた。しかし、研究資金不足のために必要とされる要素試験は行えずに、いきなりエンジン試験を繰り返すことになり、ジェット戦闘機への搭載への道は厳しかった。

図12.8 WU Model2(1)


図12.9 WU Model3(1)

 彼は、第2次大戦後の1976年に、待遇改善を求めて米国に移住した。彼が再び英国に戻ったのは1986年8月、長年の業績が讃えられてSir Frank とLady Whittleとしてであった。Whittle 夫妻は、英女王とアフターヌーン・ティーを共にし、英国首相から表彰された。(図12.10)そこには、「20世紀の偉大なエンジニアであり、我々の生活を変え、過去には考えられなかった旅行を可能にした」と記されている。(1) 


12.10 英国の首相から表彰(1)

第12章 ジェットエンジンの原理と初期の歴史(その2)

2023年04月22日 07時50分00秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
12.2 ジェットエンジンの原理
 
 飛行機が高速で飛べる原理は、単純に考えれば作用と反作用だけの問題となる。つまり、プロペラ機やジェット機と扇風機は同じ原理になっている。(図12.2) 扇風機は風が発生しても動かないが、それは発生する力が弱く、扇風機自身の重量による台座の摩擦力に勝てないからで、もし車を付けた台座に乗せれば、風と反対方向に動く。(2)同様に、プロペラ機でも、プロペラの回移転数が低いときには、発生する力は弱く、ブレーキによって停止している。


図12.2 推進に貢献する反作用(2)

 ジェット機の場合も同様で、エンジンがアイドリング(待機状態での運転)の時には飛行機は動いてはならない。そのために、エンジンのアイドリング時の出力は、定格の1%以下に抑えなくてはならない。実は、このことは設計上少し難しい。なぜならば、エンジンが自立回転をするのは、タービンが発生する軸力と、圧縮機に加えられる軸力とが一致した時であり、その状態ではまだ回転数は低く、エンジン内の空気の流れは不安定なままである。
 特に、ファンジェットエンジンでは、最前部にあるファンを通過する空気の大部分は、タービンでの仕事をせずに、そのまま後方に噴出されて推力になってしまう。従って、アイドリング時には、コアー側を流れる空気を熱力学的によほどの高効率で作用させないと成立しない。
 さらに、着陸時にはフライトアイドルで着陸態勢のまま進行中に、何らかの異常事態が発生し場合には、所定時間内に最大出力の95%まで急加速ができなければならない。このように、ジェットエンジンでは通常のガスタービンでは求められないいくつもの特殊条件がある。そのことについては次の巻で述べる。

 ジェットエンジンはガスタービンの一種であり、その基本はブレイトンサイクルとして1872年にブレイトン(George Bailey Brayton、1830-1892)によって熱機関として考案された。当初は、圧縮工程と膨張工程をシリンダー内のピストンで結ぶもので、ターボ式ではなかった。
 このサイクルは、比較されるオットーサイクル(ガソリンエンジンの原理で1877年に考案)とディーゼルサイクル(ディーゼルエンジンの原理で1892年に考案)より早くに発表されたのだが、有効な仕事を取り出すためには、構造が複雑になることと、定圧燃焼を維持することが困難と見なされて実用化が遅れた。しかし、連続サイクルが可能な回転式の圧縮機とタービンが開発されて連続燃焼が容易になると、ガスタービンとしての開発が一気に進むことになった。しかし、その構造と必要な出力を得るための各要素の性能向上が難しく、実用化は20世紀からであった。一方で、19世紀には多くの熱機関が発明されて、順次実用化が進められた。その間の年表を(図12.3)に示す。


図12.3 ブレイトン時代における熱機関の歴史

また、ブレイトンサイクルでは、一般的に温度比と圧力比が高くなるほど熱効率は良くなる。従って、気圧も気温も低い高空であっても、地上と同じ温度比と圧力比であれば、熱効率を保つことができる。また、全体性能の向上は、タービンの入り口温度(TET;Turbine Entry Temperature)とそれに応じた圧力により実現する。要素のポリトロピック効率を88%と仮定した時のマッハ0.8での巡行時の熱効率を図1.4に示す。(4)


図12.4 タービン入り口温度と熱効率の関係(4)


第12章 ジェットエンジンの原理と初期の歴史(その1)

2023年04月17日 07時16分12秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
第1章から11章までは別件なので、都合により第12章から始める。

第12章 ジェットエンジンの原理と初期の歴史

 ジェットエンジンは、高速で噴き出すジェットの反力により有益な運動を起こすもので、その起源は紀元前のアレクサンドリアのヘロンが発明したアイオロスの球と考えられる。

12.1 ヘロンの装置と原理


 アイオロスの球(アエオリピル)(図12.1)は、一般的にはヘロンの蒸気機関と呼ばれているが、ウィトルウィウス(紀元前80年ごろ - 紀元15年)は アイオロスの球について「アイオロスの球は中空の真鍮製容器で、1つの小さな開口部があり、そこから中に水を満たす。容器の水を火の上で熱すると、ささやかな風が放出される。水が沸騰してくると、激しい風が吹き出してくる」と記している。 

 原理的には、羽根のない簡単な半径流蒸気タービンなのだが、ジェットの力を直接に使っていることで、ジェットエンジンとも云えるのではないだろうか。
 Lord Kings Nortonは、「WHITTLE the True Story」(1)のまえがきで、「his aeolipile, which was a simple form of turbine driven by jet propulsion」と述べている。                 

ヘロンは、その球形容器の回転軸にロープと滑車を取り付け、ロープを巻き上げることによって寺院の扉を自動的に開いてみせたとの説がある。この力の原理は単純で、作用と反作用だけの問題となる。つまり、ある物体から作用力を発生させて、その反作用で動かす力を得ることになる。


図12.1 アイオロスの球

 ジェットエンジンも、これと全く同じ原理で航空機に加速度を与えている。
 ヘロンは、これ以外にも機械を発明したのだが、それらの技術が伝承されることはなかった。この機構の採用は、当時の奴隷の労働力を際限なく搾取すると考えられたためであった。このように、技術は思わぬ理由で、系統化が完全に途切れてしまうことが、歴史上多く発生している。