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ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

埼玉県小川町、腰越栗山「福島家のマキ」(町指定)です!!

2023-10-23 18:31:09 | 巨樹・大木
 腰越栗山地区は、小川町役場の南西約8kmのところ

 小川町役場前の役場通りを南東へ、信号を右(南)へ、次の本町1丁目信号を右(西)へ県道11号線です

 約2.8kmで槻川を切通橋で渡ったすぐの信号を左(南西)へ槻川に沿って進みます

 約2.6kmで三叉路(栗山・笠山方面の案内板が有ります)を右(西)へ坂道を上ります

 ここから標高差約230mを約1.2kmで登って行きます

 右手の住宅の前に樹冠が見えました

 目的のマキです

 すぐ先の公衆トイレ前に車を止めさせて頂きました


 小川町指定天然記念物「福島家のマキ」(マキ科イヌマキ)の標柱です

 文面には・・・樹高15.8m、胸高周囲3.0m、枝張り13.2m、推定樹齢2〇〇年以上の古木です。
 関東南部以西の暖かい地方に自生しますが、内陸のこの地に長年生き続けているのは珍しく、栗山地域の温暖な気候を物語っています。
 *この樹はマキ科のイヌマキですが、マキ科には他にラカンマキやナギがあります

 南側から見上げました

 南西側から

 では、次へ行きましょう
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山梨県大月市、初狩町下初狩「自徳寺のイチョウ」です!!

2023-10-23 06:40:20 | 巨樹・大木
 初狩町下初狩地区は、大月市役所の西南西約6km、大月市役所初狩出張所の東南東約800mのところ

 大月市役所初狩出張所前から南東に進んで「藤沢入口」信号で国道20号線に出ます

 東へ進んで約300mでコンビニエンスストア手前を右(南)へ初狩駅前への県道305号線です

 駅前を左(東)へJR中央本線をアンダーパスで潜り、直ぐに左(東)へ上って直角に南へ

 橋を渡って直ぐを左(東)へ進み左にカーブすると自徳寺参道前に出ます

 先へ進んで駐車場に入ります

 本堂裏側の墓地へ南東に進むと目的のイチョウが見えて来ます

 西側から

 南西側から

 南側から、目通り幹囲6.3mの巨木です

 南東側から

 東側から

 北東側の道路に出ました

 では、次へ行きましょう
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山梨県甲州市、塩山上於曽「菅田天神社のカシ群」(県指定)です!!

2023-10-22 18:50:50 | 文化財・樹木
 塩山上於曽地区は、甲州市役所のある地区です、甲州市役所の北西側に菅田天神社が南南西向き参道で鎮座します

 車を市役所駐車場に止めさせて頂きました

 参道入口鳥居です、一ノ鳥居は石鳥居

 縣社 菅田天神社の社號標です
 
 ニノ鳥居は赤い両部鳥居です

 文化財案内板です

 説明版です
   菅田天神社
 塩山上於曽に鎮座し、祭神は本殿に素戔嗚尊および五男三女神、相殿に菅原道真を祭祀する。
 社記によると、承和9年(842)国司藤原伊勢雄が勅を奉じ、甲斐小目飯高浜成に命じて創立したと伝える。
 寛弘元年(1004)菅原道真を相殿で祭り、これ以来菅田天神社と称したという。
 新羅三郎義光以来甲斐源氏の鎮守とされ、社の位置が府中(甲斐府中)の鬼門に当たるので、武田家は重宝盾無鎧をこの宮に預け、於曽氏にその保管をさせ、大事あるごとに出納を命じたという。
 またこの盾無鎧については、承久年間武田信光が社殿を造営し、陣中の守護たる神器盾無鎧を社殿に納め置き、同族である於曽氏に守護させたと伝えている。
  指定文化財
   国宝 昭和27年11月22日 指定
 工芸 小桜韋威鎧兜大袖付一領
   県指定文化財 昭和38年9月9日 指定
 天然記念物 菅田天神社のカシ群
    昭和62年3月  甲州市教育委員会
.

 参道の右手に背の高いカシノキです

 手水舎です
 
 随身門です

 山門を潜ると石灯篭が並びます

 石製の神橋を渡ります

 左手に新羅宮です、宮の前にも注連縄を巻かれたカシノキです

 社殿です

 右手には「なで牛」です

 市指定文化財の石燈籠です

 境内社の祠が並びます

 境内北東角にカシノキです
 
 境内東側には舞殿(神楽殿)です

 東側の境内社です

 境内西側の社務所前の注連縄の巻かれたカシノキです

 東側の参道出口から振り返って境内を見ました

 では、次へ行きましょう

 
    
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山梨県山梨市、東「東の大イヌガヤ」(県指定)です!!

2023-10-22 06:31:55 | 文化財・樹木
 東地区は、山梨市役所の北東約3kmのところ

 山梨市役所の西側の通りを北へ、約300mの「山梨郵便局北」信号を左(西北西)へ県道205号線です

 約400mの兄川橋北詰」信号を右(北東)へ国道140号線です

 約1.9kmで国道140号線バイパス分岐信号です、右(北東)へ

 約300mの「岩手橋西詰」信号を左(北西)へ入ります

 すぐ右に鍵の手に曲がると

 右手の道路脇に目的の大イヌガヤです

 すぐ先に道路脇に車を止めさせて頂きました

 南側から

 説明版です
  県指定天然記念物 東の大イヌガヤ
    平成4年3月5日指定 山梨市東758 所有者 上野昇
 イヌガヤはやや暖かい山足や平地の林中に自生する常緑低木、時には小高木に育ち、高さ10m、直径0.3m位にもなる。
 山梨市内には夕狩沢の谷間に相当散在する。
 枝は横に拡がり、小枝は緑で縦に溝がある。葉は濃緑色で、直立枝にはらせん状に、側枝には両側二列羽状に、両端の尖った長さ3~5cmの葉を互生する。又裏面の中脈の両側に白い気孔の列がある。
 雌雄異株で、花は2~3個小枝の先に着け3月~4月開花する。
 実は、倒卵形または楕円形で長さ1.5~2.5cmで、未熟の外種皮は緑色成熟すれば赤紫色となり、内皮は堅い核状で二稜があり両端が尖る。胚乳からは油を搾ることができる。
    
 雌木株立ち 根回り  0.45m
            0.47m
            0.70m、その他大小20本あります
       枝張り東 4.8m
          西 8.5m
          南 3.0m
          北 5.8m
       樹高   7.0m
     山梨県教育委員会

 南西側から


 大イヌガヤの実です、色付いているのが熟しているのものですね


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山梨県山梨市、市川「龍泉寺の万年マツ」(県指定)です!!

2023-10-21 19:03:28 | 巨樹・大木
 市川地区は、山梨市役所の北約4kmのところ

 山梨市役所の西側の通りを北へ、約300mの「山梨郵便局北」信号を左(西北西)へ県道205号線です

 約400mの兄川橋北詰」信号を右(北東)へ国道140号線です

 約700mで左(北西)へ県道31号線です、約1.7kmで横断歩道のある交差点を右(北北東)へ

 約300mで八幡郵便局前を右へ鍵の手に曲がります、曲がり角に「龍泉寺の万年マツ」の標柱が隠れて立っています

 坂道を上って約400mで左手に東向き参道入口の山門です

 手前の道路脇に車を止めさせて頂きました

 秀見山 龍泉寺です

 山門前にも「山梨県指定天然記念物 龍泉寺の万年マツ」の標柱です

 六地蔵様です

 参道左手に目的の万年マツです

 説明版です
   山梨県指定天然記念物 
    龍泉寺の万年マツ
      管理者 龍泉寺
      所在地 山梨市市川251番地
      昭和38年9月9日指定
 本樹はクロマツで、寺がこの場所に移った江戸時代中ごろに植えられたと伝えられています。
 鶴が羽を広げたような美しい樹形をしており、枝張りや幹囲なども大きく、庭作りのマツとしては県下最大級の規模をほこります。
 規模は次の通りです。
   根廻り     3.88m
   目通り幹囲   3.02m
   樹高      6.55m
   枝張り 東西 19.40m
       南北 10.95m
     (平成27年2月計測)
      山梨県教育委員会
      山梨市教育委員会

 北東側から

 北側から

 本堂です

 西側から

 南側から

 太い幹です

 南東側から見ました


 南に富士山の山頂部が見えましたよ

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山梨県山梨市、小原東「小原東のザクロ」(県指定)です!!

2023-10-21 06:29:34 | 文化財・樹木
 小原東地区は、山梨市役所の東約1kmのいところ

 山梨市役所の西側の中央通りを北北東へ進みます、約300mの「山梨郵便局北」信号を右(東南東)へ県道205号線です

 約300mからは県道216号線となって進みます

 約600mで右手の民家の裏庭に

 目的のザクロです

 前の道路は狭いので車の窓から撮影させて頂いました

 北側から、ザクロの実がまだ残っています

 説明版です
  山梨県指定天然記念物
    小原東のザクロ
      昭和38年9月9日指定
      山梨市小原東1013番地
      所有者 竹川誠貴
 このザクロは、樹齢およそ125年といわれ、枝下一幹で幹の太さ樹勢から見て、県下におけるザクロの巨樹として代表的なものである。
 その規模は、つぎのようである。
   根元周囲      1.75m
   地上0.6mの幹囲 1.62m
   地上1.5mの幹囲 1.25m
   樹高        7.35m
   枝張り 北西    4.00m
       東     1.00m
       西     3.30m
       南     1.50m
       北     3.20m
   平成3年12月24日
     山梨家教育委員会
 *ザクロ(石榴・柘榴・若榴、英名: pomegranate、学名: Punica granatum)は、ミソハギ科ザクロ属の1種の落葉小高木ですが、その果実のこともザクロと言います。庭木などの観賞用に栽培され、古くから栽培された果樹の一つで、果実は食用になります。
 イラン付近の原産地から中国やヨーロッパへと広まったと云われ、日本には平安時代に渡って来たとされています。
         (ウィキペディア一部抜粋)

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山梨県山梨市、万力「万力公園・万力林(市指定)のアカメヤナギ」です!!

2023-10-20 18:45:54 | 巨樹・大木
 万力地区は、山梨市役所の南西約1kmの笛吹川右岸(市役所の対岸)です

 山梨市役所西側の中央通りを南へ、約900mの「山梨市駅前」信号を右(西)へ県道216号線です

 約300mで笛吹川を根津橋で渡って直ぐを右(北)へ入ると、万力公園の駐車場です


  万力公園管理事務所前の広場に大きな根津嘉一郎翁銅像を見ました

 説明版です
   根津嘉一郎
 初代根津嘉一郎翁は、万延元年(1860)6月15日、現在の山梨市正徳寺に生まれた。
 生家は農商兼業の「油屋」といい、父嘉市郎、母きみの二男二女の次男であった。兄にかわって家を相続し実家に精励し、村会議員をふり出しに郡会議員、県会議員、村長、衆議院議員、貴族院議員などを歴任された。
 また、実業界に雄飛して縦横に活躍し、東武鉄道、南海鉄道、帝国石油、日清製粉、日本セメント、日本麦酒鉱泉、東京電燈、富国生命、など有力事業200余社を創設または経営し、「鉄道王」とうたわれ、わが国実業界における巨頭とたたえられた。
 翁はまた公共のためにも尽力され、現在の武蔵大学の創設をはじめ、故郷山梨県においても県立図書館、平等小学校の建設、県下全小学校にピアノやミシン等の寄贈、根津橋の架橋などに巨費を投じられた。
 さらに翁は、内外古美術の収集家としてもわが国随一の足跡を残され、収集の総点数は7400点、うち国宝27点、重要美術品1131点があり、現在根津美術館(東京都港区南青山)に所蔵されている。
 これら数々の翁の偉業をたたえ、郷里の誇りとして後世にその英風を残すため、県内外の有志3000人が相図り昭和7年3月に寿像が建設された。その後、第二次世界大戦が勃発し、銅像は軍需のために提供されたが、昭和35年11月に再建された。
 この銅像は、昭和63年に文化勲章を受章された圓鍔勝三先生の作である。
 大理石の土台の高さ12.54mの像の高さ、4m。
 昭和15年1月14日(81歳)で死亡。

 *今日に残る各会社を利用させて頂いておりますので、創業者の銅像がその故郷にあるべきことを感じますね

 公園の中央の通りを北へ進みます

 道路右手に目的のアカメヤナギです

 南側から、目通り幹囲4.0mの大木のはずですが、幹が倒れてしまっているので、細くなっているかもしれませんね~

 北西側から

 水路の北側からアカメヤナギを見ました

 万力公園案内図です 
   万力林
 万力林について
 差出磯の堤は、昔笛吹川が洪水でたびたび決壊し下流の村々に大きな被害を及ぼしました。
 この場所は、県内の洪水を防ぐ上で竜王の鼻(信玄堤)近津の堤(笛吹川・日川・重川の合流点)とならび三大水難所の一つとして知られて来ました。
 15世紀の守護領は、石和(現笛吹市)にあり、万力堤と近津堤により守られていました。
 永正14年(1517年)武田信虎(信玄の父)は、度々大洪水の被害を受け、甲府へ転出しました。
 その後も天正11年(1583年)の大洪水で家や田畑が流出し、慶長5年(1600年)徳川氏は、堤防を増築し、田や畑に木を植えて水防林として木を切ることをきびしく禁じました。
 明治34年(1901年)「水害防備林」に編入され今日に至っています。
 この万力林は、もし洪水時に笛吹川が氾濫した場合は、密生している松の大木の中を流れる事により水の勢いを弱め、流木や土砂を防除するとともに、下流部の開口部(霞堤)から笛吹川に戻す治水施設です。また万が一、笛吹川の流れが万力林からあふれた時には、台地にぶつけ水が町へ流れないような地形的特徴も利用しています。
 「万力」の地名は、南北朝時代の記録にもありますが万人の力を合わせて堅固な堤防とする願いを込めて付けられたと伝えられています。
 霞堤とは
 霞堤とは、堤防と堤防のあいだにすきまをつくり不連続とすることによっり洪水時には開口部から河川から洪水が逆流し河川の水位を下げることや支流の排水や内水排除を行うことなどの機能がありますが、万力林の霞堤は、主に急流河川である笛吹川の洪水があふれた時、氾濫水が拡大しないように開口部から河川へ戻る役目をしています。
     国土交通省 甲府河川国道事務所


 公園を散策してみましょう 


 公園東側の笛吹川の堤防です


 丸い石が積み上げられています

 がん業堤の説明版です



 こちらも同じですね






 公園中ほどに万力公園動物広場の南側に鹿苑です



 カピバラです



 マーラです


 公園内では、多種の鳥が観察できるようですが、暑さの為かこの日は静かでした

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山梨県甲府市、岩窪町「武田信玄公墓と岩窪のヤツブサウメ」(県指定)です!!

2023-10-20 06:30:26 | 文化財・樹木
 岩窪町は、甲府市役所の北北東約2.5kmのところ

 甲府市役所東側の県道31号線を北へ、約800mで左へカーブして、信号を右(北)へ

 県道31号線の坂道を上って行きます、約1.6kmで右(東)へ、県道119号線愛宕山スカイラインです

 約800mで愛宕山スカイラインが左にカーブするところを右(南)へ

 約100mで甲府市福祉部北部幼児教育センターの駐車場に入りました


 武田信玄公の墓は直ぐ北側です

 説明版です
   甲斐国主
    武田信玄公御墓所について
 天正元年(1573)4月20日、信州伊那駒場で53歳を一期として、波瀾の生涯を閉じた英雄信玄公はその臨終に際し三年間の秘葬を命じた。
 嫡子勝頼公は、これに従い、信玄公の遺骸を密かにして、3年後、二十四将の一人、土屋右衛門昌次の邸内で、荼毘に附し、天正4年4月16日、塩山、恵林寺に於いて、葬礼を行い、埋葬した。
 岩窪の墓所は、土屋氏の邸跡で、後世これを、魔縁塚と呼び、里人は恐れ近づかなかったという。
 それから、およそ200年後の江戸時代安永8年(1779)甲府代官、中井清太夫が発掘して、石棺を見つけ、その銘に「法性院機山信玄大居士・天正元年癸4月12日葬」とあったので、もとのように埋め幕府に届けて、信玄公の墓と定めた。
 この時、東花輪村、田中喜衛門、西花輪村、内藤正助、外52人の武田家の旧臣有志が大石碑を建て、荘麗な聖域とした。碑文は時の円光院住職・愚応の書である。
 現在地域住民は、信玄公さんの墓と敬愛し、子供達と共に精神的憩いの場となっています。又地元老人クラブの人々が、毎月一回清  奉仕を行い自治会では、年中行事として、4月12日の命日に円光院並に近隣の寺院の協力に併せて、信玄公さんの祭りとして、墓前法要を勤め、ありし日の国主を偲んでおります。
    昭和56年9月吉日
       岩窪町自治会・岩窪町老人クラブ 建之 

 武田信玄の居城(現武田神社)の南東約1kmのところです

 手水鉢です

 武田信玄公墓所です


 武田信玄公墓です
 
 墓碑の銘文説明です
   信玄公の墓碑陰銘
 公 性源名晴信武田其氏也頃壯下髪稱機山信玄
 天正元季癸酉四月十二日薨權葬三年乙亥四月火
 浴干此地以分骨云今茲己亥春重民某等勠力新造
 碑蓋傚羊祐之堕涙碑聊伸景仰之誠也一日堀地得
 灰與骨然則其衣薪之迹明矣古碑日三年不發哀為
 有敵国其文雖不完今又蔵壙中請後人徴之矣
   安永八年龍集屠維大𣶒獻孟夏上浣日
    住 瑞嵓山圓光禅院嗣租沙門凱愚應謹誌
  ーーー◇ーーー
 公の性は源、名は晴信、武田は其の氏なり。頃壮髪を下ろして機山信玄と称す。
 天正元年癸酉4月12日薨ず。権りに葬ること3年、乙亥4月此の地に火浴し、以て分骨すと云う。
 今茲に己亥春重民某等力を勠せて新たに碑を造る。蓋し羊祐の堕涙碑に倣い聊か景仰の誠に伸るなり。
 1日地を堀り灰と骨とを得たり。然れば即ち其の衣新の迹明らかなり。
 古碑に曰く、3年哀を発せざるは敵国あるが為なりと。
 其の文完からずと雖も今又壙中に蔵す。請う後人之を徴せよ。
   安永8年龍集(年)・屠維(己)・大𣶒獻(亥)・孟夏(4)・上浣日(上旬)
    住 瑞嵓山圓光禅院嗣租沙門凱愚應謹誌  
  *読めない字や、一部パソコンの漢和辞典に出ていない文字は読みや字ずらから似た字にしてみましたが・・・

 墓地の入り口の左手に目的のヤツブサウメです

 南側から

 説明版です
  山梨県指定天然記念物
    岩窪のヤツブサウメ
      甲府市岩窪町246
      昭和34年2月9日指定
 樹種はウメの変種で、「座論梅」ともいわれ、花は淡紅色、重弁、径27mm位、一花中にめしべ7~8本のものが多い。花期は普通の梅よりも遅く、3月末頃満開となる。
 実は径20~22mmと比較的小粒で、3個結実するものが多く、実が品の字に似ているので、「品字梅」ともいう。
 本樹は、3個に結実する数も多く、この種の特徴をよく表わしており、植物形態学上貴重な資料である。
 規模は次の通りである。
   根回り    0.80m
   地上1m幹囲 0.75m
   樹高     約7.0m
   地上1.2mで2幹に分れる。
 昭和55年3月30日  山梨県教育委員会
             甲府市教育委員会
 

 東側から

 北側から

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長野県佐久市、岩村田相生町「若宮八幡宮・若宮児童公園のケヤキ群」です!!

2023-10-19 18:30:18 | 巨樹・大木
 岩村田相生町は、佐久市役所の北約2kmのところ

 佐久市役所の西側の道路を北へ進みます、約1.9kmの「相生町南」信号を左(西北西)へ

 約600mの「一本柳」信号を右(北)へ入ります、約300mでテニスコート手前を右(東)へ

 約200mで左手に若宮八幡神社が南向きに鎮座します

 境内南西側隅に駐車スペースが有りますので利用させて頂きました

 拝殿です

 本殿です

 説明版です
   若宮八幡神社の由来
 八幡社の本宮は大分県の宇佐八幡宮で、主祭神は誉田別名(応神天皇)である。
 本来農耕神で、中世以降武士階級の人々は戦、武門の神様として厚く崇敬するようになり全国に広まった。
 若宮八幡神社は、建仁2年(1202年鎌倉時代)、「大井荘」の地頭大井朝光によって鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請して創建された古社である。
 「若宮」とは、八幡神である応神天皇の御子神「仁徳天皇」を祀る神社という意味で親神の功績と合わせて土木治水の神として祀られている。
 主祭神 大雀命   (おおさざきのみこと   仁徳天皇)
  祭神 誉田別名  (ほむたわけのみこと   応神天皇)
     建御名方命 (たけみなかたのみこと  新海三社神社祭神)
     事代主命  (ことしろぬしのみこと  同 )
     高良玉垂命 (こうらたまだれのみこと 武内宿禰大臣)
 現在の本殿は、元禄4年(1691年)の建立で、三間社流れ造り、用材はすべてけやきを使用している。規模が大きく本格的な社殿建築として貴重なものである。
 当時は岩村田藩のできる以前で幕府領となっていた政治的な過渡期である。本殿の再建には領主などからの援助は多くを望めずその原動力となったのは氏子の熱意であり、当時佐久地方にもこれだけ立派な社殿を建築できる優れた技術があったのである。
 八幡社の祭礼には相撲がつきものである。残されている記録によると、弘化4年(1847年)祭礼の相撲興行には領主(内藤氏)陣屋の総役人が参詣かたがた見物に訪れており、当時の相撲興行の盛行さがうかがえる。
 明治4年(1871年)太政官布告によって社格制度が定められた折、岩村田全域にわたって崇敬される中心的神社であることから同6年には「郷社」に上格され、その神域ますます顕著なり。例祭は毎年8月22日におこなわれる。   
         平成26年1月


 本殿西側の境内社です、軒下の額には「祇園天王・天満天神宮」の文字が読み取れます

 さらに西側の境内社です、軒下の額には「神功皇后社・正八幡大神」の文字が読み取れます

 拝殿右手の建物は神社の備品が納められています
 
 拝殿東側にはスギの大木です


 目的のケヤキは、若宮八幡神社北側の「若宮児童公園」に東西に4本の大木が並んでいます

 児童公園を北西側から見ました

 北側の道路から一番太いと思われるケヤキです

 北側から見ました

 公園内(南東側)から見ました、目通り幹囲5.0mの巨木です

 すぐ東側の一本です(南西側から)

 更に東側の一本です(西側から)

 東側の道路沿いにもケヤキですが、幹を切られてしまっていました

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山梨県甲斐市、吉沢寺平「寺沢のオニグルミ」(市指定)です!!

2023-10-19 06:38:05 | 巨樹・大木
 吉沢地区は、甲斐市役所敷島支所の北東約5kmのところ

 甲斐市役所敷島支所から東側の通りを北へ、約100mで右(東)へ

 約300mの上町信号を左(北)へ県道101号敷島竜王線です

 道成りに約1.2kmで右(東)へ、金石橋で荒川を渡ります

 渡り切って左(北)へ県道7号昇仙グリーンラインです

 約3.7kmで横断歩道の先を斜め右(東)へ寺平集落へ入ります、寺平バス停のところです


 普禅院入口を過ぎて

 真っ直ぐに東へ進み

 左カーブの先右手に、目的のオニグルミです

 北西側から

 説明版です
  甲斐市指定文化財(天然記念物)
    寺平のオニグルミ
      所在地 甲斐市吉沢3603番地
      指定年月日 昭和49年5月1日
 本樹はクルミ科のオニグルミで、幹の内部は空洞となり北東側は大きく欠けています。
 オニグルミには多くの種類がありますが、マルオニグルミと考えられます。
 文化財指定時には幹囲3.5m、樹高10.0m、枝張りは東西に12.5m、南北に13.0mでしたが、
      現在は幹囲4.6m、樹高13.0m、枝張りは東西に14.0m、南北に11.0mです。
 オニグルミは深根性で、湿潤で肥沃な深層土を好み、谷合い、谷に接する緩斜面及び平坦地で最も旺盛に生育します。
 本樹はオニグルミの巨樹として県下のまれにみるものです。
     平成26年2月1日  甲斐市教育委員会


 北側から見ました

 昇仙峡から流れてくる荒川の流れです

 では、次へ行きましょう
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山梨県甲府市、御岳町「金桜神社のスギ群(7本)」(市指定)です!!

2023-10-18 18:30:14 | 巨樹・大木
 御岳町は、甲府市役所の北約15kmのところ

 甲府市役所東側の県道31号線を北へ、約800mで左へカーブして100mの信号を右(北)へ武田通りです

 約1.1kmで左(西北西)へ、約500mで県道104号線に合流して直ぐの「北新小北」信号を左(西北西)へ

 ここから道成りに坂道を上っていきます、約4kmで丸山溜池を左に見ると、約1.2kmで斜め右(北)へ

 県道7号線昇仙峡グリーンラインです、約7.9kmで

 金桜神社参道鳥居が見えて来ます

 鳥居手前の駐車場に入りました

 鳥居を潜って参道石段を進みます

 石段中段に目的のスギ群です

 石段左手のスギです、手前の一本は切株になってしまっています

 右手のスギです、3本に注連縄が巻かれています

 説明版です
  甲府市指定文化財・天然記念物
    金桜神社のスギ群
      所在地 甲府市御岳町2347番地
      所有者 金桜神社
      指定年月日 昭和52年3月1日
 鳥居から本殿に至る長い石段の両側にうっそうと生い茂る杉木立がある。
 このうち7本が市指定の天然記念物・樹齢700年から800年と推定され、樹高46~53m、幹囲は3.87~6.9mに達する。
 昭和30年の火災によって、重要文化財の東宮本殿・中宮本殿と拝殿と伴に巨木も焼失したが、幸いにもこれら7本のスギは難を免れ、往時の面影を残している。
 太古よりわが国には八百万の神々が存在するといわれ、特定の川や山・高い木や大きな石は神が坐する場所・神が宿る場所として、それ自体が信仰の対象となっていた。
 なお、神社の社殿から社務所の裏山にかけても幹囲3mを越えるスギが15本ほど存在している。
      平成10年10月1日
         甲府市教育委員会
  

 一番手前のスギです、山梨県巨樹・名木100選の札が立っています

 西側から

 奥の二本です

 左手の二本を東側から見上げました

 参道石段左のスギにも注連縄が巻かれています

 東側から

 一段上の右手奥にもう一本のスギです

 西側から見ました

 参道石段を上り切って、金桜神社境内から参道石段を見下ろしました

 では、次へ行きましょう
 
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山梨県甲府市、御岳町「金桜神社」です!!

2023-10-18 06:29:41 | 文化財・寺社
 御岳町は、甲府市役所の北約15kmのところ

 甲府市役所東側の県道31号線を北へ、約800mで左へカーブして100mの信号を右(北)へ武田通りです

 約1.1kmで左(西北西)へ、約500mで県道104号線に合流して直ぐの「北新小北」信号を左(西北西)へ

 ここから道成りに坂道を上っていきます、約4kmで丸山溜池を左に見ると、約1.2kmで斜め右(北)へ

 県道7号線昇仙峡グリーンラインです、約7.9kmで

 金桜神社参道鳥居が見えて来ます

 鳥居手前の駐車場に入りました

 参道左には石灯篭等が並びます

 御嶽道祖神です

 日本遺産説明版です
   御嶽道祖神
 ①御嶽の道祖神は、重厚感のある木造の社の中に御幣(みてぐら)が祀られている。
 この御幣が道祖神の御神体として特に意識され、毎年道祖神祭りに新しいものにかえられる。
 ⓶猪狩③草鹿沢④仲谷の道祖神は、複数の丸石である。また、猪狩の道祖神には菅原道真を祀っており、高さ28cmほどの石造物がそれである。
 ⑤高町の道祖神は、石祠と二つの丸石であり、屋根と胴体が分かれる造りになっている。もともとは集落の北に位置する近戸神社境内に祀られていた。
 ⑥桐窪の道祖神は「猿田彦命」と刻印された丸石である。

 手水舎です

 説明版です
  金櫻神社略記
 約2000年前、第10第崇神天皇の御代に全国各地に疫病が蔓延し悲惨をきわめた折、甲斐の国に於いては当神社より北方30km、標高2595m金峰山五丈岩に御祭神少彦名命の医薬禁厭の守護神を鎮祭されたのが当神社の起源です。
 その後、第12代景行天皇の御代には、日本武尊が東国巡行の際に国土開発のため須佐之男命、大己貴命をあわせ祀られました。
 今から1500年前、第22代雄略天皇の御代に金峰山本宮と富士山が遥拝できるこのこの地に里宮が開かれました。
 第42代文武天皇の御代には大和の国の金峰山より魔障を除く仏、蔵王権現が祀られ神仏習合の日本三御嶽、三大霊場として広く信仰され東国の名社として関東全域、遠くは越後、佐渡、信濃、駿河の各地に及び春秋配札はことに賑わいました。
 領主武将の信仰も厚く寄進された室町鎌倉期の文化の粋を結集した絢爛華麗な社殿や幾多の宝物は壮観をきわめました。
 明治の御代を迎え当社は神仏分離により神社として独立、大正5年県社に昇格広範な社有林と昇仙峡の清流に囲まれた神域は幾世隔てた今日も変わらず清新であり全国から参拝される人々の信仰の地となっております。
      令和元年5月1日    金櫻神社

 参道を進みます

 金桜神社の大杉群が見えて来ます

 神橋でしょうか

 右手の池には錦鯉が泳いでいます

 左手には稲荷神社です

 金櫻稲荷神社です

 北側では、何か大きな木を立てる工事が行われています



 龍神のオブジェでしょうか

 更に石段を進みます

 東向きに拝殿です

 本殿です

 説明版です
  日本三御嶽 三大霊場 
    御嶽山金桜神社由緒
 御祭神 少彦名命 (俗に淡島さま)医薬禁厭 無病息災の神
     大己貴命 (俗に大黒さま)商売繁盛 福徳円満 縁結びの神
     須佐之男命(俗に祇園さま)厄除 勇気倍増の神
  相殿 日本武尊命(経営の神)  櫛稲田媛命(子育て婦徳の神)
 祭日 1月中 御嶽初祈願祭 4月21日・22日 春の例大祭
    5月15日 相殿祭  6月30日 夏越の大祓之
    7月15日 祇園祭 10月17日 秋の例祭
   12月 2日 特殊神事 鎮火祭
 第10代崇神天皇の御代(約2000年前)各地に疫病蔓延し、天皇深く憂慮され諸国に神祗を祀って悪病退散萬民息災を祈願せしめられるこの時、甲斐国では金峰山(北方約30km)山頂に少彦名命を祀られたのが当社の起源である。
 その後第12代景行天皇の御代日本武尊命が東国巡行の際詣でられて、大己貴命と須佐之男命を合祀され後に之を奥宮とし、現在の地に里宮として金櫻神社を創建された。
 更に奈良朝第42代文武天皇2年(約1300年前)大和国金峰山より蔵王権現を勧請し、神仏両道となり別当以下神官、僧侶百余名が常時奉仕し、頗る盛大を極める。
 以金為神(かねをもってかみとなし)以桜為霊(さくらをもってれいとなす)ーーー金櫻神社々名の起源となる
 東国の名社として関東全域を始め越後佐渡・信濃・駿河に迄其の御神徳は及び、各国の領主武将の崇敬も篤く、寄進された社殿は実に、壮観を極め鎌倉時代の建造物は国の重要文化財に指定され、左甚五郎作の昇り龍・降り龍の彫刻類は稀にみる貴重な文化財であった。
 古くから日本水晶の発祥の地として火の玉・水の玉のご神宝と金の成る木と言われる神木、鬱金の桜は生涯守の水晶のお守りと併せ特に有名である日本渓谷美第1位の昇仙峡の景観と共に、名実共に関東の大社であった境内は千古の老杉巨木・枝を交え社有林3000町歩、秀峰奇岩屹立、全山樹木に覆われ、真に仙境の感があった。
 昭和30年12月18日佛暁突如13棟に及ぶ社殿灰燼に帰す。ご神体・神宝等は無事であったが、昭和34年再建されて現代の社殿となる。
 神使は白狗と狼・・・祭神の道案内、交通安全守護。
 虫切の鈴・・・日本三土鈴の一つ、水晶守、生涯守として金運と厄除け。
 日本三御嶽の内、花の御嶽とも云われる。

 さざれ石です

 境内東端に大黒天堂です

 東照大神君御腰かけ石です

 本殿南側の手水鉢です(こちら側にも駐車場があります)

 神木鬱金の桜です

 昇・降竜記と神木の説明版です




 金桜です

 では、金桜神社のスギ群を見て行きましょう
 
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山梨県甲府市、湯村3丁目「塩澤寺の舞鶴のマツ」(県指定)です!!

2023-10-17 18:28:00 | 文化財・樹木
 湯村3丁目は、甲府市役所の北西約4kmのところ

 甲府市役所東信号から県道31号線を北へ、約800mで左へカーブして100mの信号を右(北)へ

 約20mで武田信号を左(西)へ県道6号山の手通りです、約2.2kmの湯村信号を右(北)へ湯村温泉通りです

 市内の案内図です、左端に塩沢寺が表示されています

 道成りに約500mで、右手に塩沢寺の山門です

 甲斐国 厄除地蔵尊 福田山 塩沢寺です

 側面には、厄除地蔵菩薩略縁起が彫られています
    厄除地蔵菩薩略縁起
 当山厄除地蔵大菩薩は、人皇51代平城天皇の御宇、大同3戌子年(808年)高祖弘法大師諸国御教化の砌り錫を当地に停め、偶は感じる所あり、凡そ人生一期の中必ず大小25度の厄難あること諸経論中 明なり、然るに当国未だ霊場あるを聞かず、我衆生の為に発願して大悲菩薩の降臨を請んと、17ヶ月の間日夜肝胆を砕き、御祈誓あらせられました。
 奇なるかな  正月14日の暁明星とひとしく御文1寸8分なる御影赫耀として岩上に降臨し給う。大師御胸に彼の降臨仏の霊を秘め、7月16日を期し御親刻給う。爾来、其霊験を仰ぐに利益日に新たに感応日に盛なり。
 後、天暦9年(955年)空也上人、彼菩薩の霊験を蔵し、自ら六尺有余の座像を平常衆庶の参拝仏として安置し、大師御親刻の霊像を寺内に秘蔵し、名付けて福田山塩澤寺と称て、  武田、徳川両家累代の帰依浅からず、陣中守護秘仏として御親拝あり。

 山門前の舞鶴のマツです

 南東側から

 樹幹の一番高いところです

 山門前を右に登ると

 説明版です
   山梨県指定天然記念物
     塩沢寺の舞鶴のマツ
    所在地 甲府市湯村3丁目17ー2
    所有者 塩沢寺
    指定年月日 昭和40年5月13日
 樹種はクロマツ、樹高はあまり高くないが枝を東西に長く張り、東方の枝の長さは14m、西方の枝の長さは15mあり、鶴が両翼を開いて舞い上がる姿に似ていることから、舞鶴のマツと呼ばれている。
 枝を東西に長く伸ばした樹形は、県下まれに見る名木である。
    昭和60年10月
         山梨県教育委員会
         甲府市教育委員会

 西側から

 山門を潜ると参道石段です

 四国八十八ヶ所お砂踏霊場ー同行二人の説明版です
  

 手水舎です

 地蔵堂です

 日本遺産説明版です
   塩澤寺地蔵堂
 寺伝によれば、大同3年(808年)弘法大師が諸国教化の折にこの地で錫杖を休め、地蔵菩薩の降臨を祈願して感得し、自ら六寸あまりの石の地蔵を彫って、安置したことに始まるとされている。
 その後、天歴9年(955年)、空也上人が開基となり、弘法大師の像を模して造った厄除地蔵像を安置して、塩澤寺と称したといわれている。
 〇昭和24年2月18日国の重要文化財に指定。
 〇「厄除地蔵さん」として民衆の信仰を集め、毎年2月13日正午から14日正午に開かれる「厄除地蔵尊祭り」には、県内外から大勢の人々で賑わう。

 本堂西側のその名も「西堂」です

 本堂との間に須佐神社と塩釜神社です

 扉の中には「愚痴ぼやき聞き地蔵尊」です

 地蔵堂東側から墓地入口に無縫塔が三基あります

 説明版です
  山梨県指定文化財(建造物)
    塩沢寺無縫塔
      指定年月日 昭和46年4月8日
      所在地   甲府市湯村3丁目17番2号
      所有者   塩沢寺
 無縫塔とは大陸からもたらされた墓塔の一種、卵塔とも呼ばれている。
 古くは僧侶の墓に限られていたが、後に広く一般に普及した。
 指定されている無縫塔は、応永7(1374)年のものである。総高1.2mのこの塔は、石 に輪郭を描き古調を帯びて風格が備わり、よく 正が保たれている。
 中央のものは正保5(1648)年、左端のものは元禄6(1693)年の無縫塔である。
     昭和63年3月
         甲府市教育委員会
 *一部禿落ちているため読めない部分があります

 板碑です

 説明版です
  山梨県指定有形文化財
    塩沢寺弥陀種子板碑
      甲府市湯村3-17ー2
      塩沢寺所有
      昭和40年7月12日指定
 この板碑は、高さ2.15m、幅約1mで、安山岩でつくられている。
 碑の上部には弥陀種子(梵字 キリーク)が鮮やかに薬研刻りされ、その下に貞和6(1350)年の造立年次のほか、願文・願主・大工(左側の面 名を欠く)が刻られているが、このように銘文が完備に近い遺構は極めてまれである。銘にいう「当荘本主」が誰であるかわかっていない。
 郡内(南・北都留郡)の緑泥石片岩(俗称青石)製の武蔵系板碑とは異なった、国中(甲府盆地)の在銘最古の代表作である。
   昭和55年3月30日
       山梨県教育委員会
       甲府市教育委員会

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山梨県甲斐市、篠原「法旧寺のカシワ」(市指定)です!!

2023-10-17 06:32:00 | 文化財・樹木
 篠原地区は、甲斐市役所の南東約1.5kmのところ

 甲斐市役所竜王庁舎前信号を南へ、約150mで左(東南東)へ、約50mで右(南西)へ、直ぐ左(南東)へ

 約800mで斜め左へ入ると


 左手に山門です

 本堂前に車を止めさせて頂きました

 本堂の東側、庫裡の前に目的のカシワです

 幹を見上げました

 説明版です
  甲斐市指定天然記念物
    法旧寺のカシワ
      所在地 甲斐市篠原3225番地
      指定年月日 昭和58年5月6日
 「カシワ」は日本全土から東アジアに広く分布するブナ科の落葉高木樹です。
 大きいものは高さ30m、幹囲4.5mになるものもあります。
 このカシワは庭木として剪定されているため、樹高は約8mですが、目通り幹囲は2.4m、枝張りは東側6m、西側4m、南側5m、北側3mで、甲斐市周辺では巨木といえます。
 カシワの特徴は枝が太く、葉は厚く、長さは20cm前後、幅は10cm前後で、縁は鈍い波形状になっています。雌雄同株で、5月ごろ新しい枝の下方に細いひも状の雄穂が垂れ、上部の葉腋に1から3の雌花がつきます。
 実は「どんぐり」と呼ばれ長さ2cmほどの大きさになり、晩秋には褐色に熟します。また葉は「かしわ餅」を包むことで知られています。
 *目通り幹囲・・・立っている人の眼の位置(高さ1.5m)を基準とした幹回り寸法
    平成28年(2016)3月1日
         甲斐市教育委員会

 北側から見ました

 本堂では法事が行われていましたので、急いで引き上げました

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山梨県南アルプス市、野午島「野牛島のビャクシン」(県指定)です!!

2023-10-16 18:31:00 | 文化財・樹木
 野午島地区は、南アルプス市役所の北北東約7km、南アルプス市八田窓口サービスセンターの北約600mのところです

 南アルプス市八田窓口サービスセンター北側の八田農協前信号を西へ、約100mの横断歩道の先を右(北)へ入ります

 約500mで左(西)へ、間も無く道路の右手に

 目的のビャクシンの樹冠が見えました

 南東側から

 すぐ東側の駐車スペースを利用させて頂きました

 南側から、根元はブロック塀に囲われています

 東側から、標柱の南面に「野牛島のビャクシン」東面には「鎌倉御所五郎丸の墓」の文字が書かれています


 説明版です 
  野牛島のビャクシン
    県指定文化財(天然記念物)
    昭和35年1月7日指定
  根廻り  5.0m
  目通り  3.8m
  樹高  14.0m
 ビャクシンはヒノキ科の高木であるイブキの一品種(常緑針葉樹)で、樹形の美しさなどから庭園や寺社境内に植えられることが多い。
 この樹は、県下でも有数のビャクシンの巨樹であり、傍らには鎌倉時代の武士「御所五郎丸」(ごしょごろうまる)の墓と伝わる石塔と持仏を祀ったとされる観音堂が所在する。
 地域には、かつてこの地に流された御所五郎丸は、持っていた杖をこの場所にさしたところ、それが根付いて、現在の大きなビャクシンになったという伝承が残されている。
    平成30年3月   山梨県教育委員会・南アルプス市教育委員会


 北側から見ました

 ビャクシンの北側に「鎌倉御所五郎丸」のお墓が有ります、お花や供えものがされています

 説明版です
   鎌倉御所五郎丸の墓
      南アルプス市野牛島276番地
 京都生まれ比叡山育ちの五郎丸は、故あって、一条忠頼に従い甘利領に来たが、忠頼没後鎌倉御所で頼朝に仕え、小舎人童(こどねりわらわ)として身辺警護にあたっていた。
 建久4年(1193)5月28日冨士の巻狩りの陣中において、曽我兄弟が工藤祐経をあだ討ちした事件が起きて、頼朝の身も危険になった。
 五郎丸はとっさに女人の薄衣をかむり、弟五郎時𦤶をからめ捕える殊勲をたてた。しかし女装の兵法は武士道鼓吹に反するとする世論のため、頼朝より官職を免ぜられ、野牛島に送られた。
 体力無双七十五人力、荒馬乗りの名人といわれて青年五郎丸は、この地に村人と親しみ生涯を終えた。
     昭和54年3月1日    南アルプス市教育委員会

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