世の中の二乗>75の二乗

話せば長くなる話をする。知っても特にならない話をする。

寒いと水がうまい

2008年01月20日 02時07分06秒 | Weblog
宮沢章夫「サーチエンジン・システムクラッシュ」と、
ジャック・ケッチャム「老人と犬」を読む。
別に意図したわけではないが、
続けざまに読んだこの2冊とも、探す話だった。
といっても、それ以外に共通点はない。

「サーチエンジン・システムクラッシュ」は、
99年の作品で、99年って言ったらもう9年前になる。
9年前って言ったら、まだ、「風紀を乱す」という理由で高校生は携帯電話を学校に持って行ってはいけなかったし、当然iアプリとか全くなかったし、パソコンも今みたいに「使えなきゃもうそれだけで罪」というわけでもなかった。
今でこそヤフーとかグーグルとかまかり通っているが、99年当時「サーチエンジン」なんて言葉は、あまり普及していなかったと思う。
宮沢章夫自身、エッセイかなんかで言っていたが、この小説が世に出たときによく「このタイトルどういう意味ですか?」と聞かれたらしい。
しかもそれは、「どういう意味でこのタイトルをつけたのか」という質問ではなく、単純に「タイトルの言葉はどういう意味か」という質問だったと言っている。
つまり、ヤフーなんかがアクセス数多すぎたりとかして機能しなくなっちゃった状態のことよ、と今では簡単に説明できそうな、しかも実感こもって話し合えそうな言葉が、当時は一般的ではなかったわけだ。
そういう意味で、新しい小説だったのだと思う。
探しても探しても見つからない話。
探すものがどんどん移り変わっていく話。
しまいにはなにを探しているのかもわからなくなる話。
どこにもなににもたどり着かない話。
頭がぐるぐるする。
それでもすごいと思うのが、こういう小説にありがちな精神世界のほうに絶対行かないことだ。
途中で見上げるビルに大きな花が咲いたり、電柱のポスターの女においでおいでされたりはしない。
あくまでも、状況を丹念に描いていく。
たとえば、小説の中で池袋を迷い歩くシーンがあるのだが、これは小説の中だけの話とはとても思えない。実際、池袋は迷うのだ。細道に入れば、風俗店とか中華料理屋がびっちりで駅がどの方角かもわからなくなる。まして、そのなかから曖昧な目的地を割り出そうとするなんて、現実問題として目眩がする。
そういう納得できるわかりやすさがあるから、読んでいて置いてきぼりにされない。
そういう部分で安心できているから、不意に襲ってくる不条理さにも素直に驚ける。
そう、これは全然意味がわからない類の話だ。
でも、話がわからない話ではない。説明できる。「探す話」だ。
あくまで、「意味が汲み取れない話」で、そういう「純粋な意味のわからなさ」こそおもしろがる話だと思った。
だからこそ、タイトルの段階で「言葉のわからなさ」につまずいてしまった99年の読者には残念だったと思う。
そこでつまづいたら、内容になんてとてもいけないじゃない。
最近、言葉の選択と時代性というものをよく考える。

「隣の家の少女」に引き続き、2冊目のジャック・ケッチャム。
「老人と犬」を読む。
この作家はむごいことばかり書くのだが、なぜか私は文章が好きだ。
なんてことないある一節が頭から離れなくなったりする。
2冊読んでそう思い至った。
まあ、実際は翻訳されている文章を読んでいるわけなので、その翻訳された日本語に惹かれているのかもしれないのだけど、話しの持って行きかたも好きだ。
とくべつな大仕掛けがあるわけではないが、筋道を立てて進み、ちゃんと着地する実直さがいいのかもしれない。
もっとも、その話の中身はたいへん悲惨なものなんだけど。
「老人と犬」も探す話だ。
しかしこの話は、「サーチエンジン…」とは違ってすごくはっきりとした目的と強靭な意思がある。しかも、なんと、悪の暴力と戦うのだ。
典型的なアメリカの正義物語、屈強なヒーローの復讐劇、と済ませてしまえるかもしれないのだけど、この小説に裁きはあっても、「勝利」はない。
だれも勝たない。
最終的にはみんなが傷つく。
しかも生きていかなくてはいけないし、これからも人生は続く。
うげ、つれー。
つれーつれーことをたくさん見せてくれる。

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