世の中の二乗>75の二乗

話せば長くなる話をする。知っても特にならない話をする。

ティーヴィーかぶれ

2005年09月04日 23時00分38秒 | Weblog
いつものように鉄腕ダッシュを見ていた週末。
リーダーと山口くんが沖縄宮古島を旅している。
ライトブルーの海。照る太陽はまぶしく輝く。
と、そこに地元で採れたフルーツの直販所に遭遇。
アップルマンゴーは色鮮やかで粒揃いである。
隣には見慣れぬ果実が。ドラゴンフルーツと言うらしい。中を割ってみると赤と白の2種類の果肉。一般には白が多いという。
山口くんが食した白はさっぱり味。リーダーの赤は甘味があるという。
なんじゃこりゃー!?
魔か不思議な食物である。
一度も食べたことなんてない。
食べてみたいっ!
その思いは強く姉を突き動かし、持てるかぎりの人脈と時間を要し手に入れた。

これ。ドラゴンフルーツ。割ったらこう。

白い。食す。

味は淡白なイチジクのよう。
テレビの影響力と欲望を叶得るだけの流通力に脱帽と感謝。
あと、ちょっぴりの恐れ。

贅沢時間

2005年09月03日 14時23分43秒 | Weblog
というものがあるとすれば、
それはお高くておいしいディナーを食べてるときでもよいし、
リッチにブランドめぐりの買い物をしているときでもいいし、
海外旅行に行った先でのアフタヌーンティーやパイナップルが刺さったココナッツジュースでもいいのだけれど、
実はそこには人の感情があればこそとやはり思うのだ。
フランス料理が口に合わない人もいる。
買い物したはいいが、足が痛くなっちゃうこともある。
海外で殺される人もいる。
ならば、自身が無事であり、楽であり、尚且つ多額のお金のちらつく時間や空間のことを贅沢時間と呼ぶのか。
昨日のセカチューはまさにそれだった。
世界の中心で愛を叫ぶ、と言えば日本中が好き嫌いは関係なく誰でも知っている大ヒット物語である。
好き嫌いは関係なく、と言ったのは、姉自身がこの物語を好きではないせいもある。本当に主観的な理由で。
人の口から聞き伝わった情報しか持ち合わせていなかった。
しかし今回、なんと舞台化されるセカチューのタダ券が手に入り、主観的には嫌いだが、世論としては大ブレイクしているセカチューとやらをとくと見極める絶好のチャンス、とばかりに見に行ったのである。
というかタダだから、嫌いだという自己をも曲げて見に行ったのである。
きったない話をすると、このチケット本来なら7,000円の価値があるものである。
姉は一切何も支払わず、のうのうと着席し、興行価格シアホリの7倍の芝居を堪能できる贅沢時間のはずであった。
苦痛だった。
前半だけでもう外に出てゆきたかった。
これはセカチューじゃなく、劣悪な海賊版なだけだと思った。
多分、映画やドラマやまして原作の小説の方がよっぽどすばらしいだろうと予感させられた。
お客を舐めきっていた。
この程度でいいだろう、というやっすいプロの腕が垣間見られた。
その中で動かざるを得ない俳優人に同情した。
舞台にするならするなりの舞台の特性を活かしたつくりをすればよかった、というようなごく当たり前の感想ですら、底辺のこの芝居からはなかなか出てこなかった。
とにかく、強烈な見くびられた感が襲ってきた芝居だった。
しかし、隣を見れば泣いている人もいる。
つまらなすぎてあくびして涙が出ているのではない。
つまらなすぎて口慰みに持参したからしを舐めて衝撃で泣いているのではない。
おそろしいことに、
感動して泣いているのだ。
ダメ芝居に泣く。
これは我々が面白いと思うような芝居を見たら、痙攣を起こすか、「わかんない」と言ってなかったことのカテゴリーに納められるかのどっちかしかないのじゃないか。
そう考えて冷たいものが背中に乗るのを感じた。
「とよた真帆がきれいだった」と言ってこの芝居までも「きれいだった」カテゴリーにしまってしまえるこのお客たち。
主観の世の中だから、それがありっちゃありなのだ。
それで満足すればね。
でもそれは、「小さなことでも満足すれば大きなことでも満足しない人より幸せだ」というような類の話ではない。
だってそいつら、幸せだけれど、馬鹿だもの。
いや、お客を責めることはやめましょう。
あの芝居を責めましょう。
舐めちか!
そんなにどうでもいいなら、やめちまえ!


んで、ヘッダ・ガブラーです。
大変クオリティーの高い、色々な評価に値すべき作品だと思いました。
セカチューとは雲泥の差です。
一緒の土俵に上げることもはばかられます。
思わず、ですます調にもなりますよ!
すばらしかったです。
こんないい作品がここで見れることに贅沢さを感じました。
これなら開演前にいらついた整理される過程もどうでもいいことのように感じました。
見ないほうが大損。
そんな芝居でした。
が、申し訳ないが好きではない。
全くの主観です。
ただ、こういうものなの!と完結したハイセンスの作品を前に出てくるのはただの主観ではないかとも思うのです。
姉は参加したいのです。物語に。
それがなかった、というのが一番大きな要因でしょうか。
ヘッダが燃やしたその紙切れにどんな意味が込められていたのか、というものについてもっともっと姉が芝居に入り込んでいきたかった。
しかし、この芝居はそういう造りにはなっていなかったんですね。
紙の意味でなく、ヘッダの行動に重点を置いた。
感情ではなく、行動によって感情も引き出されていく。
というような、メソッド性に置き換えたらば、
一つの物事にこだわったのでは大きな道は見えてこないのでしょう。
そして、大きな道を見せることがこの芝居の大きな特徴であり、今までにない新しさだったのでしょう。
今までの芝居は今回がカットした過程というものをくんだらくんだら紡いでいく類のものだったような気がするからです。
だから難しいと思い込んでいる古典がすごくわかりやすく提示されるのです。
行動を見てれば、物語がわかるんですから。
せりふを聞いていなくても、見てれば理解できるのです。
それはとてもステキなような気がします。
が、古いのでしょうか。固定観念の教育にとらわれているのでしょうか。
姉はそれが見たいものではないのです。
かなり誤解を生むようなことを書きましたが、
ヘッダ・ガブラーに感情が反映されていないわけでは決してありません。
だからこそのこのクオリティーの高さだとも思います。
しかし、カットしたものは確かにあったはずです。
作品を自分の作品たるものにするために。
姉はその部分が見たかった。
主観です。
ヘッダと一緒に苦悩したかった。
それをさせてもらえなかった。
それは作品の完成度の高さ故の感情移入であり、
作品の構成故の拒絶だったような気がするのです。


各作品を見終わった後、
仲間内で交わす劇評と論争がたのしいです。
そういう相手がいて、
そういう作品があることはとてもとても贅沢なことです。
セカチュー見てもヘッダ見ても話し合いましたが、
断然ヘッダの方が論争が過熱したのが事実。
朝まで論争させる。
そんな芝居を作りたいです。
そんな贅沢な時間を届けることが出来ればいいです。