ここからは、2022年11月1日の取材分です
宮代北口地区は、福島市役所の北北東約5kmのところ
国道4号線を北東へ、阿武隈急行鉄道の高架を潜って信号4つ目瀬上町裏信号を左(西)へ県道155号線です
信号を一つ過ぎた先の「けやき薬局駐車場」の看板のある交差点を右(北)へ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/d7/28404cd4566a84120c90d5ba9407a78d.jpg)
間も無く左手に「史跡 足守藩陣屋入口」の標識が在ります![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/ee_2.gif)
左に入った広場に
車を止めさせて頂きました
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目的のカヤです![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face_sup.gif)
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東側から![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/ee_2.gif)
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南東側から![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/ee_2.gif)
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南側から![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/ee_2.gif)
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説明版です
福島市指定 天然記念物
宮代の大カヤ
カヤは山地に自生する雌雄別株の針葉樹で、その種子は食用や油料にも使われ大変重宝がられてきましたが、材が緻密で堅いために土木用材や器具材として伐採されることが多く、大木として残っているものはきわめて少ないものです。
本樹は、斎藤家のシンボルとして保護を受けてきたので、叺内の大カヤと共に当地方まれにみる巨樹になったものです。
根回り8.8m、目通り囲4.63m、樹高21.2m、推定樹齢300~350年、長くこの木の生育を保つために、次のことを守ってください。
記
(1)幹を傷つけたり枝を折ったりしないこと。
(1)生育を妨げるような変更をしないこと。
昭和47年5月2日
福島市教育委員会
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北側から![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/ee_2.gif)
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カヤの木の西側には、陣屋跡の碑です![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face_sup.gif)
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石碑が建ちます![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face_en.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/11/43ff8f0f3a51e6952c43373906583263.jpg)
説明版です
備中足守藩分領瀬上陣屋跡
備中足守藩は、豊臣秀吉の正室杉原寧子(おね・高台院)の実兄、木下家定を藩祖とする25000石の外様大名である。
備中足守(岡山県岡山市足守町)周辺40カ村を領地として支配していたが、寛政12年(1800)12月、幕府より信夫、伊達両郡内25カ村に20000石余の村替えを命ぜられ、その分領支配の陣屋をここ宮代村に設置した。
代官は当初、二階堂弥五作らが郡奉行として派遣されたが、天保期からは塩見家が奉行として世襲し11000石余を支配した。このはか手附手代ら役人が勤務したが役人の手足となって働いたのが年番名主で、年貢、収納、村方論争、廻米、助郷、用水等多方面にわたって代官と村方とのパイプ役を果たした。
陣屋は大カヤを中心に東端は旧瀬上支所あたりまで敷地があり、北側には御馬屋もあった。西は泉性院境で、西北端に奉行塩見家の屋敷があった。その東に桜樹があり、備中足守近くの最上稲荷大社からの稲荷社が勧請され、陣屋の鎮守として祀られた。
以後70年間、この地を支配し、明治3年(1870)12月、分領は県に渡され解体した。陣屋の建物は県北各地の名家に分譲されたが、鎮守の最上稲荷は、当斎藤家に譲与され、老桜樹のあるもとの位置にその瀟洒な佇まいを残して鞘堂内に安置されている。
1997年10月
撰文 福島県史学会常任幹事 半沢光夫
陣屋碑建立会
では、次へ行きましょう![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cars_red.gif)
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宮代北口地区は、福島市役所の北北東約5kmのところ
国道4号線を北東へ、阿武隈急行鉄道の高架を潜って信号4つ目瀬上町裏信号を左(西)へ県道155号線です
信号を一つ過ぎた先の「けやき薬局駐車場」の看板のある交差点を右(北)へ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/d7/28404cd4566a84120c90d5ba9407a78d.jpg)
間も無く左手に「史跡 足守藩陣屋入口」の標識が在ります
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/ee_2.gif)
左に入った広場に
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cars_red.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/2d/bdb03fdda472cce534ef5b082af26ae5.jpg)
目的のカヤです
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face_sup.gif)
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東側から
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南東側から
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南側から
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/ee_2.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/61/ed25c1b15ba092d2a95991d87e3fa1b3.jpg)
説明版です
福島市指定 天然記念物
宮代の大カヤ
カヤは山地に自生する雌雄別株の針葉樹で、その種子は食用や油料にも使われ大変重宝がられてきましたが、材が緻密で堅いために土木用材や器具材として伐採されることが多く、大木として残っているものはきわめて少ないものです。
本樹は、斎藤家のシンボルとして保護を受けてきたので、叺内の大カヤと共に当地方まれにみる巨樹になったものです。
根回り8.8m、目通り囲4.63m、樹高21.2m、推定樹齢300~350年、長くこの木の生育を保つために、次のことを守ってください。
記
(1)幹を傷つけたり枝を折ったりしないこと。
(1)生育を妨げるような変更をしないこと。
昭和47年5月2日
福島市教育委員会
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/0b/5ffe44927d4a9b51024ee04d1e47e96a.jpg)
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北側から
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カヤの木の西側には、陣屋跡の碑です
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石碑が建ちます
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説明版です
備中足守藩分領瀬上陣屋跡
備中足守藩は、豊臣秀吉の正室杉原寧子(おね・高台院)の実兄、木下家定を藩祖とする25000石の外様大名である。
備中足守(岡山県岡山市足守町)周辺40カ村を領地として支配していたが、寛政12年(1800)12月、幕府より信夫、伊達両郡内25カ村に20000石余の村替えを命ぜられ、その分領支配の陣屋をここ宮代村に設置した。
代官は当初、二階堂弥五作らが郡奉行として派遣されたが、天保期からは塩見家が奉行として世襲し11000石余を支配した。このはか手附手代ら役人が勤務したが役人の手足となって働いたのが年番名主で、年貢、収納、村方論争、廻米、助郷、用水等多方面にわたって代官と村方とのパイプ役を果たした。
陣屋は大カヤを中心に東端は旧瀬上支所あたりまで敷地があり、北側には御馬屋もあった。西は泉性院境で、西北端に奉行塩見家の屋敷があった。その東に桜樹があり、備中足守近くの最上稲荷大社からの稲荷社が勧請され、陣屋の鎮守として祀られた。
以後70年間、この地を支配し、明治3年(1870)12月、分領は県に渡され解体した。陣屋の建物は県北各地の名家に分譲されたが、鎮守の最上稲荷は、当斎藤家に譲与され、老桜樹のあるもとの位置にその瀟洒な佇まいを残して鞘堂内に安置されている。
1997年10月
撰文 福島県史学会常任幹事 半沢光夫
陣屋碑建立会
では、次へ行きましょう
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