《 ① からのつづき 》
ソーアムから東北東に約10km離れたところに、レイクンヒース空軍基地がある。
2002年8月4日に行方不明になったホリーとジェシカの変わり果てた遺体は、基地を囲むフェンスのすぐ外側の、
めったに人が通らない森の中の道の脇の、草が生い茂る溝に横たわっていた。
発見したのは、BBCニュースによると、8月17日午後に付近を散歩中だった人たち。
しかし英語版ウィキでは、発見者は散歩していた人たちではなく “地元の猟場番人キース・プライヤー” となっている。
彼によると、数日前から異常な悪臭が漂っていたため原因を突き止めようとしていての発見だった。
夏場だったため遺体は腐乱が激しく、一部は白骨化しており、それゆえ検死で被害者への暴行の有無や死因を特定することは
できなかった。 DNAにより正式に身元が確認されたのも、4日後の8月21日のことだった。
遺体には焼却を試みられた跡があったが、そこが殺害現場でないことは、精密な現場検証の結果ほぼ確実になった。
後になってハントリーは法廷で、2人が死亡した晩のうちに車で遺体を発見現場まで運び、証拠隠滅のため遺体から衣類を
取り除いて持ち去って処分したこと、その後遺体遺棄現場に舞い戻って遺体にガソリンをかけ、火を点けて立ち去ったことを認めた。
ここを遺棄場所に選んだのは、少年時代に空軍基地に航空機を見に来ていて土地勘があったからのようだ。
ホリーとジェシカは、2002年8月4日(日)の午後6時31分から46分の間に死んだと考えられている。
つまりお揃いの真赤なマン‐Uシャツを着た写真を撮られてから2時間後には、死亡していたことになる。・・・・・
最悪の結果を迎えた、ホリーとジェシカの行方不明事件。 ソーアムのみならず、全国が悲しみに包まれた。
イーリーの大聖堂で行われたメモリアル・サービスには大勢の人々が参列。
下右: メモリアル・サービス後にホリーの父親を慰めるジェシカの父親。 左端はホリーの兄、右端はホリーの母親。
1 ソーアム: ホリーとジェシカ、8月4日に失踪 2 レイクンヒース: 空軍基地に近い森で遺体が発見される
3 レイクンヒース: 容疑者の祖母の家を捜索 4 リトルポート: 容疑者の父親の家を捜索
8月16日に警察が発見した “重要な品々” とは、ホリーとジェシカが身につけていた衣類(下着を含む)と靴だった。
ハントリーは、管理人として勤めていた中学校の 「倉庫の鍵は預かっていない」 と警察に申し立てていたが、
同日任意でハントリーの家を捜索した警察は、倉庫の鍵を発見。 捜索の結果、倉庫の金属製のゴミ箱から、
ガソリンをかけて焼却を試みられた状態で、衣類と靴が発見された。
DNAを含む証拠を隠滅するため、ハントリーは、遺体から取り除いた衣類と靴をゴミ袋に入れて持ち帰り、中学校の倉庫内で
ゴミ箱の中に入れてガソリンをふりかけ火を点けたことを後になって認めた。
完全に焼けていなかったのは、ハントリーが焦ってその場を早く立ち去り過ぎたからだろうか。
翌日からは町のあちこちに多くの警察官がいただろうから、おそらく倉庫には近づけなかったのだろう。
採集された繊維サンプルの精密な検査の結果、ハントリーの家の絨毯にホリーとジェシカの衣類の繊維が、
2人の衣類の残骸にハントリーの家の絨毯の繊維が、付着していことが確認された。
また衣類を包んでいたらしい黒いビニール袋の内外からは、ハントリーの指紋が検出された。
イアン・ハントリーは逮捕後の取調べの際、虚ろな表情でよだれを垂らして狂人のふりをし、一年以上も何も語らず、起訴を免れようとした。
しかし精神科医の診断により責任能力ありとして起訴が決まると、事件翌年の9月になってようやく、
2人が自分の家で死んだこと、自分が2人の遺体を遺棄したことを弁護団に話し始めた。
彼が裁判で申し立てた2人の死の状況は、以下の通り。
ホリーが鼻血を出したため、2人は助けを求めて家に来た。 家の中に入れてやり、2階のバスルームに行った。
ジェシカがトイレを使いたがったので、バスルームの隣の寝室のベッドにホリーを座らせて待った。
ホリーの鼻から滴り落ちた一滴の血がシーツにシミを作りホリーが謝ったので、気にしないよう言った。
ジェシカがトイレを使い終えたので、ホリーとバスルームに入り、ホリーを入口からいちばん遠い浴槽の縁――
洗面台の脇にあたる場所――に座らせた。 鼻にあてがうようコットン・ボールを水で湿らせてからホリーに渡そうとしたが、
つまずいたか何かしてホリーにぶつかったかもしれない。 その時のはっきりした記憶がない。
犬を洗うつもりだったので、浴槽には水が張ってあった。 気がついたらホリーは浴槽の水の中に落ちていて、
自分は凍りついたように動けなかった。
ジェシカが立ち上がり 「ホリーを押した! あなたがホリーを押した!」 と大声で叫び出したので、パニックして
片手で彼女の口を塞ぎ、片手で咽喉を押さえた。 静かになったので手を離したら、彼女は息をしていなかった。
ホリーを浴槽から引き上げて脈を確認したが、彼女も脈がなかった。
ハントリーとカーが住んでいた家のキッチン(下左)とダイニング・ルーム(下右)
同、バスルーム。 バスルームは捜査のため完全に解体(下右)された。
ハントリーとカーが住んでいた家は、事件後解体・撤去された。
イアン・ハントリーとマキシーン・カーは殺人容疑で逮捕されたが、のちにハントリーのみが殺人で起訴された。
これはその後の捜査で、カーは事件当時グリムスビー(Grimsby)の実家を訪ねていて留守だったことが確認されたためと思われる。
彼女はハントリーの嘘のアリバイを証言したため、捜査を撹乱した罪でのみ起訴された。
死体遺棄ですら起訴されなかったところをみると、彼女は本当に殺人について知らず、死体遺棄も手伝わなかったのだろう。
自分が住む家で2人の少女が殺されたというのに帰宅したカーが気づかなかったということは、
ハントリーはよほどうまく殺人の痕跡を隠蔽したに違いない。
2002年10月8日、ハントリーが裁判にかけられることが決定。 2003年6月9日、彼は隠し集めておいた抗うつ剤を
一気に29錠服用して自殺を企てた。 当初は生命が危ぶまれたものの回復し、48時間以内に刑務所に戻ることができた。
裁判で彼はいずれの少女に関しても殺人を否認し、ホリーに関しては事故死、ジェシカに関しては過失致死を主張した。
2003年12月17日に殺人で有罪となった彼は終身刑を宣告され、仮釈放が申請できるのは
“最低でも40年以上服役してから” と決まった。
(イギリスの終身刑は、なぜか 『終身=囚人が死ぬまで』 を意味しません。 奇々怪々な刑罰制度です。)
カーは3年半(=42ヶ月)の刑を宣告されたが、21ヶ月の服役後、2004年5月14日に保護観察つきで釈放された。
(通常イギリスの刑期は、実際には宣告された期間の半分を意味します。 これも奇々怪々。)
ソーアムの殺人の裁判後、カーは過去6年にわたって虚偽の申告により、合計で約4000ポンド(53万円)に上る
求職者手当・所得手当・住居手当などを違法に受給していたことが判明したが、こちらは実刑判決を免れた。
釈放された彼女は一般市民の復讐から身の安全を守るため、秘密の新しい身元を与えられた。
カーは少女時代に2人の男児を殺したメアリー・ベルと、ジェームズ・バルジャーくんを殺した当時10歳だった
ロバート・トンプソンとジョン・ヴェナブルズに続く4人目の、完全に新しい身元を与えられる元囚人となった。
実際に殺人を犯していないのに新しい身元を与えられた、初めてのケースである。
その後カーは結婚し、2011年11月に初子を出産したそうだ。
彼女の身元秘匿は彼女の子供も含まれるので、彼女の子供が母親の真の身元を知ることはない。
ホリーとジェシカは、なぜハントリーの家に入ったのか。 管理人用住宅で、あの晩、何が起きたのか。
ハントリーは事件が発生したと推定される時間の直前にカーと電話で口論していたと、カーは証言した。
カーがあの晩母親と “また” 外出する予定だと知ったハントリーは、彼女が別の男と “いちゃつく” のを疑い、
怒って電話を叩き切ったという。
直後に見えた、外を歩く2人の10歳の仲良し少女。 怒りのはけ口を彼女たちに向けたのか。
「マキシーンも家にいるから、ちょっと寄っていかないか?」 と言葉巧みに誘い込んだのか。
真実を知る3人のうち2人は、もはやこの世にいない。
残る1人が嘘としか思えない話に固執する限り、真実は永遠にわからないままだろう。
しかし判決後に、驚くべき事実が明らかにされた。
ハントリーは過去に未成年の少女と何度も性的トラブルを起こし、何度も警察に通報されていたのだ。
《 イアン・ハントリーの家族 (前編) につづく 》