私はイギリスに来て以来、手帳日記を毎日つけている。毎日数行の簡単な日記だが、そのおかげで何年の何月何日はどんなことをしていたか、読み返せばすぐわかる。
1992年の秋にオットーと婚約した私は、1993年の2月6日から4月16日まで、身辺整理のため日本に一時帰国していた。2月半ば頃、イギリスから衝撃的な事件のニュースが入った。容疑者を乗せた護送車に詰め寄ろうとして警官隊に押し戻される、怒り狂った群集。実家のテレビでその様子を、信じられない思いで見ていたのを、今でも覚えている。
今日は、ジェームズ・パトリック・バルジャーくんの誕生日だ。1990年の生まれだから、今日で23歳になっていたはずだ―――生きていれば。
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ジェームズ・バルジャーは1990年3月16日に生まれた。初めて妊娠した子供を死産で失っていたデニーズ・バルジャー(当時25歳)と夫ラルフにとって、ジェームズは待望の第一子だった。デニーズは、出掛けるときは必ずジェームズも一緒に連れて行った。3歳の誕生日を翌月に控えた1993年2月12日(金)の午後、デニーズはジェームズを連れてショッピング・センターに買物に出掛けた。
最後にセンター内の肉屋に寄る必要があった。(誰も並んでいないから、買物はすぐに済むわ。)退屈してむずかり出していたジェームズを、レジから数歩離れた店先で待たせることにした。肉屋が注文を間違えたため思ったより時間がかかってしまったが、それでも時間にして1分足らずだった。買物を済ませたデニー ズは、その場で待っていたはずのジェームズの姿が忽然と消えていることに愕然とした。
警察はジェームズが小児性愛者に拉致された可能性があるとみて、捜査を開始した。
記者会見で 情報提供を訴える両親。
防犯カメラの映像を調べた警察は、やがて、デニーズの記述と一致する衣類を身につけた幼い男の子が、年長ではあるがまだ子供らしい二人の少年に連れられて出口の方へと歩いている姿を発見する。
大人の小児性愛者ならわかるが、なぜ子供が子供を拉致する?警察は困惑しつつ、映像からの静止画像を公開する。子供が子供を拉致!?世間も驚いた。ジェームズを連れ出そうとしている子供は自分の子供ではないか、と通報してくる親も相次いだ。
2月14日(日)。ショッピング・センターから4kmほど離れた線路上で、列車に轢断されたジェームズの遺体が発見された。遺体は頭部と顔面に集中して激しい暴行を受けていた。合計42ヶ所の傷を負っており、どの傷が致命傷になったのか断定できなかった。(詳しくはこちら。)
ウエストで轢断された遺体の上半身は並行するレールの内側にあったが、下半身は衝突の衝撃で少し離れた所まで飛ばされていた。検死は、レール上に横たえられたときジェームズにはまだ息があったが、通過する列車に轢かれる前のある時点で死亡した、と結論づけた。上半身の頭部はレンガや石で隠されていた。下半身は裸にされており、血まみれの下着が近くで発見された。
「スーザン・ヴェナブルズの友人」と名乗る匿名の女性から、警察に通報があった。「スーザンには、金曜日に学校をさぼったジョンという名の10歳の息子がいる。ジョンのジャケットの袖には青いペンキがついていて、公開されたビデオ写真の男の子にも似ている。ジョンには一緒に学校をさぼった、ロバート・トンプソンという友達がいる。」他に有力な手掛かりがなかったため、警察はジョンとロバートを調べることにした。この時点では警察は、二人はジェームズを連れ去ったかもしれないが、まさか殺害したとは考えていなかった。
2月18日(木)午前7時半。アン・トンプソン宅を、捜査令状を手にした警察が訪れた。自分が容疑者だと気づいたロバートは、泣き出した。ロバートの衣類を調べ始めた警察は、まもなく血がついた靴を発見した。
警察の訪問を受けたジョン・ヴェナブルズは、青いペンキがついた自分のジャケットを発見されると、母親のスーザンにしがみつき、ヒステリックに泣き叫んだ。「刑務所には行きたくないよ。あの子を殺したのは僕じゃない。あのロバート・トンプソンがやったんだ。あいつのせいで、僕はいつも困ったことになるんだ。」
その日逮捕された二人は別々の警察署で取調べを受け、2月20日(土)、ジェームズ・バルジャー殺害容疑で起訴された。
≪ 敬称略 ≫
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