昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

not only but also

2021年06月02日 16時03分29秒 | 3 青い鳥 1967年~

昭和43年 ( 1968年 ) 中学2年生
英語の授業中のこと

not only A but also B
・・を使った英文
「 英文を訳せよ 」 と、教師・森先生
予習をして授業に臨んだ私、ここぞとばかり、手を挙げた。
そして、自信を持って堂々と答えた。
「 良し 」 ・・・と、先生。
ところが
「 ちよっと違う 」
・・・と、
クラスの秀才・橋本、
そう洩らすように言った。


当時人気のTV番組、「 アップダウンクイズ 」
・・・に、出場して
トップに輝いた。
それ程
優秀なる頭脳の持主である。
彼は、教師が 「 良し 」 と したことが不満だったのである。
先生がそれに応える。
「 訳が多少違っていても、直訳としては間違っていない 」
「 かまわない、それでいい 」
「 自信を持って答えるが大事なことである 」
そう諭したのである。

昭和43年 (1968年 )
メキシコオリンピックが行われた。
        
マラソン・君原の銀メダルには感動した。

体操日本の金メダル、加藤沢男の演技に、
重量挙の三宅兄弟に、
女子バレーに、
日本中が歓喜した。

そして、
吾々はサッカー ・釜本を観たのである。

 
                 メキシコオリンピックで得点王の釜本  

体育の時間
サッカーの実技テストが行われた。
独り  ( 相手は居ない ) で、ボールをドリブルしてゴールを決める。
此が課題であった。
普段、休み時間にはサッカーをする ・・・が、専らの吾々。
誰もが 「 吾こそは 」 と、張りきったのである。
そんな中、クラスの秀才・橋本
彼の想いも、皆と ちっとも違たがわなかった。
「 ピーッ ! ! 」
体育の教師、鉄人・吉田の笛が鳴り響く
と 同時に、40名が見つめる中
「 イザ行かん 」
と、勢いよく跳びだした。
ジグザグ・・・ドリブルして行く。
滑り出しは如何にも順調である。
後ろで彼の動きに目を遣る吾々
「 オッ、(あいつ) ヤルやんけ、頑張っとるな 」
そう・・・観えた。
当人もそう想ったであらう、背中せな がそう物語っている。
皆がそう想った次の瞬間

ガハハハハハ
それはもう
爆笑の渦と化したのである。

  
 
ドリブルからシュート
クライマックスは釜本の如く
格好よくシュートを放ちたい・・は誰しもが懐く想いであらう。
されど吾々は、釜本ならずや
邪魔する相手は居ないけれど、
ドリブルしもって 転がるボールをそのまま蹴る芸当、
推う以上に難しく、シュートを仕損ずることも少なくはなかった。
「 空を蹴る 」 ・・・を、見ることもあった。

ボールに乗った少年 
頭脳明晰な彼、
試験の課題はドリブルしてシュートすること と ちゃんと分っている。
確実にシュートするために、転がるボールを一旦静止させよう、
・・・と、咄嗟に判断したのである。
(テストの) 点を取るとはそういうこと、
だからその判断は間違ってはいない。
「 さっそうとシュートを決める 」
・・・とはゆかないが、
確実にシュートするのだから

ああ、それなのに
天は彼に味方しなかった。

転がるボールを踏み
ボールを静止すること適わず、
況んや
ボールに乗っかって
おもいっきり転倒したのである。

嗚呼 そんな器用な芸当、誰が真似できようか。
それは如何にも、
チャップリン喜劇の 一シーンを見る如き光景であった。
当に漫画やテレビではお目にかかれども、現実では滅多に拝めるものではない。
彼にとっては真に悪夢であったらう。

対称に吾々は、
スタートからすると真逆のドンデン返しの展開に、想わず吹き出した。
斯様な場面に遭遇して何人と雖も、
笑いを堪えることなぞできるものか。
素直に大笑いしたのである
一同、笑ったものの
ハッとした
「 叱られる 」
・・・と、そう想った。
そして、
教師の顔を覗いた。
・・・

鉄人・吉田
・・・も、笑っていた。

not only A but also B
A のみならず B も
・・・とは、行かないものである
儘ならぬも
此れ人生・・哉
そう想う

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長島茂雄 感動のホームラン

2021年06月02日 12時03分04秒 | 3 青い鳥 1967年~


私も亦
長島茂雄の引退試合・セレモニー ( 昭和49年10月14日録画放映 )
を、観て涙した中の一人である。
広島カープのファンである親父も、我が母も、
同じく、涙を浮かべていた。
日本中が涙して、引退を惜しんだのである。

感動のホームラン
昭和43年 ( 1968年 ) 9月18日・阪神タイガース戦
阪神の投手 「 バッキー 」 が、「 王 」 に危険球を投げた。
この事が発端で、
巨人の荒川コーチがマウンドに駆け寄る。
バッキーが応戦してパンチを撃つ。
( この時のパンチが原因で指を骨折、投手生命を絶つことに )
・・・とまあ、
両軍相乱れての大乱闘になった。

あげく
バッキー、荒川コーチが退場
ようよう、試合再開となった。
バッキーから代わった投手 「 権藤 」
再会直後に
投げたカーブは何と、「 王 」 の側頭部へ
ビンボール?
倒れた 「 王 」 は動かない。
・・担架で運ばれる 「 王 」
甲子園球場全体が静まり返った。
それはもう、
凄い試合になったのである。 


そして
試合再開直後
男 ・長島茂雄、
スリーランホームラン!!
この瞬間、
観戦していた全ての日本人が感動した
日本中がシビレタのである
「 男の中の男 」 ・・と

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まんまんちゃん あん

2021年06月02日 08時02分23秒 | 3 青い鳥 1967年~

昭和41年 ( 19666年 )
時代は、新しいヒーローを創り出した。
釜本邦茂
サッカー の スタープレイヤー が 誕生した。
彼の登場は、サッカーがテレビ中継される機会を増やしたのである。
そして、釜本のスーパープレーは、吾々を魅了していく。

昭和43年 ( 1968年 ) メキシコオリンピック
日本チームは 銅メダル を獲得した。
そして 釜本は得点王に輝き、「 世界の釜本 」 と、賞賛されたのである。
スポーツと謂えば 野球の頃、
「 サッカー 」
新しいファッション としての スポーツ・・・と
中学生の吾々は、そう認知した のである。 

昭和42年 ( 1967年 )、中学一年生
昼休みは運動場でサッカーをする ・・・が、男子生徒の流行であった。
吾々も又、弁当を食べ終えると直ちに運動場へ走った。
クラスに常備されているのは、バレーボール
クラスの男子生徒が半々になり ゲーム をするのである。
ゴールはラグビーのポール
私も釜本にあやかって
右45度の角度からのシュート
転がって来るボールを停めずに素通りさせ、180度振り向きざまに蹴る。
そして、ボールは皆の頭上を越えてゴールへ・・・
ドヤッ・・と
皆の前で、上手いことやって、エエカッコ したかったけれど ・・・
そうは簡単に問屋は卸さない・・もの
転がるボールを、自由自在に蹴飛ばす ・・・には、ほど遠かったのである。
他の皆とて同じ
「 我こそわ 」 ・・・と
皆が、それぞれの想い勝手にボールを追いかける。
だから、ダンゴ状態 に成っている。
傍から見らば、ラグビーをしているかの如く・・であらう。           ( ハタカラ )
ダンゴの中から、ボールが舞い上がった。


その時、

「 まんまんちゃん アン!」
そう叫んで 小柄の杉岡
飛び上がっての ヘッディング
「・・ああ、やられた!」

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あしたのジョー

2021年06月02日 04時51分18秒 | 3 青い鳥 1967年~

テレビ視聴率 63.7% のボクサー
昭和39年 ( 1964年 ) 10月29日
10才、小学4年生の私
偶々
テレビでボクシング中継を見ていた。
ファイティング原田 × 東洋チャンピョンの青木勝利
勝った者が次に世界戦に挑戦できる、両者にとって、重要な一戦であった。


果して
ファイティング原田の3ラウンドKO勝ち
格が
違った。
右のクロスカウンター 一発 
青木勝利がリングに沈む
それは、豪快かつ鮮やかなるものであった。
スローモーションでもう一度・・と
その決定的瞬間をまざとみた私
ファイティング原田の凄さを、目の当りにして
「 ファイティング原田は強い 」 ・・・と、脳裡に焼付けたのである。

昭和40年 ( 1965年
) 5月18日
バンタム級世界タイトルマッチ
エデル・ジョフレ ( メキシコ ) に、挑戦したファイティング原田
どうか、勝ちますように・・
日本中が固唾を飲んで
見つめた。
試合は接戦であった。
もう やきもきした はがゆかった。
互いの力が均衡しているのだ。
そして
気力も体力も使い果たして、へとへとの状態で
15ラウンドの終了ゴングを聞いた時
観ている吾々も 軀から力が抜けた。
もう くたくた・・・
結果は、2-1 の判定勝
ようよう勝った。
スカツと KO勝ち とはいかなかったけれど
とにかくも勝った。
視聴率歴代5位の 63.7%
日本中が祈るように見つめるなかでの勝利に、日本中が歓喜した。
そして
ファイティング原田は国民的ヒーローと成ったのである。
「 勝つ 」
・・・とは、こういうことであらう。



カシアス・クレイ
昭和42年 ( 1967年 ) 2月6日

中学一年の私は、
偶々 テレビのチャンネルを回したところ
偶々 ヘビー級の世界タイトルマッチに遭遇した。

WBC世界チャンピョンのモハメド ・アリ 対 WBO世界チャンピョンのアーニー・テレル
初めて見る、ヘビー級のタイトルマッチ
然も、真の世界一を決める、統一戦である。
ファイティング原田以来、ボクシングに関心を持った私
食入る様に観たのである。
試合はアリの一方的なものであった。
初めて見る、ヘビー級のパンチに凄さを感じた。
更に驚くは
試合中に以て
アリがテレルに向って大声で叫んでいる。
「 俺の名前を言ってみろ ! ! 」 ・・・と
私は
「 こんなの初めてや 」
「 これがヘビー級のボクシングなのか 」
・・・と、その凄さに感歎した。
テレルも一方の雄 ・WBO世界ヘビー級チャンピョンである。
然し、アリに子供扱いされている。
全く歯が立たない
更に
アリは敢えて とどめを刺さない
圧倒的な力を見せつけたのである。
・・・
これにはもう
度肝を抜かれた。


昭和39年 ( 1964年 ) に イスラム教徒名の 「 モハマド ・アリ 」 と、改名した。
ところが
試合前、アーニー・テレルは、敢えて挑発する為に、
アリの旧名である 「 カシアス ・クレイ 」 ・・・と、叫んだのである。

これに、アリは激怒した。
「 俺を奴隷名で呼んだ 」 ・・・と。

昭和40年 ( 1965年 ) 5月25日 ソリー・リストン戦 ↓
これぞ アメリカ であらう。
 



昭和42年 ( 1967年 ) 13才、中学一年生
ファイティング原田を代表とする、フライ、バンタム級の軽量級しか知らなかった私
ヘビー級ボクシングの凄さを知った。
そして
「 ヘビー級は凄い 」 ・・・と、感動したのである。
その、繰り出すパンチの破壊力たるや、
何をか況や・・・と
然も
軽量級ボクシングなど見向きもしないアメリカ人に
とてつもないスケールの大きさを感じた。
やっぱり
大国 アメリカは凄い・・と
とうてい
アメリカには敵わない・・と

ゼロ戦は世界一の戦闘機なるも
その、ゼロ戦が決死の闘いを以てして挑むも
アメリカには敵わなかった。
大型爆撃機 B29 の 圧倒的な力で以て
打ちのめされたのである

口惜しいかな
アメリカはヘビー級
なのである。

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ヒーローに成った

2021年04月25日 06時35分34秒 | 3 青い鳥 1967年~

昭和41年 (1966年 )  淀川小学校六年生の一学期
体育の授業に野球 ( ソフトボール ) が科目に成り
野球少年の私
意気軒昂、
日頃の成果を見せようと、俄然張り切った。
そして、その実力たるや、クラスでは群を抜いていた。
果たして、体育の通信簿は 「 5 」
生涯で、たった一度だけ、手にした栄冠である。

都島球技大会
小学校六年生の二学期
運動会の後、
都島区の小学校対抗で、野球 ( ソフトボール ) の競技大会が行われることに成った。
クラスごとに 2名 7クラス総勢14名 選手候補が選出された。
その中の一人に、私も居た。
私は、3人のピッチャー候補の一人であった。

「 都島球技大会に出る人は運動場に集まって下さい 」
一度だけ、職員室のマイクで、そう呼びかけたことがある。

放課後の練習を通じて、9名のレギュラーが選出される。
私は、エースに成れず、セカンドで7番 と、告げられた。
代表メンバーを見て、
「 これは、1組~7組までの各クラスを配慮したな 」 ・・・と、そう想った。
しかし、それでも、私は
9名の、学校の代表選手の一人に選ばれたのである。
「 代表に
成る」 は、名誉な事ではあった。

私は、大した活躍は しなかったけれど、
チームは優勝した。


イメージ画像は 昭和49年 ( 1974 ) 年8月
3年時のソフトボールの競技は、ブルーのダイヤモンドで行った。 ( プールが出来た為 )

「 ヒーロー 」 に、成った
昭和42年4月1日 ( 土 ) 、入学式を終えて中学生に成った。
吾 淀川中学校では、
新学年、新学期に、先生方、担任が各々家庭訪問、家庭調査をする。
その二日間、午後の授業を割愛して、
男子はソフトボール、女子はバレーボールで、クラス対抗戦を行った。
何せ、半ドンで昼からは遊べるとあって、選手組も、応援組も、共に喜んだのである。
競技は、全7クラスのトーナメント方式で、3回戦で行われた。

脇役だった一年生
昭和42年 ( 1967年 ) 中学一年生
メンバー選びを取仕切ったのは、都島球技大会優勝チームの主軸選手であった 菅、諏訪。
背が高く体格の良い二人、
しかも、菅はエースとして優勝に貢献した大の立役者、皆が一目置く存在であった。
「 花田も都島球技大会に出たなぁ 」 と、諏訪、
守備の人 として、三塁手 として、選手に選ばれた。
「 都島球技大会・代表メンバー 」 として、顔は立てて呉れたものの、
7番・セカンド の印象は、額面通り、薄かったのであらう。
エースの菅 率いる、吾々5組は優勝候補であった。
ところが、無名の平凡投手多田のチームに、初戦であっさり敗れてしまったのである。
私は、試合に参加したが、戦ったという 実感はしなかった。
優勝候補に勝った多田のチーム、勢いに乗って、優勝してしまった。

一躍 ヒーロー
に、成った二年生

昭和43年( 1968年 ) 中学二年生
偶々、クラスに有力メンバーが存なかったこともあって
私は、エースで4番
そして、メンバー選びを取仕切ったのである。
「 打たして捕る野球をするぞ 」 と
中学では軟式野球部の、西・山本を、それぞれ、キャッチャー、レフトに配置して、要所を締めた。
作戦は私の思い通りの展開に成った。
「 レフト、行くぞ!」
・・「 オーライ!」
レフトに 凡フライのヤマ、を築いたのである。
レフトの山本、活躍できて、たいそう ご満悦であった。
ホームランを打ちたい という相手の気持ちを、巧くコントロールしたのである。
遣ること、為すこと 全てが旨く行った。
センターがえしで、頭上を越えるであらう打球を瞬時に手を伸ばし捕球し、
「 オオー !! 」 、観戦の横山先生を感嘆せしめた。
投げて良し 守って良し・・
この試合、私は、
4打数4安打、3ホームラン、1三塁打、11打点
それはもう、大活躍であった。
・・打って更に良し
「 花田 単りにやられた 」 ・・・コールド負けした6組の岩出
「 あいつがおれへんかったら・・勝ってたんや 」 と、負け惜しんだ。

私の勢いは、とどまることなく、更に続いた。
決勝は昨年の優勝投手多田のいる7組
ここには、野球部でエースで4番の萩田 が存た。
絶好調 の私は 調子に乗って、
バッターボックス を 右から左にスイッチした。
バットを寝かせ、地面に水平に成る様に構えた、そして高めの球を待ったのである。
果たして、狙い通り、
おもいっきりスイングした打球はライトの頭上を超えた。
なんと、左打席での 初打席初ホームラン であった。
このホームランで試合の流れが変わった。
もう絶好調、遣りたい放題の私である。

極めつけは是
三塁走者は私、三塁を守るのは、野球部のエースで4番の萩田
ここで、三塁ゴロ
軽快に捌いた萩田、セオリー通り、走者の私を見遣って、一塁へ送球しようとした。
走者の私、ゴロを補給した彼と、私の位置関係を 咄嗟に把握した。
この距離なら、タッチプレーまで、手が伸びない、届かないだろうと
送球しようとする瞬間にホーム へ スタートする振りをして見せたのである。
奔る気はない、唯、セオリー通り、野手を牽制したのである。
咄嗟に体が反応したのであらう 萩田
タッチプレー しようと振向いたのである。
しかし、
タッチプレー 及ばず
しかも もはや、一塁送球も 間に合わない。
送球できずに、一塁セーフとしてしまったのである。
「 あ・・あ 」
応援する彼のクラスから溜息が漏れた。
「 ウワーッ!」
吾がクラスの応援から歓声があがった。
してやったり
私の勢い、とどまるところなし
是、まさに絶頂の瞬間である。

名を上げた
「 お前、右でも、左でも、ホームラン打ったらしいな 」
小学校の岡本先生
「 花田君が凄かった と、女子生徒が云うとったぞ 」
私の派手な活躍振りは、小学校の旧恩師達まで轟いたのである。
「 見られている事 」
そして
「 凄いと思わせしめた事 」
唯々、野球をすることが楽しくて、ゲームに没頭していたから、
気にもかけていなかったが

而して 私は、名をあげた

「 あいつは凄い、あいつには敵わない 」 ・・・と、皆に認識せしめたのである。
「 野球部にスカウトして来い 」
キャッチャーを務めた、野球部で三塁手の西
三年生にそう云われたそうな


優勝候補
の、三年生

昭和44年 ( 1969年 ) 中学三年生
「 こんどの大会、花田がピッチャーで出るのんか?」
「 いや、ピッチャーは多田や 」
去年、決勝で戦った多田にピッチャーを譲ったのだ。 ( ・・同じクラスに為った )
余裕を示した私である。
「 それなら、チャンス あるかな 」
大会前、2組・西崎がそう呟いた。
今度の大会、何故か野球部の連中は参加しないと言う。
吾がチームには
「 こいつ、野球大丈夫かな、できるんかな?」 
と、想う者もいて、この顔ぶれでは、勝てる とは思えなかった。
しかし他のクラスは、
私の存在 = 優勝 と、見做していた。
「 名をあげる 」 ・・・とは、こういう事なのであらう。

勢いはつづいていた
エース 菅 率いる3組との対戦
相変わらず、彼の投げる球は速い。
あの、都島球技大会で優勝に導いた、あのスピードボールは健在であったのだ。
しかし彼は、一年、二年と、勝てなかった。
私は、それが不思議で為らなかった。
「 彼は、何故勝てないのであらうか 」
彼の実力を持ってしても、優勝するという事は、至難の業なのである。
私は、驚異的な活躍をした二年生の時程では無かったが、引き続いて活躍できた。

私は、菅のスピードボールを、苦も無くセンター前に弾き返した。
更に、ボールを捕球したセンターが、
不用意にも、ピッチャーへ返球するのを見て、一塁ベースを蹴って二塁に走った。
 「 してやったり 」
思惑通り、二塁を奪い取ったのである。
「 どや!」 と、得意満面の私
これで、チームは、俄然 勢いづいたのである。

一人椅子に腰かけて、
一部始終を観戦した男性教師が存た。
3組担任・坂谷先生である、
先生は
私が所属するテニス部の顧問でもあった。
「 花田、あの速い 菅の球、よう打ち返せるなぁ 」
「 凄いなぁ 」 ・・・感心したと云う。
これ以上の誉め言葉、他にあるものか。

テニス部の私、
至近距離から、おもいっきり打ち下ろしてくる 「 ボレー 」 と、まともに対峙する場面がある。
「 テニス、の球のほうが速いから 」
・・・と、ニヤリ。
かっこう を、つけて得意顔の私であった。

「 青い鳥 」 の目の前て゛
青い鳥 の存る 2組との対戦。
私は三塁を守っている。
私と差向えに、2組を応援する彼女の姿があった。
バレーボールの選手の筈、競技が終わってのギャラリーなのか、
それとも、競技の合間か、いずれにしても
「青い鳥が見ている 」
そんな時に 限って亦 打球が転がって来る。
私の晴れ姿を彼女は一度も見たことがないだらう
ええかっこしたい ・・・
嗚呼

ところが、まさかのトンネル
あれを、トンネルするとは思わなかったと、後ろで守るレフト
レフト線を転がって行くボールに、追いつけなかった。
とうとう、打者はホームイン してしまったのである。
こともあらうに 私は、
青い鳥 の、目の前で大失策をしでかしてしまった。 


試合は、逆転して勝った。
トンネルをした汚名も返上した。
併し

「 その時 既に 遅かった 」
ギャラリーに、彼女の姿は無かったのである。


折角、
優勝したのに。



人生、
思いとおりになる。
これ正に、
至福の時である。

一年生の大会で、
「 エース・菅 」 が、その実力とおり、思惑とおり、優勝していたら、
彼は二年、三年の大会に於ても優勝したに違いない。
ところが、『 勝利の女神 』 の 気まぐれか、彼は負けてしまった。
その 負けたことにより、 「 菅 = 優勝 」 という 図式が崩れたのである。

二年生の大会で、
私の驚異的な活躍、これはもう神懸かりという外はない。
私の人生に於いて、稀有なもの。
然し そんな稀有なことが起ってしまったのである。
私は
ヒーローに成り、名をあげた。
そして、
「 勝ち抜く時の勢い 」
・・・というものを肌で実感するという、貴重な体験をしたのである。
「 勢いは、ヒ-ロ-のみが創り得る 」
長島茂雄の気持ちが分かった様な気がした。

三年生の大会でも優勝した。
「 私の存在 = 優勝 」 ・・・是で以て優勝したもの。 ( そう想っている )
ところが、
肝心なところで 大失敗をした。
こともあらうに、「 青い鳥 」 の目の前で、トンネルするという大失策。
これはもう、『 穴が有っても 這入れない』 ・・・そんな心境だった。

やっぱり
人生、思いとおりには ならない。
・・・ものである。

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恋心

2021年04月24日 05時03分25秒 | 3 青い鳥 1967年~

昭和44年 ( 1969年 ) 4月の新学期に臨み
愈々、来年は高校受験
脇目も振らず勉強に打込もう・・そう決心したのである
そして、頭を受験モードに切り替えた
『 恋なぞしない 』 ・・・と
リンク→がり勉 

淀川堤                イメージは2010年・・自転車の少女は吾孫娘(当時3歳)
昭和44年 ( 1969年 ) の
一度っきりの想い出
嗚呼
あの時は、もう返らない

 恋心
6月15日に修学旅行を終えて未だ日の浅い日曜日のこと
此の3月までクラスメイトの大橋と久し振りに会おうと
大東商店街の待合せの場所へ行くと、其処には大橋のクラスメイトの大倉も居た。
別段これと謂った要件もなく、当てもなかった。
「 堤防(淀川堤)で喋らう 」
と、大東商店街から淀川堤へ向った。
路行、喋り以て歩くも、愉しいものである。
専らの話題は、先日の修学旅行のこと。
然し
野郎三人では如何にも味気ない、話に潤いもない。
「 誰か呼ぼうや 」
女子を混えよう、花を添えよう、・・と、
大橋が口火を切った。
「 誰にする 」
「 ○○○ 」 ・・と、私
クラス替えしてもなお、彼女とは気易かったのである。
大橋と大倉は共に○○○とはクラスメイトでもある。
「 そんなら、俺が呼んで来るわ 」・・と、大倉。
「 オー、此処で待ってるからな 」
大橋と二人、ワクワクした気分で待った。
「 あいつ、来るかな 」
・・・
暫くすると
大倉の声がする。
堤下を見ると、大倉の後に二人の女子の姿、
「 オッ!! 」
驚く勿れ、
○○○と同伴でやって来たは、私のクラスメイトのカーディガン。
つい先日の修学旅行で淡い想い出を作ったばかり。
・・その余韻褪めやらぬまま、吾心懐にある。
まさか、そのカーディガンが来ようとは
推いも及ばぬところであった。

大倉が○○○の家を訪ねると、
偶々か偶然か、○○○の家にカーディガンも居たのである。
斯の二人、クラス替え後も続いて仲が良かったのだ。
メッセンジャー・大倉が如何に説得したかは知るべくもないが、
二人一緒だったからだけではなからう。
私の名を聞いたから こそ 二人は来る気になったのだ。
・・と、私は勝手にそう自惚れる。

ヒョンなことから意外な展開と成った。

淀川堤で腰を下し、何を喋ったかはちっとも覚えちゃあいないが
なんと爽やかな一時 ひととき であった。
なにげなく、目を遣ると、
私の傍で、パノラマに拡がる景色を眺めるカーディガンが居る。
天からの光を享けて輝いている。
眩しく感じたのである。

そして私は、
その容姿を、綺麗・・・と、想った。

此は恋心
 
イメージ
カーディガン

然し私は、
初志を貫徹すべく
折角の恋心
・・凍結した
 

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修学旅行 1 ・ 消えた記憶 「 観音様です、おっ母さん」

2021年04月22日 05時00分01秒 | 3 青い鳥 1967年~


 6月14 日 皇居 ・二重橋  3年5 組 記念の写真  ( 後列右端・・おんなせんせい・・岩崎佳子先生 )

大阪市立淀川中学校
第9期生 ・ 修学旅行
昭和44年 ( 1969年 ) 6月11日~15日 ( 四泊五日 )


      
6月11日 ・大阪駅 ( 電車で一泊 )   12 日 ・富士駅   白糸の滝                           富士ハイランドホステル ( 二泊目)
       
6月13日 ・富士山五合目       山中湖                                   大涌谷                           箱根高原ホテル ( 三泊目 )
       
6月14日 ・サボテン公園        横浜港 ・氷川丸                    皇居 ・楠木正成像                   皇居二重橋
   
浅草・浅草寺                         銀座                              品川駅  ( 電車で四泊目 )           ・・・→6月15日帰校

修学旅行
二度と帰らぬ 想い出乗せて
クラス友達 肩よせ合えば
ベルが鳴る鳴る プラットホーム
ラララン 汽車が行く 汽車が行く
遥々と 遥々と  若い僕等の 修学旅行
『 修学旅行 』  舟木一夫 ( 昭和38年 )

修学旅行歌の定番で、必ず唄われた。
「 二度と帰らぬ 想いで乗せて 」
・・・心に響く、名文句である。


昭和44年 ( 1969年 ) 6月11日
修学旅行列車 「 日の出号 」 で、東京へ
夜行に乗って出発した。


一泊目は車内
就寝までの間、男女でトランプを愉しんだ。
ナゴヤー ナゴヤー
「 おっ 名古屋か、なごやかなったなぁ 」
・・・超・しょうもないダジャレ を、云ったものである。

吾々男子
女子に受けようと、競って、ダジャレを言い合った。
男心とは 幼き子の如き、可愛いもの・・と、
女子は ちゃんと 見抜いている。
男子の受け狙いの ダジャレの連発 に 愛想笑い して応えて呉れた女子。
やっぱり 女は偉い。
( 女子の一人に、峰さんが居た )


旅行中の 6月12日、二泊目の富士ハイランドホステルでのこと。
就寝まで自由時間、
皆 それぞれ ゲームしたり お喋りしたり と、愉しんでいた。
私は他の男子数人と一緒に、ラジオのプロ野球 ・巨人戦を聞いていた。
そこには、女子の姿もあった。
斯の 『 別品 』 女子である。 (  ・・・リンク→リーダーは、別品 )
『 アタックNO1 鮎原こずえ 』  (  ・・・リンク→東洋の魔女  )
・・・ くらいなら 知っているであろうと、
そのくらいしか想っていなかった  彼女が、

何と、吾々と伴に プロ野球の実況放送に耳を傾けている。
「 お前、プロ野球 知ってんのんか?」
「 お父さんが、いつも プロ野球 観ているから 」
・・・なんとなく観ているうちに 野球ファンに為ったと云う。
彼女の その 詞ことば意外であった。
そして、
長島のファン だと云う。
「 長島少年 」 の私
それはもう、 感動するほど嬉しかった のである。


旅行中、富士急行のバスで 富士山の五合目に上った。
バスを降りると、3776mの富士山頂上が 直ぐそこに 見えた。
「 30分で登れるで 」 ・・・と、私は呟いた。

箱根高原ホテルで三泊目を過ごした吾々。
修学旅行四日目の14日は、横浜港、そして東京を観光する。

箱根から小田原、湘南海岸・・・と、
吾々を乗せたバスは走って行く。

あれが、有名な加山雄三のお母さん 小桜葉子さんの所有する、
  茅ヶ崎パシフィクホテルてす 」
と、バスガイドが白い手袋の手を向けた。
「 ヘー、あれが加山雄三のホテルか 」
    ・・・リンク→風よ伝えてよ あの娘に
さらに 暫くして、
「 あれが加山雄三の家です 」
「 ヘーッ、あれが加山雄三の家か 」
唯々感心するばかりの吾々であった。
映画俳優一家の加山雄三、銀幕のスターとは斯くの如きなるもの乎。
吾々は、芸能人とは 異次元の存在と認識せられたのである。
此も亦、修学旅行での想い出の一つである。


東京だよ おっ母さん
おっ母さん
おっ母さんとこうして 久しぶりに手をつないで
東京見物できるなんて とっても嬉しいは
ほら みてご覧なさい
あれが宮城 二重橋よ

久しぶりに 手を引いて 親子で歩ける嬉しさに
小さいころが 浮かんできますよ おっ母さん
ここが ここが 二重橋
記念の写真を 撮りましょうね
お兄ちゃん
千代子もこんなに大きくなりました
♪♪
優しかった 兄さんが 田舎の話を聞きたいと
桜の下で さぞかし待つだろ おっ母さん
あれが あれが 九段坂
逢ったら泣くでしょ 兄さんも
ねえ お兄ちゃん
お兄ちゃんが登って遊んだ柿木も そのままよ
見みせた上げたいは
♪♪♪
さあさ 着いた着きました 達者で長生きするように
お参りしましょうよ 観音様ですおっ母さん
ここが ここが 浅草よ
お祭り みたいに賑やかね

皆が ・・そう歌ったか如何か ・・・知らない。

ヤスモトさんが笑っている 
苦しそうな シマの顔 青い鳥 が いる

浅草寺での観光を終えた吾々は、
夕食を浅草寺傍のレストランで取った。
「 舟木君、チャンと食べましたか?」 ・・・と、担任の木下雅子先生。
茶目ッ気を起した私、
「 チャンと食べましたよ 」
と、彼の弁当箱を手にとり先生に見せた。
これにはカラクリがあり、
弁当箱の蓋を半分程押えて、彼がさも食べたかのように見せたのだ。
やっぱり、半分ほどしか食べていなかったのである。
友ガキ・舟木、
旅行中、彼の偏食振りは担任を悩ませた。
とにかく、魚と味噌汁、にしめ ・・・以外は嫌いだと食べなかったのである。


友ガキ・舟木

木箱風の弁当
中身は、ご飯の上に鳥ミンチ肉を敷き詰めたもの。
「 こんな甘いもん、舟木が食べれるものか 」 ・・・と、そう想った。
側に付いていた私、
それでも、彼を励ましたところ半分は食べたのだから
「 マッ いいか 」 ・・・良しとしたのである。

夕食を済ませた吾々
土産物を買い終え  ( ちなみに私、定番である 東京タワーの土産物を買った )
東京での日程を終了し、品川駅へ向かった。
日はトップリ暮れていた。


                                                                                類似イメージ
途中
バスの窓外に服部時計店が見える。
そして
プロレス中継で必ず出てくる、三菱の丸い建物
「 ヘェー・・ここが あの銀座か
大都会・東京に来た
と謂う、実感が湧いたのである。

 品川駅
修学旅行の全日程を終えた吾々。
♪ 二度と帰らぬ 想いで乗せて 
サア、大阪へ帰らん。

・・・修学旅行 2  へ、続く

想い出したくても、
想い出せなき記憶

浅草寺観光の後、確かと 夕食はとった。
ところが、肝心な浅草寺での記憶 ・・・

( 写真の様に ) 
浅草寺・斯の煙り、私も冠った筈であらう ・・に
そして、観音様にお参りしたであらう ・・に
・・・
完全にワープしているのである。
此は・・もう 生涯の不覚
至極、残念である。

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ジェラシー 「 なんで、あいつやねん 」

2021年04月21日 05時03分35秒 | 3 青い鳥 1967年~

昭和44年 ( 1969年 )
あれほど世の中を席巻した
グループサウンズも終焉となり
中三女子生徒達の関心は専ら
アイドルグループ 「 フォーリーブス 」
それにしても
キャーキャー は、騒がしからうに

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昭和44年 ( 1969年 ) 4月、中学三年生になった。
恒例のクラス替えに依って、クラスが別々となった 私と ○○○。
それでも、偶に交流はあったのである。

ジェラシイ
○○○ が、私と同じクラスの男子を好きだと云う。
「 なんで、あいつやねん? 」
青山孝 ばりの風貌
機敏かつ運動神経良く、いつも笑顔のイメージで
しかも可愛い
可愛いから 」 と云うなら、納得もしようが・・
クール だから 」 だと云う。
「 クールな男 」 が好き 「 優しいだけの男 」 は駄目
カッコウを付けている男はキライ
そう云うのである。

「 優しい方が 良えんやぞ 」
そう、云い返した私。

○○○が謂う クール の意味 全然分らなかったのである。

「 あれが クール なんか? 」
私の前では、自己主張もしない、いつもヘラヘラ笑っているあいつが
女子生徒に 何故もてるのか
不思議でならなかった。

「 俺は男 」 と
女 には優しい
男の中の男に成りたい
そう想っていた 私

而して
女心を分らない


昭和44年 3年5 組 ( 男子のみ )  石田が在る    服部が在る    友ガキ・舟木が在る  私も在る  佐藤が在る  ○○〇が好きだと云うヤツが在る  tei が在る

而今
未だに分らない
私である

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『 心を合わせる ということ 』 とは

2021年04月17日 04時39分00秒 | 3 青い鳥 1967年~

「 楽譜通りに歌おう 」
一人の男子生徒 が、そう発言した。
クラスの皆はうなづいた。
合唱コンクールの練習中のことである。


昭和43年 ( 1968年 ) 6月1日  石舞台古墳

昭和43年 ( 1968年 ) 6月19日に、
学年別・クラス対抗の合唱コンクールが行われることに成った。

課題は無く、曲目も 各ゝクラスの生徒の自主に任された。
吾々のクラス ( 2年4組 ) 、皆でワイワイ・・謂いながらも、
グループサウンズ 全盛の時。
ザ・テンプターズが歌う 『 神様おねがい 』 で、いこうと謂う事に成った。
「 ♪ アーアッアンアー、神様 おねがいだ・・僕のあの人にあいたいのさ  」
男子生徒は バス と テノール ( 私はテノール )
女子生徒は ソプラノ と アルト
普段から音楽の時間、このパーツに別れて歌っている。
音楽の先生が、一生懸命に教え込んだ成果だと想う。
吾々生徒も、素直に真面目に教えを受けた。
昭和43年 (1968年 ) の、中学2年生は純粋であった。
「 3度上げて歌えばエエンヤ 」
・・・そう言いながら、皆で歌ったのである。
しかし、合唱する程に、曲に違和感を感じたのである。

「 ちょっと、おかしいな 」
「 あかんで 」
「 この曲、合唱には向かんな 」

結局、思い切って、曲目を変えようと謂うことに成ったのである。
いろんな意見が出た。
そして、
「 野ばら 」  に、決まったのである。
これで、皆の気持が一つに成った。
誰もが、一生懸命に成ったのだ。


          ・・・・楽譜 イメージサンプル・・・ネット上から転載

そして、合唱した。
然し、唄ってみて つまらない
「 なんとなく ダラダラしてるぞ 」
「 何か、物足りんな 」
「 メリハリがないな 」
・・・と、そんな意見が出る中。

 

 


男子生徒・マヒ (山本)
「 ここは、< ( クレッシェンド )、だんだん大きく成る・・やで 」
「 楽譜通り に 歌おう 」

彼が、そう発言したのである。
皆はうなづいた。
そして、クレッシェンド してみた。
果たしてそれは、
私にでも、はっきり違いが分る程に、素晴らしかったのである。

この クレッシェンド が 決め手に成った。
7クラスある 学年対抗合唱コンクール、吾々は優勝したのである

「 優勝 」
クラスの全員で得た、勲章である。


フライング
音楽科研究指定校であった淀川中学校、
その最終研究発表会を開催することに成った。
吾々 ( 三年生全員 ) が、
大阪市立中学の音楽科教師全員の前で、合唱するのである。
それは、11月6日に催された。

錚々たる面々を前に
披露した曲は 「 五木の子守唄 」
女子生徒が先行しての歌い出し、男子生徒は後から混声して行く
そういう構成であった。

どんなに歌ったかは
記憶に残っていない・・が
こともあらうに
私一人
フライング してしまったのである。
誰もミスらなかったと言うのに。

 
小柄でポッチャリしも 
美人の松尾明子先生

合唱し終えた吾々を迎えた音楽の松尾先生。
ニコニコして
「 花田君、間違ったわね、でも、立派だったわよ 」
と、私の後の態度が善かったと誉めて呉れたのである。
そして
皆に
「 良かったわよ 」 
と、満足そうであった。

私のミスを咎める者ななぞ誰一人居なかった。
歌い終えたという満足感と安堵感が、優ったのかも知れない。
しかし、それだけではない
心を一にしたという連帯感が皆の心を大きくしたのだと想う。

心を合わせると謂うこと とは そう謂うことだと
私は想うのである。

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置き碁・風鈴 「 もう、やめじゃあ 」

2021年04月11日 20時06分26秒 | 3 青い鳥 1967年~


置き碁 星目・風鈴

囲碁との出逢い
昭和43年秋
久田さんが 家に訪れた。
私の部屋に入ると、
「 花田君、今度の試験 ( 中間テスト ) の答案用紙、見せてミィ 」
「 ・・・・ 」
「 勉強、教えて上げるから、家においで 」
と謂うことで、
勉強を見て貰うことになったのである。
・・リンク→蛙の子は蛙
その時、
「 数学の勉強に役立つから 」 ・・と、
勉強の一環として将棋と囲碁も することになった。
将棋は小学校6年2組では、 「 クラスの王将 」 の私。 ・・・リンク→君は王将だ !!
当時の子供なら たいていは  「 挟み将棋 」、 「 五目並べ 」 を、知っていた。
見様見真似でもって将棋を指せる者もいたのである。 私もその一人であった。
然し、囲碁は初めてぞ知るものであった。

囲碁の本因坊、『 坂田栄男 』 の名を知っていた私、興味はあった。
将棋とは違った なにかしらん ステータスを感じた私、やってみる気になった。
勉強の合間に、囲碁を習うことになったのである。
   
風鈴                             星目                        6 目
師匠・久田さんから、先ず 囲碁のイロハを習った。
その後、最初は置き碁 ・風鈴から対局を始めたのである。
然し、これだけ石を置いているのに勝てない。 どうしても勝てない。
巧く説明はできないが、
置き碁の 『 置石 』 ・・は、単なるハンディキャップではない。
子供に下駄を履かしても、所詮子供は子供、大人にはなれない。
石を置いたからと謂って それで 対等で互角になる ・・ものではないのである。
将棋の 『 飛車角抜き 』、『 歩三 』 ・・等、コマ落ちで 対局した経験のある私。
「 こうすれば、勝てる 」 ・・・と謂う、手筋を覚える のにさほどの時間はかからなかった。
ところが 囲碁は違った。 中々手筋 を覚えられない。 ( 折角、教わった手筋を打っても、別の手筋で攻めてくるのである )
圧倒的な力量の差がある上手 うわて が、未熟な下手 したて の心裡を読み、
互角の力量なら当然打たない手も、平然と打ってくるのである。
私が 迷ったあげく打った一手を いとも簡単に打ち返す。
「 アッ、そうなんや 」
打ち返されて初めて その一手が悪手だと気づくのだから、何をか況やである。
囲う つもりが、囲われて・・・
一生懸命頭を絞って 考えて打った 折角の黒石を ゴッソリ 取られてしまうのである。
「 クソーッ 」 ・・・もう、悔しい。 腹も立つ。 泣きたい気分にもなる。
上手にしたら  もう、『 子供の手を捻る 』 みたいなもの。
否、子供の手を捻るのだ。 もう遣りたい放題だ。 而もコテンパンにやっつけられる。
基本が解らない私、対戦しみて、痛い目にあって、そして悔しい想いをして、覚えてゆく。
理屈が解らない私、対戦をとおして理屈を躰に沁み込ませる。
覚える ・・・とは、そう謂うことである。

そのうち、星目になった。
ここからは、二連勝したら一目 ( 1 石 ) 減らす。
翌年の春までの半年の間に、7石まで上達した。
「 あの頃、アマの二段だった 」 ・・・後に、久田さんがそう語っていたから、
たぶん、アマ ・ 8級程度の実力だった ・・・哉。( 自分で勝手にそう決めつけている )


友ガキ・舟木 との 囲碁対局
昭和44年 ( 1969年 ) 4月
久田さんが大学を卒業して、大阪を離れた。
中学三年生になった。
私は、独学、『 ガリ勉 』 を始めたのである。 ・・・リンク→がり勉
そして、友ガキ・舟木と 再び同じクラスになった。
之を機に、一度遠のいた彼の足音が 再び 勢いを増して響くようになった。
そしてそれは、頻繁になっていったのである。

折角習った囲碁、このまま捨てられるものか。
と謂って、私の周りには 囲碁の出来る者なぞ居ない。
そこで私は、友ガキ・舟木に目をつけた。
「 あいつに、囲碁を教えよう 」
囲碁を 彼との遊びの 一道具にしよう。・・・と、そう考えた。
そもそも 友ガキ・舟木 との なり染は、
昭和40年 ( 1965年 ) 小学5年2組 同じクラスになったこと。
「 俺も将棋を指せる 」 と、対戦したことから始まる。
これまで、野球等の 外もの には興味を示さない彼も、こうした 内もの には 興味を示して来た。
友ガキ・舟木に 囲碁を誘うと、思った通り 二つ返事で応じた。
『 前に倣え 』
私は、師匠・久田さんから習ったとおりを彼に伝えた。
「 囲碁を打つ 」
・・・さぞや面白かったのであらう、
彼も亦、囲碁にハマっていったのである。

友ガキ・舟木 と 私
囲碁の対局

いつものパターン
上手の私が、容赦なく責め立てる。
下手の友ガキ・舟木が、 オドオドしながら 受ける。
この関係、そのまま 私と師匠・久田さんの関係を置き換えたもの。
全くのコピーである。
誰しも負けたくはないもの。勝ちたいものである。
「 クソーッ 」 ・・・もう、悔しい。 腹も立つ。 泣きたい気分にもなる。
折角の打った 那智黒 を ゴッソリ 取られてしまって、ふてくされた舟木、
「 もう、やめじゃあ 」
・・・と、席を蹴って帰って行くのである。
然し
懲りずに、
又 やって来た。

他愛もない、
取るに足らない
大切な時間である。

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余計な一言

2021年03月23日 05時18分31秒 | 3 青い鳥 1967年~

昭和44年(1969年)、中学3年生の新学期
愈々来年は高校受験
いざ、頑張らねば
決意新たに新学期を迎えた。
然し、とは雖も
なんたって無垢な14歳。
世の動きには疎いは仕方なきや
大学紛争の風が吹荒れ、世の中が騒然としているに
何処吹く風か・・と、ばかり、
昨日と同じ今日の日を送っていたのである。
此を のんびり と謂うや。


三島由紀夫と東大全共闘
昭和44年 ( 1969年 ) 5月13日(金)

無垢な私、斯の事全く知らない


昭和44年 ( 1969年 )、3年5組
新学期恒例、数名の教師が入れ替わった。
その一人に図体のでかい巨顔の男性教師がいた。
吾々は さっそく 「 塗り壁 」 と、綽名した。

 (ゲゲゲの鬼太郎から)

午後の授業は自習時間、
ピンチヒッターとして現れたは 「 塗り壁 」 先生。
この時、その 「 塗り壁 」 先生が一席ぶった。
府研テストも市研テストもワースト10・・・
我が中学校の学力の低さに驚愕し、さぞかし嘆いた。 ・・・と。
大阪市の北の外れ、淀川の傍、のんびりした自然環境で以て、
而も 幼稚園から中学校までずっと同じ顔ぶれの幼馴染ばかり、
刺激も緊張もない。
そんなのんびりした環境にとっぷり漬かっている。
これでは、切磋琢磨、競争しようと謂う気概なぞ生まれよう筈もなかろうに ・・・と。
冗談をまじえて、面白可笑しく語る。
勿論、吾々の将来を憂いての発言である。
面白可笑しく語るは、彼一流の表現なのであらう
・・・と、吾々はそう想った。
だから、
最初のうちは愛想笑いで以て聞いていたのである。

そこに ジャストタイミング
「 コケコッコーーーー 」
・・・と、すっとんきょうな鶏の鳴き声。
此に 「 塗り壁 」 先生が反応した。
「 コケコッコーーーー 」
「 昼間や謂うのに・・・鶏までのんびりしとる 」 ・・・と。

笑いを取ろうとしての一言。
然し、斯の一言の底地に、
人として冷たいものを、私は感じ取って仕舞ったのである。
真に吾々の将来を憂いているならば、
「 そんな言い方は ないと想う 」
・・・と、憾みを懐かせるような、
そんなモノの言い方は出来まい。
「 そこまで馬鹿にするな、さげすむな 」 ・・・と、そう想った。
クラスの皆も同じ想いであったらう。
然し、誰一人反駁する者はいなかった。
私を含めて・・・

余計な一言であった。
其により
、彼の想いは 吾々の心に響かなかった。
そして、信頼関係は築けなかった。 ・・・の だ か ら

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「 茶目っ気 」・・・勢い余って

2020年10月02日 20時20分12秒 | 3 青い鳥 1967年~


岡田宏明先生、
国語の先生である。
笑うと財津一郎に似た面立ちであった。

    女子二列、右から二人目 「 アッチャン 」
昭和44年 ( 1969年 ) 春、
国語の時間の突端、
如何いう理由で、話が移っていったかは分からないが、
先生、授業とは関係のない、自分の中学生の頃の体験談を持ち出した。
「 男児は元気がなければいかん 」
「 我々の中学生の頃は、随分 いたずら も したもんだ 」
「 吾々の時代はそうだった 」
想い出を懐かしむが如く 吾々に語って聞かせたのである。
そして、
「 男は、少々 ヤンチャなくらいがいい 」
と 勢い、つい 口を滑らせた。

あなたの その一言が余計であった・・・

せこかった、茶目っ気
「 なるほど 」
と、先生の言葉に乗っかって茶目っ気を出した。
クラスの男子生徒、俄然張り切ったのだ。
もう、元気溌溂オロナミンC だ。ファイトで行こう リポビタンD だ。
毛虫を手に、数人の女子生徒を追い回したのだ。
「 キャッ 」
と、応じて逃げ廻る、女子生徒。
『 女子にうけている 』 ・・と、そう勘違いした男子。
いつの世も同じである。男は子供なのである。
私は、騒動の圏外に在た。 そして それを傍観していた。
「 どっちもどっち、 戯れているだけ」
石田を先頭に、はしゃいでいる男女をそんな風に見ていたのである。

よくある話じゃないか。

ところがである。
ここまでなら茶目っ気で済んだのに。
男子、明らかに調子にのってしまった。
そして、勢い余って暴走してしまった。

『 毛虫アレルギー 』、
そんなもんがあるなんて知る由もない。

偶々、捕まった女子
「 アッチャン 」 と、皆から呼ばれる 女子生徒であった。
「 キヤッァー 」
悲鳴が上がった。
セーラー服の襟首から毛虫を入れたのだ。
この事、小児病的と言うな。
小学生であろうが、高校生であろうが、否、大人であろうが、やる事に変わりは無い。
男とはそういうものなのである。
女の関心を惹こうとするは男の性 さが 、亦、それに応えるは女の性 さが と、謂うもの。
「 アハハハハ・・・」
男子、皆で高笑いしたところで一件落着・・・・そう想った。
しかし、そうは問屋が卸さなかった。
男子の思惑どおりには、ならなかったのである。
毛虫を入れてサア大変。
気の毒なのは、被害にあった 「 アッチャン 」 だ。
彼女は 毛虫の毛 『 アレルギー 』 が あったとかで、大ごとになってしまったのだから。

明くる日、
「 俺は、少々ヤンチャなくらい・・と云うたが、そこまでやれとは云わなかったぞ 」
先生、戸惑い顔で、そう言った。

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先生の親心

2020年09月24日 20時10分10秒 | 3 青い鳥 1967年~



昭和43年 ( 1968年 )、
中学一年生三学期のこと。

ホームルームの時間。
教壇に立った
担任の丸山博先生、
いきなり
「 今度のテスト、花田が このクラスの男子の中で成績が一番良かった 」
学期毎に行われる実力テストの結果を、そう告げたのである。
クラスの皆からドヨメキに近い声が上がった。
これまで パッとしなかった私に、光が当たった瞬間である。

これを契機にクラスの皆の私に対する視線が変った。
殊にクラスの才女・善峰さんが、時々 声をかけて呉れるようになったのである。
成績が上がると謂うことは、そういうことなのである。

                                                                                                                             ↑善峰さん  
昭和43年 ( 1968年 )、
中学二年生の二学期のこと。

中間テストが終って、次はその成績発表、
試験の成果が問われる時である。

社会科の時間。
採点したテストの束を抱えて横山先生が教室に入って来た。
突端に教卓の前に立ち、何を想ったか先生、
「 今回のテストで90点以上取った者は、誰と誰々・・・ 」
と、今回に限って 名前を挙げたのである。
その中に、私の名前もあった。
引き続いて、一人一人名前を呼びながらテストを還してゆく。
私も名前を呼ばれて、テストを受取った。

テストは、得意な日本史と比べると、苦手な世界史であった。
どうも私は視野が狭いようで、世界に目を向ける余裕がなかったのである。
苦手だからと、言い訳にもならないが、
難解で、解答欄に何も記入できず、白紙として提出した部分があった。
だから、テストが終わった時点で、高得点は望めまいと、早々はやばやと 諦めていたのである。
そんなこともあって、
「 おかしいな、そんな筈はないやろ 」
・・と、首を傾かしげつつ 席に向かったのである。
その時、90点以上の一人である才女・善峰さんと 偶々目が合った。
一年生の時同じクラスだった彼女、二年生も同じクラスだったのである。
彼女は微笑んで応えてくれた。

席について、確めてみると、一目ひとめで謎が解けた。
白紙の解答欄のその部分。
その部分に限って、 とも × とも、なんにも 記しるされていないのだ。
而も、採点の仕方を、点の加点方式にせず、
『  ( 100点満点 ) - ( ×点の合計 ) = 94点 』  ・・×点の減点方式としていたのである。
白紙解答は当然 ×点となる。 それが勘定されていなかったのだ
私は、直ちに席を発ち、教壇の先生に、その旨を報告した。
すると先生、
「 もう、94点 と 発表してしまった。
だから君が、本当は86点でした と 言って、皆にあやまりなさい 」
と、とんでもない発言。
「 エッ、俺が云うんかい ? 」
・・・そう、心で呟いた。


昭和44年 ( 1969年 )、
中学三年生の二学期のこと。
中間テストが終わった翌日の英語の時間。
森洋一先生、
採点したテストの束を抱えて教室に入って来た。
英語のテストは昨日終ったばかりである。
「 もう、採点してくれたんか 」
・・・そう想った。 クラスの皆も同じ想いであった。
「 君らが、必死にやったんやから 」
生徒が必死に頑張ったのに、それに応えてやらねば如何する。
そう、云うのである。

還ってきたテストを受取ると席に着いた。
そして、ひととおり確認した。
すると、一問だけではあるけれど、
明らかに間違っているのに とされている部分を見つけたのである。
先生にその旨を告げると、
森洋一先生、
「 そりゃ すまなかった。わるかったな。 よく知らせて呉れたな 」
緊張した面持ちで、自分の採点ミスを詫びた。
そして、私の正直と その勇気を誉めてくれたのである。
「 かわいそうなことをした 」
そう、言い以て、
マイナス3点、  80点から77点に書き変えたのである。

  
昭和42年~44年は、もう・・50年以上も昔のことである。
当時、「 青春とは何だ 」 「 これが青春だ 」 「 でっかい青春 」 等の青春ドラマが、
テレビで放映され、高視聴率をあげた。 当然乍ら私も視ていた。
そこに描かれる教師像は、どれも生徒にとって 『 兄貴 』 だった。
NHKの 「 中学生群像 」 や、「 中学生日記 」 に於ても、それは同じであった。
それが時代の潮流だったのである。
当時の私は、テレビの中の そんな教師像に頗る不満であった。
 
坂上二郎の学校の先生
私の好きな学校の先生が茲に謳われている。


一年の担任・丸山先生の発言、
発表したことを励みとして、更に一段、頑張る様にとの想いを込めたもの。
二年の横山先生のとんでもない発言も、本を正せば 同じ想いから出たもの。
三年の森先生の発言も亦然りである。
是、みな親心
・・と、
私は、
そう想っている。

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3 青い鳥 昭和42年(1967年)~昭和44年(1969年)

2017年12月16日 16時54分14秒 | 3 青い鳥 1967年~

青い鳥
昭和42年(1967年)~昭和44年(1969年)
中学生時代を物語る

淀川中学2年4組 男女共々 各々 それぞれに とにかく 仲の良かった クラス であった
目次
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昭和42年(1967年)4月~昭和43年(1968年)3月・中学一年生・13才
あしたのジョー ・・・時代の記憶が定かでない
ファイティング原田を代表とする、フライ、バンタム級の軽量級しか知らなかった私
ヘビー級ボクシングの凄さを知った
そして 「ヘビー級は凄い」 と、感動したのである
ラジオ体操 第二
「ラジオ体操第二を次の授業までに覚えて来る様に」
「えーっ!」
誰もが、ラジオ体操第一 までしか 知らない

「ラジオ体操第二、教えて上げよう」
三年生であった
ヒーローに、成った
脇役だった一年生
「花田も都島球技大会に出たなぁ」 と、諏訪
守備の人 として、三塁手 として、選手に選ばれた
「都島球技大会・代表メンバー」 として、顔は立てて呉れたものの

切身の塩サバ 一つ
通常の弁当箱+オカズ入れ小箱、更に味付海苔一束
「オッ、ハナダ今日は豪勢やな」
私もそう想った

ひとの心懐にあるもの
よだかの星 (読書感想文)
よだかが身にくく、弱いために他の鳥からきらわれ、ばかにされる。
もしよだかが強かったらどうだろう。
「おかあちゃん、この漫才おもしろいで」
夕食の支度をしていた母に、そう叫んだのである
それはもう、おもしろかった

まんまんちゃん あん
昭和43年(1968年) メキシコオリンピック
日本チームは銅メダルを獲得した
そして 釜本は得点王に輝き、「世界の釜本」と、賞賛されたのである
スポーツと謂えば 野球の頃
「サッカー」
新しいファッション としての スポーツ・・・と
中学生の吾々は、そう認知した のである

ブルー シャトー
タカタカタカタカタン♪
ドラムのスティック を、持ち出して机を叩き始めた

教師の驕り 人としての格
女子の目前にさらされた男子の心を慮ることも無く
己が神聖なる授業を妨害したとして、その罰として、衆目にさらしたのである
こともあらうに、さらし者 にしたのである
禁じられた遊び
逃げ惑う親子連れ
戦闘機は、彼等を狙って容赦はしない
戦争とはなんと惨たらしいものなのか
撃ちおろされた弾が、逃げる親子の後ろから追いかけてくる
「殺られる」
二十四の瞳 花の絵
「お母さん、百合の花の弁当箱、ほんまに買うてよ。 いつ買うてくれるん?」
記憶して、忘れられないフレーズである
どうしても、残しておきたい
残さずにはいられないのである

昭和43年(1968年)4月~昭和44年(1969年)3月・中学二年生・14才

ヒーローに、成った
一躍、ヒーローになった二年生
この試合、私は
4打数4安打、3ホームラン、1三塁打、11打点
それはもう、大活躍であった
・・打って更に良し
「花田 単りにやられた」・・コールド負けした6組の岩出
「あいつがおれへんかったら・・勝ってたんや」 と、負け惜しんだ

ちょっと、つまづいただけの物語
途中
巾1メートル程のクリークに架かる床を丸太で組んだ木橋に差しかかった
駈足で上る私は、偶々 そこで つまづいた
ところが
丁度そこに降りてきた女子生徒○○弘子さん
(中一の時の同級生)
木橋に差しかかった時
偶々、全く同じタイミングで、つまづいたのである
「アッ !」
ぶつかる・・・

長島茂雄 感動のホームラン
昭和43年(1968年)9月18日・阪神タイガース戦
阪神の投手「バッキー」が、「王」 に危険球を投げた
この事が発端で、 巨人の荒川コーチがマウンドに駆け寄る
バッキーが応戦してパンチを撃つ・・・

not only but also
「英文を訳せよ」 と、教師・森先生
「ちよっと違う」 と、クラスの秀才・橋本がそう洩らすように言った
メキシコ五輪 『ボールに乗った少年』 橋本  鉄人・吉田

青 い 鳥
私は彼女と席を並べることが出来る・・
「ワーッ」
クラスの皆が歓声を上げた
私は席を移動しようとしていた隣の女子を制してしまった

小さな幸せを・・
「花田君、黒板見る振りして、キーコ 見てやる!」
仕合せな時間は、長くは続かなかった
選りにも選って
告白の時、彼女が 「OOOやろ」
と、言った OOOが 皆の前でそう告げたのである
「私、知っているよ」 と、彼女
それ以来
私は、カナシバリにあったが如く 黒板上の額に目を向ける事ができなくなった
もう 青い鳥 を 見ることが できなくなったのである
OOO ・・おまえの所為やぞ

心を合わせるということ とは
「楽譜通りに歌おう」
一人の男子生徒が、そう発言した
クラスの皆はうなづいた
合唱コンクールの練習中のことである
 
合唱し終えた吾々を迎えた音楽の松尾先生
ニコニコして
「花田君、間違ったわね、でも、立派だったわよ」
と、私の後の態度が善かったと誉めて呉れたのである
そして皆に
「良かったわよ」 と、満足そうであった
なんやお前、教科書忘れたんと違うんか
「柿、うまそうやな」
「ん・・・」
昭和43年(1968年) 二学期
授業中、二人して窓の外に目を遣れば
朱く熟した実をつける柿木が見える
秋・・哉

・・・・と
肩を並べて二人、良い雰囲気であった

昭和44年(1969年)4月~昭和45年(1970年)3月・中学三年生・15才
ヒーローに、成った
優勝候補に成った三年生 青い鳥の眼前で・・・
私は三塁を守っている
私と差向えに 2組を 応援する彼女の姿があった
バレーボールの選手の筈、競技が終わってのギャラリーなのか
それとも、競技の合間か、いずれにしても
「青い鳥が見ている」
そんな時に 限って亦
私に打球が転がって来る
クールなアイドル
○○○ が、私と同じクラスの男子を好きだと云う
「なんで、あいつやねん?」
がり勉
頭の中は、受験モード に成ってゆく
家での 独学 は、もちろんのこと
45分の授業が終わると、次の授業までの 10分の休憩時間
昼食後の昼休み、と
参考書・グリップ、を読み、問題集・アタック、を解いた

余計な一言
その一言、聞捨てならぬ

昭和44年(1969年)、中学3年生
新学期の恒例、数名の教師が入れ替わって
その一人に図体のでかい巨顔の男性教師がいて、
吾々は さっそく 「塗り壁」 と、綽名した
 (ゲゲゲの鬼太郎から)
或日午後の授業は自習時間、ピンチヒッターとして現れた「塗り壁」先生
その「塗り壁」先生が一席ぶった

想い出したくとも、想い出せなき記憶 観音様です、おつ母さん
浅草寺観光の後、確かに夕食はとった
然し
浅草寺・斯の煙り、(写真の様に) 私も冠った筈であらうに
そして、観音様にお参りしたであらうに・・・完全にワープしているのである

「カーディガン」の想い出
吾々は解放感の中に居た
各々 自由行動を取って 修学旅行を漫喫している
私は 一人の女子 と 差向い
気分は 二人の世界 で あった
彼女のカーディガン を着て すっかりご満悦、淡い雰囲気に浸っていた のである
 イメージ カーディガ ン
折角の恋心
 昭和44年(1969年)4月の新学期に臨み
愈々、来年は高校受験
脇目も振らず勉強に打込もう・・そう決心したのである
そして、頭を受験モードに切り替えた
『恋なぞしない』・・・と

淀川堤で待つ吾々のもとへ現われたは、なんと カーディガン ○○○ 
それは ちがうやろ
翌日、突端の授業(英語の時間)、教師(男性)がクラスの皆に尋ねた
「昨日の演奏会に行って皆はどう思ったのか・・」
学年成績トップの男子生徒が手を挙げて、意見を述べた
要約すると
大阪中の三年生が一同に集まった光景を目の当りにして
そのスケールの大きさに、自分は思うところがあった
自分は 「井の中の蛙」 だと思った
今の成績に満足せず、もっと頑張らなくてはと思った
教師は、良い意見である と、誉めたのである
「それは違うヤロ・・」
虹のまち 「 ばら色の瞬間(とき)」
昭和44年(1969年)11月30日
大阪梅田の阪急三番街がオープンした
「地下街に川が流れてるんやぞ」
「ほんまかいや、すごいなァ」
「こいつ、アホやで、川の中のコイン、拾らおうとしてんねん」
「ちがう、ちがう、手伸ばしただけや」
「ウソォつけ!」
「ウソやない、ほんまやて」

文学少女にはなれなかった
「アハハッ」・・ともがき・舟木 が、笑い出した
「どうした、何がおかしいんヤ?」
「さっきから、そこばっかり、何遍も呼んでいる」

青い鳥が残したもの
私の夢は大きかったよ
でも、それは二年の終わりに消えたのよ
こたえるなあ 勉強しなかったの
でも 楽しかったわ ○○さん
・・・青い鳥 のもの
私が記憶する文章である

一緒に行ったろかぁ
「あの先生、いかりや長介に似てる」・・と、面接官を指して母が言う
清風高校、親子面接での待ち時間中のこと
私の緊張を解す為・・にと、吾母の気遣いである

傍で話を聞いていた、同級生 tei
「一緒に行ったろかぁ」 と、手を差し伸べて呉れたのである
よくよく、しょげている私を 見るに見かねてのこと
嗚呼、神様 仏様、tei 様

生涯最高のスコア・・・
「律子さん 律子さん 爽やか 律子さん」
吾々の世代なら、誰もが知っている
女子プロボーラー・中山律子
花王フェザーシャンプー(昭和47年)のTV・CMである

進路相談
石橋を叩いて渡れ・・とな
これはもう、相談でなく、勧告である
私としたら
冒険、チャレンジ・・と、謂う認識は無かった
有るは、どうしても行きたい・・と、謂う願望、夢であった
私は、合格の確立を訊ねた
確立は半々だという
「全くの、五分・五分ですか?」 
「5.5の方ですか、4.5の方ですか?」
・・・
先生、答えなかった

クラスメイトの女子生徒・福本サン
美人で 爽やかな人であった
順番待ちをしている二人
どちらかとなく、喋りだしたことから ちょっとした物語と発展した
革命児達
更に、大阪の時の勢いは異端児 を産んだ
天才 月亭可朝 の登場である
彼の笑いはシャレていた
「中学生ふぜいに、簡単には笑わさへんで」 ・・と
どや・・・粋ななぁ  シャレてるやろ・・と
 

一寸した油断から魔が差す
「落ちろ・・」
本当に落ちてしまった

私は
「落ちろ・・・」と、言って、友がき・坂尾の背を押した
勿論の事、冗談である
が・・
友がき・坂尾、プラットホームから線路に落ちてしまったのである
普段、プラットホームと線路の高さは見ている
だから、直ぐに上がって来れるものと想っていた
彼もそう想ったにちがいない
ホームに入って来る電車に気付くまでは

次頁
4 力みちてり 昭和45年(1970年)~昭和47年(1972年)

に続く

コメント

ひとの心懐にあるもの

2017年07月08日 21時51分01秒 | 3 青い鳥 1967年~

読だかの星を読んで  花田幸徳
宮沢賢治 「よだかの星」 を読んで僕は、
この文が人間の世界のきたなく悪い所を、鳥の世界にしたのだと思った。
よだかが身にくく、弱いために他の鳥からきらわれ、ばかにされる。
もしよだかが強かったらどうだろう。
ここを人間世界にたとえてみると、一人の貧しい家の子が遊ぼうと思って外に出た。
でも家が貧しいだけに他の子どもに相手にされない。
それどころか悪口をいわれたりする。
もし子どもが遊ぼうとしてもその子の親がとめて遊ばせないこれと同じだと思う。
よだかがみにくく生まれたために、その子が貧しい家に生まれたためにああなるのだろう。
鳥達はたかにはぺこぺこして名を聞くだけでもおそれたそれはたかが強いからであったのだ。
ちょうど、たかが会社の社長で鳥達が社員、よだかがその下ではたらくといったようだ。
よだかが自殺する、もし他の鳥がと僕は思う。
・・・全文、原文の侭掲載

    

中学一年生(13才)
国語の授業の課題として作成したる文集
個人文集 「 鷹 」
に編集した読書感想文である。

中一としては、少々幼稚なる感想文なる
然し、これが
広島の片田舎から大都会大阪に移住して来て
居住地域に於いても、学校のクラスに於いても
なかなか、仲間に入れて貰えない・・・
そんな境遇から、少年の心懐に宿った コンプレツクス
そうした背景の少年が読んだもの・・・そう理解すると
上記の少年の感想文への評価も少しは変ろうか

読書とは
読書感想は、あくまで一個のオリジナルな想いであって
普遍の想いなぞ、あり得ない
敢えて言う
著者が何を言いたいかを読むのではなく
読みし者が、著書を通して如何に己が想いを読み取るかである。
読書とは、斯の如きもの
それでいい・・と
私は、そう想う

 
機は熟してなかった
昭和42年(1967年)
中学に進級した
中学生とも成ると、さすが 「ポスト大人」
文庫本を手にする・・は、ファッション であった
クラスの女子生徒は皆、読書していると言う
一級上の友がき・坂尾までも、文庫本を手にしている
彼は、「ゲーテ詩集」 を、読んでいると
文庫本そのものの存在をも知らなかった私であるが
友がき・坂尾から、「ゲーテ詩集」を借りて読んだことが 始めの一歩 であった
「服が欲しい」・・と謂ったら、「学生服がある」・・と謂う親父も
事、勉強の為と謂えば金を出して呉れた
大東商店街の 永田書店、和田広文堂で品定めし購入したるは
「リルケ詩集」 「北原白秋」 「島崎藤村」 ・・・と、読んではみた
然し
読んではみたものの何ひとつ、実につかなかった
13才の私
本を読む までに、とうてい至ってなかったのである
リンク→文学少女には成れなかった


よだかの星   宮沢賢治
よだかは、実にみにくい鳥です。

顔は、ところどころ、味噌をつけたようにまだらで、くちばしは、ひらたくて、耳までさけています。
足は、まるでよぼよぼで、一間(いっけん)とも歩けません。
ほかの鳥は、もう、よだかの顔を見ただけでも、いやになってしまうという工合(ぐあい)でした。
たとえば、ひばりも、あまり美しい鳥ではありませんが、よだかよりは、ずっと上だと思っていましたので、
夕方など、よだかにあうと、さもさもいやそうに、しんねりと目をつぶりながら、首をそっ方(ぽ)へ向けるのでした。
もっとちいさなおしゃべりの鳥などは、いつでもよだかのまっこうから悪口をしました。
「ヘン。又出て来たね。まあ、あのざまをごらん。ほんとうに、鳥の仲間のつらよごしだよ。」
「ね、まあ、あのくちのおおきいことさ。きっと、かえるの親類か何かなんだよ。」
こんな調子です。
よだかでないただのたかならば、こんな生はんかのちいさい鳥は、
もう名前を聞いただけでも、ぶるぶるふるえて、顔色を変えて、からだをちぢめて、木の葉のかげにでもかくれたでしょう。
ところがよだかは、ほんとうは鷹の兄弟でも親類でもありませんでした。
かえって、よだかは、あの美しいかわせみや、鳥の中の宝石のような蜂雀の兄さんでした。
蜂雀は花の蜜をたべ、かわせみはお魚を食べ、夜だかは羽虫をとってたべるのでした。
それによだかには、するどい爪もするどいくちばしもありませんでしたから、
どんなに弱い鳥でも、よだかをこわがる筈はなかったのです。
それなら、たかという名のついたことは不思議なようですが、これは、一つはよだかのはねが無暗(むやみ)に強くて、
風を切って翔(か)けるときなどは、まるで鷹のように見えたことと、
も一つはなきごえがするどくて、やはりどこか鷹に似ていた為です。

もちろん、鷹は、これをひじょうに気にかけて、いやがっていました。
それですから、よだかの顔さえ見ると、肩をいからせて、早く名前をあらためろ、名前をあらためろと、いうのでした。
ある夕方、とうとう、鷹がよだかのうちへやって参りました。
「おい。居るかい。まだお前は名前をかえないのか。
ずいぶんお前も恥知らずだな。
お前とおれでは、よっぽど人格がちがうんだよ。たとえばおれは、青いそらをどこまででも飛んで行く。
おまえは、曇ってうすぐらい日か、夜でなくちゃ、出て来ない。
それから、おれのくちばしやつめを見ろ。そして、よくお前のとくらべて見るがいい。」
「鷹さん。それはあんまり無理です。私の名前は私が勝手につけたのではありません。神さまから下さったのです。」
「いいや。おれの名なら、神さまから貰ったのだと云ってもよかろうが、
お前のは、云わば、おれと夜と、両方から借りてあるんだ。さあ返せ。」
「鷹さん。それは無理です。」
「無理じゃない。おれがいい名を教えてやろう。
市蔵というんだ。市蔵とな。いい名だろう。
そこで、名前を変えるには、改名の披露というものをしないといけない。
いいか。それはな、首へ市蔵と書いたふだをぶらさげて、
私は以来市蔵と申しますと、口上を云って、みんなの所をおじぎしてまわるのだ。」
「そんなことはとても出来ません。」
「いいや。出来る。そうしろ。もしあさっての朝までに、お前がそうしなかったら、もうすぐ、つかみ殺すぞ。
つかみ殺してしまうから、そう思え。おれはあさっての朝早く、鳥のうちを一軒ずつまわって、お前が来たかどうかを聞いてあるく。
一軒でも来なかったという家があったら、もう貴様もその時がおしまいだぞ。」
「だってそれはあんまり無理じゃありませんか。そんなことをする位なら、私はもう死んだ方がましです。今すぐ殺して下さい。」
「まあ、よく、あとで考えてごらん。市蔵なんてそんなにわるい名じゃないよ。」
鷹は大きなはねを一杯にひろげて、自分の巣の方へ飛んで帰って行きました。
よだかは、じっと目をつぶって考えました。
一たい僕は、なぜこうみんなにいやがられるのだろう。
僕の顔は、味噌をつけたようで、口は裂けてるからなあ。
それだって、僕は今まで、なんにも悪いことをしたことがない。
赤ん坊のめじろが巣から落ちていたときは、助けて巣へ連れて行ってやった。
そしたらめじろは、赤ん坊をまるでぬす人からでもとりかえすように僕からひきはなしたんだなあ。
それからひどく僕を笑ったっけ。それにああ、今度は市蔵だなんて、首へふだをかけるなんて、つらいはなしだなあ。
あたりは、もううすくらくなっていました。
夜だかは巣から飛び出しました。
雲が意地悪く光って、低くたれています。
よだかはまるで雲とすれすれになって、音なく空を飛びまわりました。
それからにわかによだかは口を大きくひらいて、はねをまっすぐに張って、まるで矢のようにそらをよこぎりました。
小さな羽虫が幾匹も幾匹もその咽喉(のど)にはいりました。
からだがつちにつくかつかないうちに、よだかはひらりとまたそらへはねあがりました。
もう雲は鼠色(ねずみいろ)になり、向うの山には山焼けの火がまっ赤です。
夜だかが思い切って飛ぶときは、そらがまるで二つに切れたように思われます。
一疋(ぴき)の甲虫が、夜だかの咽喉にはいって、ひどくもがきました。
よだかはすぐそれを呑みこみましたが、その時何だかせなかがぞっとしたように思いました。
雲はもうまっくろく、東の方だけ山やけの火が赤くうつって、恐ろしいようです。
よだかはむねがつかえたように思いながら、又そらへのぼりました。
また一疋の甲虫が、夜だかののどに、はいりました。
そしてまるでよだかの咽喉をひっかいてばたばたしました。
よだかはそれを無理にのみこんでしまいましたが、その時、急に胸がどきっとして、夜だかは大声をあげて泣き出しました。
泣きながらぐるぐるぐるぐる空をめぐったのです。
ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。
そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。
それがこんなにつらいのだ。
ああ、つらい、つらい。
僕はもう虫をたべないで餓(う)えて死のう。
いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。
山焼けの火は、だんだん水のように流れてひろがり、雲も赤く燃えているようです。
よだかはまっすぐに、弟の川せみの所へ飛んで行きました。
きれいな川せみも、丁度起きて遠くの山火事を見ていた所でした。そしてよだかの降りて来たのを見て云いました。
「兄さん。今晩は。何か急のご用ですか。」
「いいや、僕は今度遠い所へ行くからね、その前一寸(ちょっと)お前に遭いに来たよ。」
「兄さん。行っちゃいけませんよ。
蜂雀もあんな遠くにいるんですし、僕ひとりぼっちになってしまうじゃありませんか。」
「それはね。どうも仕方ないのだ。もう今日は何も云わないで呉れ。
そしてお前もね、どうしてもとらなければならない時のほかはいたずらにお魚を取ったりしないようにして呉れ。
ね、さよなら。」
「兄さん。どうしたんです。まあもう一寸お待ちなさい。」
「いや、いつまで居てもおんなじだ。蜂雀へ、あとでよろしく云ってやって呉れ。さよなら。もうあわないよ。さよなら。」
よだかは泣きながら自分のお家(うち)へ帰って参りました。
みじかい夏の夜はもうあけかかっていました。
羊歯(しだ)の葉は、よあけの霧を吸って、青くつめたくゆれました。
よだかは高くきしきしきしと鳴きました。
そして巣の中をきちんとかたづけ、きれいにからだ中のはねや毛をそろえて、また巣から飛び出しました。
霧がはれて、お日さまが丁度東からのぼりました。
夜だかはぐらぐらするほどまぶしいのをこらえて、矢のように、そっちへ飛んで行きました。
「お日さん、お日さん。どうぞ私をあなたの所へ連れてって下さい。
灼(や)けて死んでもかまいません。
私のようなみにくいからだでも灼けるときには小さなひかりを出すでしょう。どうか私を連れてって下さい。」
行っても行っても、お日さまは近くなりませんでした。かえってだんだん小さく遠くなりながらお日さまが云いました。
「お前はよだかだな。なるほど、ずいぶんつらかろう。
今度そらを飛んで、星にそうたのんでごらん。お前はひるの鳥ではないのだからな。」
よだかはおじぎを一つしたと思いましたが、急にぐらぐらしてとうとう野原の草の上に落ちてしまいました。
そしてまるで夢を見ているようでした。
からだがずうっと赤や黄の星のあいだをのぼって行ったり、どこまでも風に飛ばされたり、
又鷹が来てからだをつかんだりしたようでした。
つめたいものがにわかに顔に落ちました。
よだかは眼をひらきました。
一本の若いすすきの葉から露がしたたったのでした。
もうすっかり夜になって、空は青ぐろく、一面の星がまたたいていました。
よだかはそらへ飛びあがりました。
今夜も山やけの火はまっかです。
よだかはその火のかすかな照りと、つめたいほしあかりの中をとびめぐりました。
それからもう一ぺん飛びめぐりました。
そして思い切って西のそらのあの美しいオリオンの星の方に、まっすぐに飛びながら叫びました。
「お星さん。西の青じろいお星さん。どうか私をあなたのところへ連れてって下さい。灼けて死んでもかまいません。」
オリオンは勇ましい歌をつづけながらよだかなどはてんで相手にしませんでした。
よだかは泣きそうになって、よろよろと落ちて、それからやっとふみとまって、もう一ぺんとびめぐりました。
それから、南の大犬座の方へまっすぐに飛びながら叫びました。
「お星さん。南の青いお星さん。どうか私をあなたの所へつれてって下さい。灼けて死んでもかまいません。」
大犬は青や紫)や黄やうつくしくせわしくまたたきながら云いました。
「馬鹿を云うな。おまえなんか一体どんなものだい。たかが鳥じゃないか。
おまえのはねでここまで来るには、億年兆年億兆年だ。」
そしてまた別の方を向きました。
よだかはがっかりして、よろよろ落ちて、それから又二へん飛びめぐりました。
それから又思い切って北の大熊星(おおぐまぼし)の方へまっすぐに飛びながら叫びました。
「北の青いお星さま、あなたの所へどうか私を連れてって下さい。」
大熊星はしずかに云いました。
「余計なことを考えるものではない。少し頭をひやして来なさい。
そう云うときは、氷山の浮(う)いている海の中へ飛び込むか、近くに海がなかったら、
氷をうかべたコップの水の中へ飛び込むのが一等だ。」
よだかはがっかりして、よろよろ落ちて、それから又、四へんそらをめぐりました。
そしてもう一度、東から今のぼった天(あま)の川(がわ)の向う岸の鷲(わし)の星に叫びました。
「東の白いお星さま、どうか私をあなたの所へ連れてって下さい。灼けて死んでもかまいません。」
鷲は大風(おおふう)に云いました。
「いいや、とてもとても、話にも何にもならん。
星になるには、それ相応の身分でなくちゃいかん。又よほど金もいるのだ。」
よだかはもうすっかり力を落してしまって、はねを閉じて、地に落ちて行きました。
そしてもう一尺で地面にその弱い足がつくというとき、よだかは俄(にわ)かにのろしのようにそらへとびあがりました。
そらのなかほどへ来て、よだかはまるで鷲が熊を襲(おそ)うときするように、ぶるっとからだをゆすって毛をさかだてました。
それからキシキシキシキシキシッと高く高く叫びました。
その声はまるで鷹でした。
野原や林にねむっていたほかのとりは、みんな目をさまして、ぶるぶるふるえながら、いぶかしそうにほしぞらを見あげました。
夜だかは、どこまでも、どこまでも、まっすぐに空へのぼって行きました。
もう山焼けの火はたばこの吸殻のくらいにしか見えません。
よだかはのぼってのぼって行きました。
寒さにいきはむねに白く凍(こお)りました。
空気がうすくなった為に、はねをそれはそれはせわしくうごかさなければなりませんでした。
それだのに、ほしの大きさは、さっきと少しも変りません。つくいきはふいごのようです。
寒さや霜がまるで剣のようによだかを刺しました。
よだかははねがすっかりしびれてしまいました。
そしてなみだぐんだ目をあげてもう一ぺんそらを見ました。
そうです。これがよだかの最後でした。
もうよだかは落ちているのか、のぼっているのか、さかさになっているのか、上を向いているのかも、わかりませんでした。
ただこころもちはやすらかに、その血のついた大きなくちばしは、横にまがっては居ましたが、たしかに少しわらって居りました。
それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきました。
そして自分のからだがいま燐(りん)の火のような青い美しい光になって、しずかに燃えているのを見ました。
すぐとなりは、カシオピア座でした。天の川の青じろいひかりが、すぐうしろになっていました。
そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました。
今でもまだ燃えています。

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