ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

イアン・ハントリーの家族 (前編)

2016-08-22 22:48:07 | 事件

 《 ソーアムの殺人 ② からのつづき 》

 

イアン・ハントリーは1974年1月31日に、ケヴィンとリンダ・ハントリーの初子としてグリムズビーGrimsby)で生まれた。

ケヴィンとリンダは7ヶ月前に、共に18歳のときに結婚したばかりだった。 2年後、ハントリーの下に弟が生まれた。

喘息もちだったハントリーは学校でいじめの対象になったが、彼自身もいじめっ子だった。 友達は少なかった。

成績は良い方だったにも関わらず、義務教育を終えた1990年6月に学校を離れた。 仕事が見つからず秋には学校に戻るも、

翌年2月に退校して両親が勤める食品加工工場での仕事に就いた。 その頃から少女への関心を深めたらしく、18歳のときに

13歳の少女と付き合う彼が目撃されている。

  

警察の調べでは、ハントリーは少なくとも30人の女性と性的関係をもった。 そのうちの多くが未成年だった。 「ノー」 を

答として受け入れない彼により、多くが身の危険を感じて彼との性的関係を強いられた。 うち何人かは彼を強姦で

告発したものの、起訴には至らずに終わった。 彼と恋人関係になった女性の多くが、異常なまでの支配欲、独占欲、

暴力行為、早すぎる求婚におののいて彼の元を去った。

16歳のときにハントリーと暮らし始めたアマンダ・マーシャルは、彼が突然怒り出したり暴力的になったりする様を

よく覚えている。 ある日ビリヤード棒で頭を殴られた彼女は失神してしまった。 ふたたび激しい口論になったあとで、

発作的に薬剤を大量服用したハントリーは死にかけた。 マーシャルは精神科にかかったハントリーに付き添って

病院通いを数ヶ月間続けたが、彼に階段から突き落とされて流産したあと彼との関係を終えた。 1994年のことだった。

  

 

同年12月。 ハントリーが勤める工場に、18歳のクレア・エヴァンズが入った。 翌月の1995年1月28日――

ハントリーの21歳の誕生日の3日前――に、二人は結婚。 新郎の付添人は、弟のウェイン(当時18歳)が務めた。

しかしハントリーの支配欲と身体的・精神的暴力のため、結婚生活はものの数ヶ月で破綻した。 ソーアムの事件後

クレアは、新聞記者に涙ながらに語った。 「ハントリーに首を絞められて窒息しかけたことがあったの。 だから今でも

ひどい罪悪感を感じている。 私があのとき殺されていたら、あの子たちは死なずに済んだだろうから・・・」

 

キッチンで洗いものをしていたクレアの背後に忍び寄ったハントリーは、いきなり両手で彼女の首を締め上げた。

げらげら笑いながら。 パニックしたまま気が遠くなりかけたとき、偶然調理台の金属性の蓋をつかむことができ、

それでハントリーの頭部を思いきり叩いて彼から逃れた。 外に飛び出し、彼から離れたい一心で結婚指輪を質に入れ、

10ポンドを得た。 しかし彼女をつけてきたハントリーにつかまり、脇道に連れ込まれ、頭を何度もレンガの壁に

打ちつけられた。 必死に逃げ出し、バスに飛び乗り、ハントリーが嫌っていた彼の父親の家に逃げ込んだ。 それまでにも

何度か、彼から避難するため行ったことのある家だった。 自分自身の家族の所へは戻れなかった。 ハントリーとの

結婚を反対されると思い、何も言わずに結婚していたからだ。 もちろん警察にも相談に行ったが、夫婦喧嘩とみなされて

取り合ってもらえなかった。

その後まもなく、妊娠していることがわかった。 父親の家でそう告げられたときのハントリーは無表情だったが、

あとでクレアを部屋の隅に追いつめ囁いた。 「もし産んだら、赤ん坊にいろいろとやってやるからな。 ものすごく

熱いミルクを飲ませて火傷させてやろうか。 ソーシャル・サービスに電話して、おまえが駄目な母親だから

子供をおまえから取り上げるよう言ってもいいな。」

 ハントリーの元妻のクレア・エヴァンス

    

子供の安全のためには養子に出した方がいいと考えた彼女はソーシャル・サービスに相談に行ったが、

彼女がハントリーと結婚している以上、父親の許可なしにはできないことだと言われた。 行き詰まった彼女は、

断腸の思いで中絶を選んだ。 そのことを話したのは、義弟のウェインにだけだった。 秘密を共有することが、

クレアとウェインの仲を近づけたのかもしれない。 彼女は中絶を慰めてくれたウェインと相思相愛の仲になり、彼と

一緒に暮らし始めた。 怒ったハントリーは1999年まで、クレアとの離婚に応じなかった。

同じ頃、彼の両親の結婚も暗礁に乗り上げた。 母親のリンダは同性愛の恋人を見つけて出ていき、父親のケヴィンは

別の女性と暮らし始めた。 (しかし両親はその後よりを戻し、事件の頃にはまた同居していた。)

ソーアムの事件が起こり、 “ホリーとジェシカと最後に話した人間である可能性が高い” ハントリーがテレビのインタビューに

応えているのを見たクレアは、(彼がやったんだ!) と即座に確信した。 警察に電話しようと思ったが、しかし、

思いとどまった。 そんな風に思うのは、ハントリーに対する自分の嫌悪のせいだろうと。


結婚が破綻したあとのハントリーは一所に落ち着かず、みすぼらしい部屋を賃借して渡り歩き、職を転々とし、複数の女性と関係を

もった。 そのうちの一人は15歳のケイティー・ウェバーで、一緒に暮らし始めると彼は彼女に家族との連絡を絶ち、学校をやめて魚の

加工工場で働くよう命じた。 彼の暴力に身の危険を感じたウェバーは逃げ出し、公衆電話から父親に電話をかけ、父親が迎えに

来るまで近くに隠れていたという。 彼女はハントリーと別れたあとに彼の娘(イアン・ハントリーの娘)を産んだ。


  

 

判決後に明らかにされた、イアン・ハントリーの驚くべき過去。 彼は1995年から2001年の間に、判明しただけでも

11人の未成年の少女と性的関係をもった(強姦を含む)かどで告発されていたことがわかった。

告発され記録に残った違法行為の一部。 (空巣一件を含む。)

 

1995年8月: 未成年者との性行為。 性的関係をもった15歳の少女の父親に怒鳴り込まれたハントリーは、

身の危険を感じて警察を呼び、警察とソーシャル・サービスに調査される。 少女の希望で告訴には至らず。

1995年11月15日: 共犯者とともにグリムズビー(Grimsby)の隣家に屋根裏から侵入し、空巣をはたらいた疑い。

電気製品と貴金属と少額の現金を盗んだとされ翌年3月に逮捕・告発されたが、ファイルに記録されるに留まった。

1996年3月: 未成年者との性行為。 ソーシャル・サービスに苦情が入り調査されるも、少女が告発内容を否定。

警察を巻き込むことなく調査は終了。

1996年4月: 未成年者との性行為。 15歳の少女の母親が学校に通報し、ソーシャル・サービスにも連絡がいく。

ソーシャル・サービスは警察と情報交換するも、少女の家族が警察の介入を望まず、調査は打ち切りに。

1996年5月: 13歳の少女との性行為。 少女は告発内容を否定。 少女は母親ともども、医師の診察を拒否。

前月にも同じ違法行為で告発されていたにもかかわらず、ハントリーが警察に尋問されることはなかった。

1998年4月: 強姦。 ある女性が、ハントリーにレイプされたと彼を告発。 彼女によると、ナイトクラブでハントリーと

出会った彼女は、帰宅するためタクシーをシェアして彼女の家に行った。 彼女はレイプの後、医師の診察は

受けなかった。 ハントリーは、性行為は同意の上だったと主張。 証拠不十分と判断され起訴には至らず。

1998年5月: 強姦。 16歳の女性が、ナイトクラブから帰宅途中にハントリーにレイプされたと彼を告発。

ハントリーは彼女を、人気のない場所で 「殺すぞ」 と脅しながらレイプしたという。 ハントリーは性行為は

同意の上だったと主張。 ナイトクラブの防犯カメラの映像が調査され、女性とハントリーが一緒に踊り、

ハントリーが彼女にキスする様子が映っていたため、証拠不十分として起訴には至らず。

1998年7月: 性的暴行。 ある少女が 「12歳だった10ヶ月前にイアンという名の男に性的暴行を受けた」 と

申し立てる。 当時彼女と同じ通りに住んでいたハントリーは逮捕されたが、告発を否定。 当時ハントリーは

15歳の恋人とともにキャラバンに住んでいたが、事件当日恋人は不在だった。 ハントリーを告発した少女によると、

ハントリーは 「自分は武術の達人だ」 と言って彼女の首に両手をまわし、「誰かに言ったら殺す」 と脅した。

少女は警察に尋問されソーシャル・サービスも介入したが、ハンバーサイド警察は捜査を打ち切る。

少女はその後、精神疾患を患った。

1999年2月: 強姦。 17歳の女性が、「ナイトクラブで知り合ったハントリーにレイプされた」 と彼を告発。 ハントリーは

性行為は同意の上だったと主張。 警察は証拠不十分として処理。

1999年7月: 強姦。 レイプ事件があり、過去の告発からハントリーが取り調べを受ける。 当時ハントリーは “ニクソン” を

名乗っていた。 DNAサンプルを提出。 彼にはマキシーン・カーが証言したアリバイがあった。 被害女性は

ハントリーは犯人ではなかったとした。 被害者からハントリーが犯人ではないとされたのは、この一件のみ。


 1999年2月ハントリー(当時25歳)マキシーン・カー(当時22歳)はナイトクラブで出会い、4週間後には一緒に暮らし始める。

諍いを繰り返しながらも関係は続き、2人は2001年に、ハントリーが管理人チームのマネージャー職を得たリトルポートの町に引越す。

2001年11月――ソーアム事件の前年――ハントリーはソーアムの中学校の管理人の職に応募。 過去の告発にもかかわらず

職を獲得し、二人は管理人用住宅に引越した。 カーは小学校教師のアシスタントとしての職を得た。


ソーアムの事件後中学校は、ハントリーの過去については何も知らなかったし、もし知っていたらハントリーを雇うことは

なかったと釈明した。 当時は異なる地域間での犯罪者や違法行為者の情報交換が確立されておらず、

引越しによりハントリーは、 “クリーンな” 一市民となってしまっていた。


 

 《 イアン・ハントリーの家族 (後編) につづく 》



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