世の中の二乗>75の二乗

話せば長くなる話をする。知っても特にならない話をする。

生活と慣れ

2011年06月19日 21時29分26秒 | Weblog
日本に帰ってきて一週間。
あまりおいしくないお菓子を職場で配ったり、
あいかわらず「大きくなったらAKBになる」という子たちと付き合う。
友人ともぽつぽつ会って、
ベトナムのことを少し、ベトナムのことじゃないことをたくさん話す。
生活のにおいがするとこに帰ってきたなという感じ。
生活というのは仕事、のことかもしれないし、雑談、のことかもしれないし、
明日なにをすればいいのかわかっている、ということかもしれない。
どれも旅行中はなかった。

宮部さんの通っている絵の学校を卒業した人の展覧会を見に行く。
淡い輪郭の女の人が口をぐねっとしていたりした。
こういう、上野でやる美術展とかでない、演劇でいうところの小劇場的ギャラリーでやる展覧会は、何かきっかけがあると行こうと思うのだけど、
何かきっかけがないと行かないのも事実。
ああ、これも小劇場演劇みたいだね。
帰り、外苑前から渋谷まで青山通りを歩く。
そういえば、このあたりは岡本太郎のアトリエがあったと思い出して、
ちょっと道をはずれて岡本太郎記念館へ。
緑に覆われた一軒家はたくさんの人でごった返していた。
その家の中の物や作品を見て回るうちに、
私はもう岡本太郎の作品に驚いていないことに気がついた。
驚かずに見る岡本太郎はなにか、魅力が半減してしまったように思った。
なにこれ?なにこれ??え、、え、うわ、なにこれ、うわあ、おっっもしろ。
という驚きと一緒になって見ていたときのほうが好きだったなあ。
驚きがなくなって、見慣れてしまって、ここにあるのが当たり前で、
いっそなくても差しさわりがないくらいにまで当たり前になって、
それでも岡本太郎はもう死んでしまっているので次の驚きは絶対にやってこない。
死ぬというのはもう驚かせられないということなのかもしれないなあ。
あとはただ慣れていくのみ、忘れていくのみ。
が、庭の中にあるオブジェの目から口からありとあらゆる隙間から「芸術なんて知りません」とばかりに植物がばーばー生えているのを見て、
こうやって自然のものに圧倒されながら見えなくなっていくのもなんかいいなあと思った。
バナナの葉が覆い茂って、なんかよくわかんない茎みたいなのが枯れてて、「蜂がいます。お気をつけ下さい」なんて書いてある庭で、野ざらしになっているオブジェは全部が太郎のお墓みたい。
オブジェや建物はどんどん朽ちていって、あの戦慄な色合いも剥げ落ちて苔むして、ついには家ごと植物にのまれて、500年くらいたって新進気鋭の冒険家に発見されるのがいいなあ。
発見した冒険家は、うっわ、なにこれ、おっもしろって言うと思う。


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