昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

修学旅行 2 ・ 希望号 「カーディガン の 想い出 」

2021年06月25日 04時34分03秒 | 3 青い鳥 1967年~

旅行中の 6月12日、二泊目の富士ハイランドホステルでのこと。
就寝まで自由時間、
皆 それぞれ ゲームしたり お喋りしたり と、愉しんでいた。
私は他の男子数人と一緒に、ラジオのプロ野球 ・巨人戦を聞いていた。
そこには、女子の姿もあった。
斯の 『 別品 』 女子である。   (  ・・・リンク→リーダーは、別品 )
『 アタックNO1 鮎原こずえ 』  (  ・・・リンク→東洋の魔女  )
・・・ くらいなら 知っているであろう
と、
そのくらいしか想っていなかった  彼女が、

何と、吾々と伴に プロ野球の実況放送に耳を傾けている。
「 お前、プロ野球 知ってんのんか?」
「 お父さんが、いつも プロ野球 観ているから 」
・・・なんとなく観ているうちに 野球ファンに為ったと云う。
彼女の その 詞 ことば 意外であった。

そして、
長島のファン だと云う。
「 長島少年 」 の私
それはもう、 感動するほど嬉しかった のである。
・・・
修学旅行 1 ・ 消えた記憶 「 観音様です、おっ母さん」
の 続き


復路

昭和44年 ( 1969年 ) 6月 14日 (土)、
3日間の全ての日程を終えた。
復路、大阪へ
吾々を乗せて、修学旅行列車 「 希望号 」
夜の静寂の中を、
つきぬけて
走り抜ける

 類似イメージ
修学旅行列車 「 希望号 」

カーディガン
の 想い出
希望号の車内
三日間を共に過ごした事は、吾々の緊張を解ほぐした。
あっち こっち から、
元気な声 楽しい 笑い声 が聞こえてくる。
吾々は解放感の中に居た。
各々 自由行動を取って 修学旅行を漫喫している。
私は 一人の女子 と 差向い。
気分は 二人の世界 で あった。
彼女のカーディガン を着て すっかりご満悦、淡い雰囲気に浸っていた のである。
ところ そこへ、
車内巡回 の おんなせんせい が 通りがかり    ( ・・・岩崎先生 )
私を見るや
もう、・・・そんなことして 」
と、折角のところ  水をさされてしまった。

夏のこととて、
防寒なぞ考えも及ばなかった。
「 武士は食わねど高楊枝 」 ・・・旅行中ずっと半袖で徹してきた。
富士山五合目でも、夜間でも、肌寒いところ、ずっと辛抱してきた。
然し 帰りの列車
緊張が解れ、亦、開放感も相まって
、つい シャレっ気をおこしたのだ。
「 カーディガン やり過ぎかなぁ 」 とは、想っていた、
されど、これも 修学旅行の想い出 哉。
・・・と、つい ちょっと 羽目を外した のである。
『 別品 』 の、彼女も 同じ想いであったらう。

もうせっかくのところを・・・邪魔をして


「 カーディガン 」
の 想い出
私の 宝 である。
これからの吾が生涯
幾度も 幾度も
くり返しては 想い出すことであらう。

昭和44年 ( 1969年 ) は、遥か遠き日・・なれど
想いは つい昨日の様である。
おんなせんせい
もう、・・・そんなことをして 」
の後に
「 でも、良い想い出になるわね 」
の、もう 一言有らば
もっと 素晴らしい想い出に なったらうに。

もうひとつ
当時、耳にした
「 愛のさざ波 」
・・島倉千代子 (昭和43年)
♪♪
どんなに遠くに 離れていたって
あなたのふるさとは 私ひとりなの
ああ湖に 小舟がただひとつ
いつでもいつでも 思い出してね
くり返すくり返す さざ波のように
さざ波のように
♪♪

聞かば
なぜかしらん
カーディガンの想い出 」
・・・を、想い出す。

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姿 三四郎 「鉄壁の不動心」

2021年06月24日 15時38分50秒 | 2 男前少年 1963年~


映画・姿三四郎 1943年黒澤明監督、藤田進主演

昭和38年 ( 1963年 ) 11月~昭和39年 ( 1964年 ) 5月

午後8時から、8チャンネル ( フジテレビ系列 ) で、
倉丘伸太郎主演のテレビドラマ
「 姿三四郎 」 ・・・を、放映していた。

9才の私は、
毎週欠かさずにこれを見ていたのである。




鉄壁の不動心
雨の中
池に身を沈め、杭にしがみ付く、三四郎。
ヒル に 襲われても、歯をくいしばって頑張る、その姿。
之を 「 鉄壁の不動心 」 と、謂う。
9才の私の脳裡に焼付いたる
一シーン である。
「 これが、修業なのか、自分を磨くということなのか 」
・・・と
それは
少年の心に響いたのである。

姿三四郎・・・村田英雄・唄

人に勝つより  自分に勝てと
言われた言葉が  胸にしむ
つらい修業と  弱音を吐くな
月が笑うぞ  三四郎
二  
花と咲くより  踏まれて生きる
草の心が  俺は好き
好きになっては  いけない恋に
泣けば雨降る  講道館
三  
締めた黒帯  一生かけて
技も捨身の  山あらし
男だったら  やるだけやるさ
それが道だよ  三四郎

♪ つらい修業と弱音を吐くな 月が笑うぞ三四郎 ♪
少年の吾々は、この歌を唄った。
そして誰もが
歌の意味を分っていたのである。

「 卑怯者 」
と 呼ばれることを 恥じた時代
弱きを援け、悪を挫く
・・それが強き者

正々堂々を尊び、卑怯を恥じろ
陰徳あれば、陽報あり
お天道様は見ている
何の為に勝負するかを知らば、その
勝ち方が大切な筈
どう勝つかは、己の人生の表現であらう
だから
「 卑怯なまねはするな 」
・・・
そう、訓えられたのである。
卑怯が罷り通る世の中に、お天道様はいらない 」
・・・

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拾った金を寄付した・・けれど

2021年06月24日 05時28分58秒 | 2 男前少年 1963年~

昭和38年(1963年)の事である。
家の前にある工場の塀 ( コンクリート製の万年塀 ) にボール(軟球)を投げて、一人キャッチボールをしていた。
「 アッ ! 」
はずみでボールが塀の中に入ってしまった。
( 小学校 ) 三年生の私では、2mの塀を乗り越える事は出来ない。
グルッと周って 工場の正門からボールを捜しに・・・
ボールは直ぐに見つかった。
そして、その帰り路、
「 アッ こんなところに・・」
草むらに落ちている女物の財布 ( がまぐち ) を見つけたのである。
財布の中には、百円札3枚と一円玉が数枚入っていた。


お金を拾ったのである。
5円でアイスキャンデーが買えたこの頃、300円は大金であった。
広島から引っ越してきたばかりもあって、警察の在る場所を知らない。
親父と一緒に交番へ行った。
毛馬橋の東詰め、道路の交差点北隅に交番があった。
( 道路巾拡張の際、無くなったが、交番の背後に在った桜の木は、残っていて今でも毎年、花を咲かせている )
交番には警察官が二人居た。
親父は得意になって云った。
「 一円でもお金は、拾ったら警察に届ける様、教育している 」
「 三百円は大金である 」
「 一年経って持ち主が現れなかったら、この三百円は、恵まれない人に、寄付をする 
私は親父の側で聞いていた。
「 寄付をするのか 」


写真 下 当時の毛馬町1丁目  
写真のこちら側に交番が在あった

一年が経った、昭和39年(1964年)
(小学校)4年生の私は、赤川一丁目から市電(路面電車)に乗って、都島本通に向かった。
都島本通に在る、都島警察署に行く為である。
都島本通は、市電の高架線が張り巡らされていて、私にはずいぶん都会に見えた。
その先は、さらに大都会の大阪駅かなァ、・・と、そう想った。

市電を降りて3分、都島警察署に着く。
受付で、「 寄付をするの 
それなら、「あっちで・・」 と言われ、あっちへ
途中、刑事に調書を取られていた、24、5歳の若い女性を見た。
そして、その女性と 偶々 目が合ったのである。
女性は 「 クスッ と笑った 」
「ニャッ」 と 笑ったのかも知れない、「ニコッ」 と微笑んだのかも知れない。
が、しかし・・
私は 「クスッ」 と 笑らわれた様な気がしたのである。

私は
「 拾った三百円と数円 」
恵まれない人に ・・・と、寄付をした。
・・・

帰り
都島本通から市電に乗り、窓を背に腰を掛けた。
座ると
右親指の処に穴のあいた私のクツ
余計に気になった
・・・・・・・・・

昭和39年 ( 1964年 )
東京オリンピックの想い出
 
東京オリンピックの体操競技
初めて知って 「 スゴイ 」 と、
感動した。

「 円谷(ツブラヤ)頑張れ!」
日本中が絶叫した。
私も、母と共に
リアルタイムでこの瞬間を視ていた。
 

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祖父の訓育

2021年06月23日 07時44分51秒 | 5 右翼青年 1974年~


幼年学校当時のもの

河野寿は明治40年 ( 1907年 )月27日、佐世保で生まれた。

父は海軍少将 河野左金太で剛直質実な人柄で、人一倍忠誠心の強い軍人であった。
寿が小学校四年の春 (8才か9才) 、熊本の碩台小学校に転入した。
通学早々の三日目のことだった。
寿が編入されたクラスに一きわ身体の大きいいかにも強そうな子がいて、
 教室内ではおとなしいのだが、遊び時間になると滅法に傍若無人ぶりを発揮していた。
どこでもあるように、弱い者をいじめてはお山の大将をきめこんでいる。
転校したての寿には、それがまことに苦々しい光景とうつったらしい。
その日の放課後の帰り道、またその子の乱暴がはじまって、弱い子がいじめられている。
寿は我慢できなくなって、その子供との間にわりこんでいった。

「 よせ ! 」
寿が大きな声で一括したのに、一たんはおどろいたその子も、
それが新入の寿であることを知って、にわかに強気になった。
帰りがけの子供がパラパラと駆けよって、
三人をとりかこむ中で、その餓鬼大将は、
自分より身体も小さく未だ勝手もわかっていない新入生がなぜ自分に抗争をいどむのか
理解できないふうににらみかえしながら、
「 何だ、生意気な 」
と履いていた下駄をすばやく片手握って戦闘姿勢をしめした。
寿は顔面を蒼白にしながら、
「 君、可哀想じゃないか。弱い者いじめはやめ給え 」 と言ったが
「 ドサを使うて何かッ。喰わすっぞ 」 といきなり下駄を振り上げた。
ドサは東京弁の意味で、喰わすっぞとは殴るぞという熊本弁である。
寿の東京言葉は、その子の反感をさらにつのらせたのだろう。
振り上げた下駄が寿の横面に鳴った。
寿は一歩後退すると、
肩からかけた鞄をはずし、そこにさしてあった竹の物差をとって、
ふたたび襲いかかる下駄をはらいのけた。
そして、そのまま竹の物差で相手の眉間をピシャリと打ったのである。
額に手をあてて退るその子の顔に赤い血が走った。
その日の夕方、学校の受持訓導から父へ、学校へ出頭するようにと使いが来た。
学校で一部始終を聞いて帰った父は、座敷に坐ると寿を呼んだ。
どんなに叱られるかと、寿はおずおず父の前に正座した。

「 今日のおまえのしたことを、お父さんは叱るつもりはない。 しかし物差でやったのは悪い。」
父の訓戒はそれだけだった。

そして、それが父だった。

・・私の二・二六事件 河野司 著から リンク→ 河野壽 ・ 父の訓育 「 飛びついて殺せ 」 

昭和49年(1974年)、二十歳の私が出遭ったもの
「 やるなら拳骨でやるんだ 」

正々堂々を信条に、卑怯な真似はするな
此が祖父の訓育・・と、
67年後の私も亦素直に 『 諒 』 とした
肝に銘じたのである
 

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青春の ひとこま

2021年06月22日 11時28分05秒 | 5 青春のひとこま 1973年~

小説を読むことなぞ、ほとんどなかった私
しかし、19の私がどうしたきっかけかは忘れたが、この小説と出遭った
おそらく、この小説と出遭うべく環境が私のなかに整っていたのであらう
それはやはり、出遭うべくして出遭ったのである
19の私は感動した
そして、この小説を10年後、20年後、30年後、40年後と読み還して
私の想いは今もなお かわらず継続しつづけている
・・・そう想う私である

  若き日の思い出
その内に汽車がついてしまったのです。
それから思い出の多い別荘にゆきました。
二人はさっきの話を忘れたようにその話をしません。
正子はもって来た弁当を食べる為にお茶をわかしにゆきました。
私はとうとう宮津に辛抱出来ずに言いました。
「正子さんがあやまらなければならないと言う話はなんだい」
「つまらない話だよ。しかし正子にとってはつまらない話でもないが、
  あいつは呑気だから、自分はかまわない、野島さんに悪いと言うのだ。
 僕は正直に言うと、君は気にしないと思う。
  正子は自分が気になるので、君も気にすると思っているのだ」
「それは何んの話なのだ」
「わからないかい」
「何か噂をたてるものがあるのかい」
「そうなんだよ」
「それなら正子さんに少しも悪いことはない。僕が君の処にゆきすぎるからだろう」
「そうじゃないのだ。あいつが余計なことを言ったからだ。
  まあ気にしないで聞いてくれ給え。初めっから話すから」
「ああ初めっから話してくれ給え」
「僕が田坂や前島と一緒に別荘に行った前日の土曜日だった。二人はいつものようにやって来た。
  そして田坂が正子に碁をしようと言ったのだ。
 正子は田坂と碁をするのはあまり好きじゃないのだ。
  男の人に勝つのも面白くないし、負けるのもいやだと言うのだから。面白いはずはないのだ。
 しかしあいつのことだから、いやとは言わずにやり出したのだ。ところが田坂は負けたのだ。
  その負け方が少し面白くなかったらしいのだ。そのとばっちりが君の事になったのだ」
「怒ってはいけない。前島相手に何から君の話が出たかわからないが、君が変人だということ、
  君がよく物を忘れること、それまではよかった、皆君に厚意を持って話していたのだから、
  ところが前島がふとこういったのだ、あいつは頭が悪くはない、しかしあんまり天邪鬼すぎる。
 世間へ出て成功するだろうか、それは成功しないよ、と田坂はすぐ言ったのだ。
  そして君は自分でばかり偉いつもりでいるが、世間を知らなすぎる。
 世間を甘く見すぎている。ああいうのは世間に出ても落伍者になって、ひねくれるのだ。
 それから君のいろいろ批評が出た、二人ぐるになって正子に悪口を聞かせるのだと正子はとったのだね。
 そして田坂が、あんな男を好きになる物好きな女があるかね、といったのだよ。
  その時正子が不意にいわなければいいことをいってしまったのだ。
 それはあるわ、わたし野島さん大好きよ。
 あなたは変っているから。
 田坂は苦笑いしてそう言って黙ってしまった。
 そして翌日正子は別荘に私はゆかないと言い出したのだ。
 僕が行けと言ったのだけど、いやだと言って 僕の言うことならなんでも聞くのだが、その時だけは聞かなかった。
 そのあとの芝居の時も始め学校なんかかまわないと言って ゆくように言っていたのが、学校のせいにしてゆかなくなった。
 それから田坂も僕の処に来なくなったのだ。
 ところが一昨日だ。
  正子が学校から帰って自分の雑記帳を見ると雑記帳に誰かいたずらがきして、野島正子様お目出とうとかいてあるのだ。
 それには正子すっかり驚いてね。
  この噂が方々に聞こえたら、そして君のお母さんのお耳にでも入ったら大変だと言って心配しているのだ。
 正子はそういう野心は自分はちつとも持っていない。
 私はただ野島さんが好きなだけなので、あの時つい腹が立って大好きと言ってしまって、大変軽薄なことを言ってしまったのだが、
 僕は野島はそんなことで怒りはしないよ、と言ったので、やっと安心したのだが、君によくあやまってくれと言っていた。
 許してやってくれるか」
「許すも許さないもないよ。僕だって正子さんは大好きだよ。僕の方が好きな位だからね。
 尤もそれだけの話だが、僕はなんと言われたって男だから平気だが、正子さんに傷がついてはお気の毒だ」
「その点は心配していないのだ。
  父も母も馬鹿な人間もいるものだと言って問題にしていないのだ。君も何んとも思わないでくれるだろう」
「思わないとも」
宮津はすぐ立って妹の処へゆきました。そして二人でやって来ました。
正子は神妙にお辞儀して言いました。
「どうもすいません」
「すまないどころですか。本当は僕はうれしく思いましたよ」
正子は真赤な顔になりました。
僕も赤くなったらしいのです。
正子は何も言いませんでして。
僕もそれ以上言えませんでした。
正子は丁寧にお辞儀をして、湯をわかしにゆきました。
そうだったのか。
そして私は宮津と田坂の妹の噂をこの時思い出し、その為宮津が失恋することになったら気の毒だと思いました。
しかし宮津が田坂の妹を愛していたという噂は大した根拠がなく、
 誰が言い出したのか知りませんが、想像説にすぎなかった事をあとで知り安心しました。
そうでしょう。宮津は少しも田坂の妹に逢えないことを悲しんでいる
 らしい様子は見えませんでした。
いつもより宮津も元気のように私は見えました。
しかしその日の私はあまり幸福すぎて、他の人の事なぞ気にする心の余裕がなかったのも事実です。
人間にはこんなに深い喜びが与えられているものだということを如実に知って、
 今更に人生の無限の深さというものを感じたわけです。
勿論それはあとでその日のことを思って感じたことで、その日は有頂天に時間を過ごしたと言う方が本当でしょう。
一生に一日でもそんな日を持つことが出来たことを私は感謝するわけです。

私達は腹がへって来ました。お茶もわきました。
お弁当、それも私の分まで宮津の家でつくってくれたのですが、
  それを食べながら私は正子を見ると、野島正子という言葉が、頭にややもすると浮んで来ます。
そうすると自ずと微笑が浮かんで来、あらためて正子を見るのです。
その時、正子も私の方を見、二人は気まりわるそうに微笑するのです。
気がついたら、いくら宮津でもいい感じはしなかったかも知れません。
しかし宮津の妹思いは大したものです。
正子の兄思いも それに負けませんが。

食事の時に何をしゃべったか、私は忘れました。
楽しかったことだけ覚えています。
食事がすんでから、宮津は一寸室を出てゆきました。
正子はあらためて

「御免なさい」
「御免なさいどころですか、僕は本当に嬉しいのです」
「怒っていらっしゃらない」
「怒るどころですか」
「お母さんのお耳に入ったら」
「大丈夫ですよ、それより母は僕があなたを好きになりすぎはしないかと心配しているのです」
「それは私みたいな役にたたないものをね」
「それは反対なのです。
  母はあなたのような美しすぎる人は僕のようなものの処にくるわけはないときめて、僕のことを心配してくれるのです」
「どうですか」
「それは本当です、僕もそう思っているのです」
「今でも」
「あなたはあんまり僕にはよすぎますから」
「その反対よ、私、そんな」

その時、宮津が入って来ました。二人は黙りました。
しかし正子は涙ぐんでいるようです。
私もそれに気がつくと泣きたいような気になりました。いうまでもなく嬉しくってです。
どうしてこんなにいい人が、私のようなものを愛してくれたか。
同じ思いを正子がしているらしいのは、私には驚きでした。

なんだか正子が可哀そうな気さえして来ます。
宮津はお茶でも点れかえないかと言いました。

「はい」

正子は神妙な返事をしてすぐお茶を点れにゆきました。
宮津は言いました。

「こんな事を言って君と僕との友情がこわれると困るのだが、父や母にたのまれたのだ。
 
実はね、正子に縁談がちょいちょいあるのだ。しかし正子はてんでうけつけないのだ。
 父
も反対なのだ。正直言うと父も正子も、君を第一候補者に心の内できめているらしいのだ。
 
正子にとっては唯一と言っていいだろう。兄の目からそれがわかる。
 
実に君に対しては神妙であり、絶対に信頼しているのだ。
 
しかし母は君にもう許嫁の人があるかも知れない。又いないにしても、正子のことを思っていらっしゃらないかも知れない。
 
それなのに、こっちばかりあてにしていても、もしものことがあれば馬鹿気ていると言うのだ。
 
それで君の考えを聞いてくれと言うのだ。
 
僕はまだ早いと言うのだけれど母の心配するのも無理がないと思うのだ」

私は正直に言いました。

「君も感づいていてくれると思うが、僕は正子さんを愛しているのだ。
 
しかしその為に正子さんを不幸にしてはすまないと思っているので、僕の方からは、もう少し自信が出来てから、
 それは主に生活の方の話だが、それから正子さんが僕の処に来てもいい気があったら話そうと思っていたのだ。
 
僕のような人間を正子さんが愛していてくれるとは思えないし、又僕のような金もない家の次男坊に来てくれとも言えないからね。
 
僕はただ君達の厚意と、君のお父さんがへんに僕に期待をかけてくださるので、いくらか望みをつないでいただけの話で、
 それも僕の方から話すだけの自信はなかったのだ」

「君の遠慮は、このさいぬきにしてもらう方が話がしいいと思うね、
  僕達は正子の仕合せだけを考え、君の方は君の方のことを考えればそれでいいのではないかと思うね。
 
君の兄さん、君のお母さんの御意見が一番僕には気になるのだ」

「その点は安心だと思うね。
 
僕の母なぞは、僕があんまり正子さんに夢中になりすぎはしないかとそればかり心配しているようだが、
 それはいざと言う時に断られて僕が参りはしないかとそれを心配しているらしいのだ。
 
だから正子さんが本当に僕の所に来てくれたら、母は喜ぶと思うのだ。
 
しかし、その点心配なら母や兄に話して、はっきりした承諾を得ることにしてもいい、決して反対しないと思う。
 
心配なのは生活のことだが、生活出来る時まで待ってもらえば、何とかなると思う」

「待つのはなんでもない、しかし生活のことは心配する必要はないと思う。正子の生活の保障位は僕の方でも出来る。
 
この別荘が気に入っているらしいから、ここに住んでもらってもいい、この家は正子にやつてもいいと思っている、
 遊びに来たい時はいつでもくるから、その実は別荘番をしてもらっているようなものになるかも知れないが、
 あいつは贅沢はしたがらない、君の言うことなら何でもきくと言っているのだ。

兄としては君があいつを愛していてくれることがわかり、君のお母さんやお兄さんがそれを喜んで下さればそれでいいのだ」
「それなら僕の方の話が、うますぎて、何と言っていいかわからないよ」
「それを聞いて僕も安心した、正子が心配しているだろうから、知らせてくるよ」

宮津は出て行きました。
私はもう夢中でした。落ちつけなくって室の中を歩き廻りました。
正子がどんな顔をして入ってくるかと思いました。正子は喜んで飛んでくるだろうと思いました。
しかし中々やって来ません。
段々私は落ちつかなくなりました。どうしたのだろうと思いました。
やっと足音がしました。
私は落ちついているふりをして椅子に腰かけました。
そして自分のつまとして正子の第一印象をはっきりつかみたく思いました。
戸があきました。緊張しました。
ところが入って来たのは宮津だけです。がっかりしました。しかし宮津はにこにこしていいました。

「正ちゃんはあとで行くと言ったよ。大変喜んでいた」

喜んでいたと聞いて安心しましたが、飛んでくると思ったのに、飛んで来ないのには、いくらか不服でした。
私はもう夫になったような気がして、正子を叱る権利が出来たようないい気になっていたようです。
正子にたいする私の感じはすっかり変わりました。
今までは自分の手がとどかない高い青空にでも住んでいる天女のような気が何となくしていたのです。
私は憧憬の目で正子を見上げていたのです。手さえふれられない神聖なもののように思われていたのです。
今はちがいます。勿論正式に結婚するまでは、正子は私の本当の妻ではありません。
しかし事実、私のものになったわけです。
私は大した獲物を思わず得たわけです。
望むことさえ出来ないと思っていたものがいつのまにか自分のものになっていたのです。

それにしてもなぜ正子は出て来ないのでしょう。
私はその理由が聞きたいのですが、どうも聞くのは負けたような気がして、痩我慢をして聞きませんでした。
宮津も意地悪く黙っています。
二人は沈黙がちになりました。しかしその沈黙はいやな沈黙ではありません。
私は喜びが心の内からもり上がるのをかくすのに骨が折れます。
それにしても、正子はどうして来ないのでしょう。
気まりがわるいのでしょうか、宮津はなぜ呼びにゆかないのでしょう。
私が一人で気をもんでいるのが面白いのでしょうか、宮津も時々微笑するようです。
私は段々我慢が出来なくなりました。
その時、こつこつ戸をたたく音がしました。
戸があけられました。
正子です、正子にちがいありません、でも私は驚きました。
恥ずかしそうにうつむいている正子が、顔をあげたのを見ると薄化粧しているのです。
そして にっこりと笑いました。

その美しさ。


(私の正子イメージ)

私は驚きました。遅くなった理由がはっきりしました。
私は恥ずかしい話ですが、涙がこみ上げて来ました。
正子の心がなんとなくいじらしく感じられたのです。
私に少しでもよく、思われたい、美しく思われたい、
 私の妻として最初に逢うのですから、それだけの心をつかっていることを示したい。
どの位 喜んでいるかを事実で示したがっているように、感じられました。
私も思わず立ち上がったのです。
何のために立ち上がったか自分でもわかりませんでした。

正子は今までになく神妙に入ってきました。
私は自分が立ったことに気がつき、きまりがわるく又腰かけました。
正子も以前の快活さに戻って来、椅子に腰かけました。
二人は黙っていました。
私は何か言いたいのですが、言う言葉はないのです。
しかし二人は同じ時に見合わせ、今度は本当に気持ちよく笑いました。
気分が一時にほどけたように思いました。

「中々来ないので、どうしたのかと思いました」
「お化粧したことが御ざいませんので、中々うまく出来ませんの」
「大変綺麗ですよ」
「野島さんが御らんになるとね」
宮津は逃げ出したくなったのか、室から用のあるふりをして出て行きました。
「夢のようです」 私はそう言いました。
「私こそ」
「本当にありがとう」
「私の言おうと思う事をおっしゃるのね」
「それでも、僕が君わ好きになるのは、あたりまえですが、君が好きになったのはあたりまえとは言えませんからね。
  僕の方がお礼を言うのが本当ですよ」
「そうですかしらん。私の方が先に野島さんを好きになったのを御存知ないでしょ」
「そんな嘘は、知りません。僕は始めっからあなたが好きだったのですよ」
「始めって、いつのこと」
「海岸で初めてお逢いした、翌日です。海岸ではよくあなたの顔が見えませんでしたから」
「そら御らんなさい。それでは野島さんの方が負けですわ」
「どうしてです」
「それでも野島さんは輔仁大会(学習院の催し)で「美に就いて」と言う演説をなさった事がおありでしょう」
「あります」
「それを私、お聞きして、すっかり感心して、その時野島さんて偉い方でいい方だと思ったのですわ」
「あんな下手な演説を聴いてですか。今考えても恥ずかしい気がするのです。あなたは余程もの好きですね」
「ようございますわ。私のようなものをお好きになる方がもの好きですわ」
「それでもあなたは実際よすぎますから」
「よすぎるのは野島さんですわ」
「それは驚きました」
「あの時の演説、今でも覚えていますわ、学習院の徽章の桜の花は美しい。美しい女はいくらでもある」
「よして下さいよ。気でもちがったのではないですか」
「あの時のお話にも感心しましたが、あの時のお顔の真剣さと、計り知れないお寂しさに心を打たれたのですわ」
「もうあの演説の話はやめて下さい」
「だけど花には目がないとおっしゃったわね。私本当だと思いましたわ」
「そんな話をするとあなたの碁の話をしますよ」
「ようございますわ。私、あの時のあなたの演説のこと、もっともっと饒舌りたいのですわ」
「困った人ですね」
「あの時ね」
「もうその話をすると怒りますよ」
「怒って下さってもちっとも怖くはありませんわ」
「僕が本当になって怒ると怖いですよ」
「そしたら私泣きますわ。私なくと怖いのですよ」
「いやな人ですね」
「本当にいやな人なのよ。出来るだけなおしますから、いやな時はおっしゃってくださいね。叱らないで」
「あなたはいやな人では絶対ありませんよ。僕は怒ったりしませんよ」
「私だって泣いたことなんか、本当にありませんわ」
「でもあなたの泣き顔見ましたよ」
「嬉しくってでしょう」
「あなたは中々へらず口ですね」
「いけません」
「大いによろしい。でも僕の母にはその癖を出しては駄目ですよ」
「あなた以外には出しませんわ」
「それなら本当によろしい」
「いろいろ教えていただきますわ。野島さまのお母さま、本当に偉い方なのですってね。
  私お気に入られるかどうか心配ですわ」
「大丈夫ですよ。無邪気に甘えさえすれば」
「甘える事なら私 お手のものですけど、あまり甘えてもね」
「堅すぎるのですから、甘える方がいいのですよ」
「そうお、それならよろしいわね」
「碁を打つことはあまり好かないかも知れませんよ。その点だけが心配です」
「碁なんか打ちたか御ざいませんわ。第一そんな暇はございませんわ」
「他で打つならかまわないですが」
「私、碁はそう好きじゃありませんのよ」
「好きでないのにあんなにうまくなったのは不思議ですね」
「それは若い時は好きだった時もありますけど」
「年よりになったら嫌いになったのですか」
「いやな方。兄を呼んできましょうね。兄は気をきかせすぎていますわ。
  これからいつでも二人だけになれますからね」
「本当に呼んでいらっしゃい。僕もその方がいいのです」
「あの時の話をされないですみますものね。私は又碁の話をされずにすみますからね」
正子は出かけてゆきました。
しかし出てゆく前に私は一寸呼びとめました。
「正子さん」
「何に」
「野島正子さん」
「はーい」
そう言って逃げてゆきました。
まもなく宮津は笑いながら正子と入って来ました。
正子は言いました。
「ねえ お兄さん。私野島さんの演説を聞いて感心したのは本当ですわね」
「それは野島本当だよ。あの当時君のことばかり聞きたがるので閉口したよ」
「嘘ばっかり」
「それで君の声色をやったものだ」
「そんなことおっしゃるなんて、藪蛇だわ。お兄さんはどっちの加勢なさるの」
三人は笑いました。私は幸福でした。

人生にとってかげのない喜びの日がもしあるとすれば、それは稀有なものと思われます。
私は少なくもこの日はその稀有な日だったと思います。
一生の間、私はこの日のことを何度も思いだし、その度に清い喜びを感じるでしょう。
実際私は幸福でした。
この日を前から楽しみにしていたのは事実ですが、大概のことは期待通りにゆかないものです。
ところがこの日はわりに虫のいい期待はしていたのですが、
 事実期待していた何百倍もの喜びが待ち受けていてくれたのです。
私が喜んだのは尤もです。
正子も喜んでくれました。
よき宮津も心から喜んでくれました。
二人だけだったら、この喜びは清い美しいものだけとして終わったかどうか、私には自信がありません。
宮津がいてくれたので、
 私は自制が出来その自制が喜びを一層深い内面的のものにし反省と感謝の念を起させてくれました。

昭和49年(1974年)20才の青年になる直前、19才に出遭った小説である
19才の私は多感であった
そして、自分を磨きたかった
男として 「三島由紀夫」 に倣おうとし、女の 「正子」 を探し求めていた
二・二六事件の青年将校に深く感銘を受け
フォークのチェリッシュの悦チャンが唄う 「古いお寺にただひとり」 に、聞き惚れた
この、両極端のアンバランス
これこそ、私の 「青春のひとこま」 と謂えよう

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私も オカワリ したい

2021年06月21日 04時55分51秒 | 2 男前少年 1963年~

昭和41年 ( 1966年 )
小学校六年の家庭科の時間、
料理実習をすることになった。
各班に別れて、昼食を作るのである。

卒業アルバム から ・・この時、私は急性腎炎で休校中 私の席には長谷川が座っている
奥に、おんなせんせい

←テリトリー ・・クリック
さっそく、買い物
料理の材料を仕入れに、
クラスの皆と共に、
大東商店街の 「 協和ストア 」 に、出向いた。
吾々は、家から持参した 「 買い物かご 」 を、持って出かけたのである。

「 一個15円の大きな卵 ・・・一個10円の小さい卵 」
私が、10円の卵を注文しようとすると、
「 小さいのはアカン 」
・・・
と、
同伴の女子・本山さんに制止されてしまった。
「 おかあちゃんの言う事は聞かな、アカンなぁ 」 ・・・と、店の大将が言う。
彼女から、
小さいのは反って損だと言われ、
15円の卵を注文させられたのである。

献立はカレーライス
皆で、ワイワイ言いもっての料理
私等の班は、( 油揚げの入った ) 味噌汁とカレーライス
どうして、こういう組み合わせになったのかは分らない。
それに、
斯の 「 15円の卵 」
・・・は、どこに行ったのだらうか ?
記憶が ・・・混ざっている。


油揚げの味噌汁は、まずかったけれど
カレーライス は、うまかった。
班の男子
「 うまい うまい 」
・・・と、
皆 おかわり をした。
けれど、女子はしなかった。
「 おかわり するのは、みっともない。
奥ゆかしきが大和撫子 」
だから、女子は おかわりなぞしないもの ・・と、そう想っていた。
私の母親は常日頃、
男が先 ・・として、親父が一番、続いて私の順としていた。
だから私は、そういうものだと想っていたのである。

「 うまいぞー、食べるかァ 」
私は得意になって、隣の班の男子に声を掛けた。
調子にのって、ご馳走したのである。

突然
「 わたしも、オカワリ したい 」
同じ班の女子○○さん が、言った。

然し
既に、おかわりする カレー は、無かった。
が調子に乗って、
他班の男子に振舞ったものだから、残っていなかったのである。

彼女は、私の独りよがりが不満だった。
そして、なによりも
彼女は、「 おかわり 」 したかったのだ。

気がつくのが遅かった。
他班の 「 男子に エエカッコ 」 する前に、
自班の 「 女子を気遣う 」 べきであったのだ。

女は 我慢 するもの ・・・そういう意識が、                          (がまん)
思い遣りいたわり優しさ ・・全てを欠いてしまった。

此を、傲慢 ・・と謂う                                                      (ごうまん)

  
卒業アルバムから
私は長期病気欠席中で此の中にはいない


TVドラマ  「 青春とはなんだ 」
小学6年生の私は これを軟派なドラマと感じて
もの足りなかったものの、チョクチョク観ていた
そして、青春=高校生 ・・というものに憬れを懐いたのである
早く、高校生に成りたい ・・・と、そう想った


空に燃えてる でっかい太陽

腕にかかえた 貴様と俺が
バネもきいてら 血もわくさ
エイコラ GO! GO! やっつけろ
年がら年中 傷だらけ
泥んこ苦行は なんのため
勝って帰らにゃ 男じゃない ♪
青春とはなんだ主題歌・貴様と俺 布施明

友ガキ・舟木
おんなせんせいに促されて、

教卓の横に一人立ちて、唄っている。
「 なんで、唄ってるんやろ 」
私はその光景が奇妙に見えた。
ものの然し
彼には珍しく、大きな声ではっきりと
然も、得意顔して 堂々と、唄っている。
「 へー 」
・・・と、
感心したのは私だけではなかった。

おんなせんせい
此も特技の一つ
自信を持たせるために唄わせたのだ。

「 勇気をだして、唄いなさい 」 ・・・と
敢えて
クラスの衆目にさらして、披露させたのである。

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「先生、そんなん言うたらあきませんわ」

2021年06月20日 05時20分18秒 | 4 力みちてり 1970年~

「 コケコッコーーーー 」
「 昼間や謂うのに・・・鶏までのんびりしとる 」 ・・・と。
笑いを取ろうとしての一言。
然し、斯の一言の底地に、
人として冷たいものを、私は感じ取って仕舞ったのである。
・・・余計な一言  から

昭和50年(1975年)1月15日・成人の日
念願の一眼レフカメラ・OM1で いの 一番 に撮ったは
母校、都島工業高校
それが
自分の成人式に相応しいと思った
 ・・・リンク→何シブイ顔して、歩いてんの!?

本館の玄関ホールに斯の鳥観図が展示されてあった。 吾々在席中の学舎である。
斯の鳥観図、作者の名前を見るに、
吾建築科の一期後輩で、亦 クラブ ・住宅研究部の後輩が作成したるもの。
私等が卒業した昭和48年 ( 1973年 ) 、
彼ら3年生の時、住宅研究部で作図したものであろう。
黒川良平とあるは、斯の物語に登場する教師。
吾々が卒業すると同時に 吾ら担任の木全先生も退職された。
木全先生は住宅研究部の顧問先生でもあった。
だから、黒川先生が 入れ替わったのであろう。・・・と、そう推っている。
しかし、不思議な巡りあわせである。
本館3階 左端教室が 斯の物語の舞台である。

   

よくぞ、言って呉れた
昭和45年 ( 1970年 ) 新学期
高校一年・建築材料の時間、例によって雑談ばかりする教師  ( ・・・ リンク→面白い 面々 )
授業よりも楽しいは当然のこと、「 おもしろい教師 」 と、誰もがそう想っていた。
ウケねらいの雑談にいっそう拍車がかかってゆく。
而して
彼はいい気に成って、同僚教師の悪口を垂れた。
勿論悪気はない。
他人を貶おとしめて笑いを取る・・・は、一つのパターン、テクニックである。
大阪人ならそれが理解る・・と、彼はたかをくくっていたのであらう。
そして、皆にウケているからと ついつい調子にのってしまったのだ。
吾々も、笑い以て聞いていたのだから。
ところが然し、
こともあらうに、笑いの種と さげすまされているは、我等が担任教師。
ちょっとまって、今の言葉プレイバツク
此を、黙って聴いて居れるものか。
誰がヘラヘラ笑って居れるものか。
「 先生、そんなん言うたらあきませんわ 」
即座に、席を立ったは

    級友中前

「 よくぞ言って呉れた 」
私はそう想った。
クラスの皆も頷いた。
「 何も君等の担任を馬鹿にするつもりじゃない、親しいが故につい・・ 」
生徒に咎められた教師の弁である。

話の流れに逆らってまで諫言するは、中々し難いものである。
ましてや相手は教師、
生徒が教師に諫言するなぞ出来様ものではない。
然し、其の儘流されて行くのも歯がゆいではないか。
だから
中前が言った
「 そんなん言うたらあかん 」
・・は、吾々の素直な感情、想いの代弁なのである。

中学の想い出 『 余計な一言  』 共々、
溜飲が下る想いをした私である。

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7 大阪ヒーロー 

2021年06月19日 07時21分40秒 | 7 大阪ヒーロー

大阪ヒーロー
      
漫才、落語、新喜劇の革命児達、我がヒーローを物語る 
目次
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笑いたいのをこらえたのに
昭和38年(1963年)
大阪に引越してきて、テレビで初めて「漫才」を知った
漫才、落語、漫談、浪曲、講談、新喜劇・・
8歳の少年の私
これを、「おもしろい」と思った
こういう芸能文化の在る大阪が、とてつもなく大都会に想えたのである
少年は感動したのである

「おかあちゃん、この漫才おもしろいで」

新しい風
昭和42年(1967年)
(中学1年の)私は、いつものとおりテレビで漫才を見ていた
そして
「おかあちゃん、この漫才、おもしろいでェ」
夕食の支度をしていた母に、そう叫んだのである
それはもう、おもしろかった


おまえ・・ブタマン屋の娘やろ
グラマーな女優(ハーフがかった美形の顔付)・・西川洋子が通行人の役で登場する
岡八郎が歩み寄り
「お嬢さん、僕と結婚して下さい」
「お断りします」
「なんや、八ちゃん、初対面の相手にいきなり」
「俺は、女性に遭うと、結婚を申し込む、システムをとっとるんや」
断られた、腹癒せに
「なんや、おまえ・・よう肥えて」
「おまえ・・ブタマン屋の娘やろ」
「ブタマン屋の娘です」         ドテー・・・ここで観客大笑い
岡八郎全盛期の吉本新喜劇の一場面である

革命児達
昭和44年(1969年)
大阪万博の前年、大阪は活気に満ちていた
そして、この活気に満ちた、大阪の勢いが、ヒーローを産み
そして、彼等は、「大阪の笑い」 を革命していく


笑福亭仁鶴
吉本新喜劇の岡八郎
漫才の横山やすし・西川きよし
各々の革命児の出現と共に、笑福亭仁鶴
の登場も亦、大阪の笑い を変えた
そしてそれは、大阪の芸人の存り方をも変えたのである
是、真に革命的と謂えよう
落語でもなく、漫談でもなく、これまでに無い形の喋りは、積重ねた過去をも、凌駕したのである
中学生の吾々は、だからこそ これを 面白いと想った
これを 吾々のモノ と、認めたのである
そして、この吾々が認めたる モノ は、大阪発 は、全国区に展開していった
吾々は得意に成って、自慢したのである
彼は 吾々のヒーローなり と

すきがあったら どっからなと かかってこんかい

岡八郎の真骨頂
吉本新喜劇の歴史上最大のギャグである
これほど爆笑を取ったギャグが他にあるものか
私にとって
岡八郎は 
まさに、ヒーロー なのである


ガオー
 岡八郎
男は泣いたらあかん
そう、教育された
人前で泣いて、どうする
歯をくいしばって、頑張らんかい
男は、泣いても、生涯で3回だけや
男が泣く時は、理由がいる
そして、その時は、誰はばからず
豪快に泣け
そう、教えられたのである
「男は豪快に」・・を信条とする
吾々の世代、誰もが持つ、認識である


人目憚ることなく、ひたすら落語に打ちこむ姿を目の当りにして

面白い落語から大爆笑落語へ
昭和45年(1970年)~50年(1975年)
革命児・笑福亭仁鶴が、我々に落語を知らしめ、落語に耳を傾けさせた
落語も面白いもの・・・と
落語を聞く・・を、若者の一つのファッションとしたのである
然し、それは未だ、粋の範疇、通の領域
落語の域を超えるまでには行かなかったのだ
時代は進化する
昭和48年(1973年)桂小米は桂枝雀を襲名した、そしてこれを機に
枝雀がばけた 大ばけした
ここに、ヒーロー・桂枝雀が真打登場・・したのである
彼の落語はこれまでの全ての落語を凌駕した
それはもう、大爆笑の大爆笑
落語を聴かせて、且つ、我々を大爆笑させたのである
これぞ、枝雀落語の真骨頂・・と


大阪名物パチパチパンチ
  
ポコポコヘッドに、カンカンヘッドは男のロマン
困った困ったこまどり姉妹、しまったしまった島倉千代子・・・
・・・等々のギャグを持つ
強面のキャラクターが、一転愛嬌たっぷり変貌するところが可笑しかった
私の知るところ、異色なキャラクターであった

次頁
8 大和撫子
に続く

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革命児達

2021年06月18日 08時27分00秒 | 7 大阪ヒーロー


わたしゃビルの お掃除おばちゃん

モップかついで 生きてゆく
ひとり息子を じまんのたねに
毎日床をみがくのさ
おばちゃんおばちゃん
がんばってゃおばちゃん

昭和44年 ( 1969年 )
上方落語の笑福亭仁鶴が唄った
「 おばちゃんのブルース 」 である。
中学三年生の時 憶えたこの歌、
私は今でも偶に口遊んでいる。

昭和44年 ( 1969年 )
大阪万博の前年、大阪は活気に満ちていた。
そして、この活気に満ちた、大阪の勢いが、ヒーローを産み
そして、彼等は、「 大阪の笑い 」 を、革命していく。



笑福亭仁鶴
吉本新喜劇の岡八郎
漫才の横山やすし・西川きよし
各々の革命児の出現と共に、笑福亭仁鶴
の登場も亦、大阪の笑い を変えた。
そしてそれは、大阪の芸人の存り方をも変えたのである。
是、真に革命的と謂えよう。
落語でもなく、漫談でもなく、これまでに無い形の喋りは、積重ねた過去をも、凌駕したのである。
中学生の吾々は、だからこそ これを 面白いと想った。
これを 吾々のモノ と、認めたのである。
そして、この吾々が認めたる モノ は、大阪発 は、全国区に展開していった。
吾々は得意に成って、自慢したのである。
彼は 吾々のヒーローなり と



「 大五郎 」
「 チャン ! 」
「 どこいくの? 」
「 チョット そこ まで 」
ボンカレーのTVCMでの、一コマである

ボンカレーを鍋に浸ける際のなべ底 の ソコ と、 チョットそこまでの そこ をかけたものである。
「 おもしろい 」 
と、吾々はウケる
笑福亭仁鶴の絶頂期を物語る一つと謂えよう


ヤングオーオー

(1969年~1982年 毎日放送 日曜午後6:00~ 6:55)
大阪発の公開バラエティーである。
笑福亭仁鶴と桂三枝が、メイン司会を前後に分けた。
番組構成もバラエティに富み、どれもみな新鮮であった、楽しかった、面白かった。

桂三枝、笑福亭仁鶴、やすし・きよし・・・

と、続々と超新星も出現した。
中学生だった吾々にとっては、それはもう大御馳走・・の、満満腹
時代と相俟って、超人気番組に成ってゆく
その勢いたるや
関西のみに止まらず、滔々と全国に展開していったのである。


更に、大阪の時の勢いは
異端児 を産んだ
天才 月亭可朝 の登場である。


♪ 
ボインは
赤ちゃんが吸う為にあるんやで
お父ちゃんのもんとちがうんやで
ボインと云うのは  どこの国のことば
うれし恥かし  昭和の日本語
おおきいのがボインなら  ちっさいのんはコインやで
もっとちっちゃいのんはナインやで

なんで女の子だけボインになるのんけ
腹の立つ事いやな事
シャクな出来事あった日は
男やったら酒のんであばれまわってうさ晴らし
女の子ならなんとする
胸にしまって我慢する  女の子の胸の中
日頃の不満がたまっている
それがだんだん充満して来て  胸がふくれてくるんやで

あげ底のボインは満員電車に気いつけとくなはれや
押されるたんびに移動する
いつの間にやら背中に廻り  一周廻ってもとの位置
これがほんまの  チチ帰るやおまへんか
コレほんまやで

「 嘆きのボイン 」
ギター弾き語りで以ての歌笑曲である。

Wikipedlia に、面白い記述をみたので
此処で、これを紹介する。
ボインという言葉が世間を席巻し、すっかり定着。
当時、全国津々浦々にいたるまで男子小学生のほぼ全員がこの歌を口ずさめた。
♪ おおっきいのんがボインなら、
ちっちゃいのんはコインやで、もっとちっちゃいのんは、ナインやで

などのくだりは、特に小中学生にはウケた。

「 乳房が赤ちゃんのためにある 」 
というフレーズは子供達にとって至極当然の内容であった。
但しこれに
「 それが父親のためにあるのではない 」 と付け加えられることで、
子供達は母親の授乳器官が同時に性的器官であることを暗に悟らされることになった。
この事実を確認するために質問をぶつけられた大人達は当惑しかつ回答に窮し、
対応としては子供達を叱りこの歌を歌うことを子供達に禁ずる以外の手段を持たなかった。
全国の小学校で歌ってはならない歌と定められ、
これに対して子供達は殊更この歌を歌うという現象がおきた。
結局、なぜこの歌を歌ってはならないかと言う合理的な理由は子供達に示されることはなかった。
子供達は大人たちの気色ばんだ表情から、
何かこれ以上触れてはいけないものを感じ、
かつ、母親の乳房が子供の占有物ではなく、
父親と想像出来ぬ形で共有している事実を悟るのであった。
・・・
と、まあ



更に、これぞ月亭可朝の真骨頂
「 ♪ これまた奥さん、天狗の鼻見て、何想像してまんのんやぁ~ 」
「 あっ やっぱりあれでっかぁ 」
「 わいも、すっきや 」
「 ♪ 天狗印の・・・・・・や、おまへんかー 」
「 イヤ ほんま 」
(大阪ローカル) テレビコマーシャルが、家族五人の夕食時に流れる。
「 フッ 」
と、親父が笑う。
然し、皆の手前、笑いを抑えている。
未だ幼き妹二人はその意味は分らないだろうが
気まずい空気の漂う中、私は緊張の面持ちで以て聞いていた。

彼の笑いはシャレていた
「 中学生ふぜいに、簡単には笑わさへんで 」
・・と
どや・・・粋ななぁ
シャレてるやろ・・と

「 イヤッ ほんま 」

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い た ん ぼ

2021年06月17日 06時48分35秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年


昭和36年 ( 1961年 )
頃の物語である。

いたんぼ
丸谷の私等家族の住居は、
石垣で段々になった地形に沿って建っていた。
段々の一番下部で、上に2段住居が在って、
更に上は畑と、段々が続いていく。
そして、平屋の納屋も有った。
物置であった中は、私の恰好の遊び場でもあった。
屋根の軒先と、一段上の隣地とは ほぼ同じ高さで
石垣側には壁は無く、私がすり抜けれる程度の隙間が有った。
男の児の私、中の荷物を足場にして、よじ登れたのである。
そして、畑で遊んだ帰りは、石垣づたいに降り、隙間をすり抜けた。
それは、私の、秘密の抜け道、だったのである。

近所に 「つじ」 さん、親子が居て
「 つじ 」 の、お兄さんに、普段から可愛がって貰っていた。
偶々
家に遊びにいった その時、
「 つじ 」 さんの、二階の窓から、納屋の屋根が見えた。
そして
屋根の横に 大きなイタンボ を見つけたのだ。
それは、秘密の抜け道とは、すこし離れた処にあった。
「 あこに イタンボがある ・・」
類似イメージ
翌日
女の子3人、( 年上の女の子含む ) を、引き連れて
「 ( 屋根の ) 上に、イタンボがあるんで 」
男前 の、私

19621

女の子を喜ばしてやろう・・と、男気を出した。
 「 ワシが、採ってきちゃる 」
・・・
そう云って、
揚揚と石垣を上ったのである。

いつものとおり
すり抜けれると想っていた。
・・
ところが
隙間より、私の頭の方が大きかった。
頭が閊えて先へ進めない。

男の児、力を込めた。
しかし、これが悪かった。
とどのつまり ・・

屋根と石垣の間に頭が挟まって仕舞った。
上にも進めないし
下にも戻れない
挟まっている頭が痛い ・・

と謂えども、小学校一年生 ・7歳
とうとう、泣き出して仕舞ったのである。

下で、女の子たちは、オロオロしている。
私は、大声で泣いている。
もう、どうすることも出来ない・・・

と、その時
屋根上を人が走って来る足音が聞こえた。
「 つじ 」 のお兄さん、その人哉 であった。

屋根上から私の頭を グイ と押さえつけた。
頭は簡単に抜けたのである。

「 偉そうに言ようて、泣き出して ・・」
男前に成れなかった。
そして
泣いた事が恥しくて堪らなかった。

昭和54年 ( 1979年 ) 撮影 
当時の我家は無くなっている
グレー色(埋立道路)部分は、海であった↓

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背伸びした一分(イチブン)

2021年06月16日 14時46分10秒 | 4 力みちてり 1970年~

剛腕・江川卓 
私が認める、昭和史上最高の投手である
ストレートで三振を取る姿は圧巻であった。

『 エース 』
・・・とは、一段 高い ステータス。
ヒーローなのである。
そして 
『 エースで四番  』 
・・・は、皆から羨望の的
 
それはもう、カッコウよかったのである。

どうしても野球をしたかった私
「 野球部に入る 」 は、少年の頃からの夢でもあった。
そして、中学の時、ヒーローに成った快感を、忘れられなかったのである。
・・・リンク→ヒーローに、成った
しかし小柄 ( 165cm ) なるが故に、体力に自信の無いが故に、
あの甲子園の高校野球・硬式では儘ならぬ。
これが私の身の程也と、軟式野球部を選んだのである。
想い叶えて、
昭和46年 ・二年生春 入部した。  ・・・リンク→鎖縁の物語 「 共に野球部に入ったけれど 」
軟式ならば、私の実力を持ってすれば、
直ちにレギュラーに成って活躍できる。・・・と、たかをくくっていた。
小柄なれど剛腕
小柄のスラッガー 
を、皆に披露したかったのだ。
その年の秋、新チームが結成された。
私は
『 エースで四番 』

・・・小柄な私を見て
コントロール主体の変化球投手と決めつけた眼で
敵の先頭打者が構える
それは明らかに見下した眼である
私は気にもせず
淡々とウォーミングアップをこなして
マウンド上で大きく振りかぶって投げた第一球は、ストレートの剛速球
ズドーン
ど真ん中の球を茫然と見送る打者
意に反しての剛球に驚いた顔をしている
してやったり!
ドヤ 度肝を抜かれたらう・・・と、得意顔の私

この どんでんがえし のストーリー
これぞ、男のロマン
そう想っていたのである 

孤独のエース
偶々の ツーナッシング
「 よしッ!( 三振をとるぞ ) 」
次は、セオリーと、一球 はずしてみせる。
カウント 2 ― 1
三振を取る ・・は、男のロマン
渾身の力を込めて、ど真ん中へ
うなる 剛速球
ど真ん中 に行かば 打者のバットは必ず空を切る
・・・と

しかし、私の剛速球は、暴れた。
勝負球を外したのである。
「 またかァ ・・」
ナイン全員の心に 「 ホアボール 」 が過ぎる。    (ヨギル)
「 花田、いれんかい!」
ショートの長野が、叱咤する、もはや、激励などではない。
ストライクの入らない私に、業を煮やしてのことである。
「 わかっとるわい 」
敵のクリーンナップは、たいていは大柄な選手で打ち気満々で向ってくる。
だから私がきまって三振を取るのは、バットを振ってくれる彼等からであった。
ところが、7、8、9番の下位打線
・・・バットを振らないのだ。
なんと、打者が打席に立って、
こともあろうに
バットを振らないのだ。
それどころか、
ストライクゾーンを狭くする為に、
背中をかがめて小さく小さく構えるのである。
「 こいつら・・・なんや 」

ベンチから声がかかる。
「 打ってけえへんぞー」
「 花田、ゆるい球でいいから真ん中に投げろ 」
「 ゆわれんでも、わかっとるわい 」
剛腕を理想としたる私、そんな器用な真似などできようものか。

「キャッチー、一点に集中させる為 体を低くしてミットを体の真ん中に構えてやれ 」
・・・
と、顧問先生が 尤もな指導 をする。
がしかし、
ノーコンの私がピンポイントを狙って、適う筈もなかろうが。

背伸びした一分
投げても、投げても はいらない
後から見ていると
その姿は滑稽だったと、長野が謂う
「 剛速球は男のロマン 」
・・・と、必死の投球も、ままならぬ
それでも尚、
大きく構え続けた私
速球スタイルは崩さなかった
頑な までに
それが  俺の一分 
・・・と、そう想いたかったのである

而して
「 ヒーローに成る 」 
・・・の、ロマンは ままならぬ
嗚呼 是、吾人生哉 

コメント

反骨な奴のレジスタンス

2021年06月15日 14時53分37秒 | 4 力みちてり 1970年~

教壇前に立った リーダー格が怒鳴った。
「 弁当、やめーッ 」
機先を制された吾々は、慌てて弁当を片付けた。
「 今から、校歌を教えてやる!先に唄うからよく聞いとけッ!」
そう云って、
上級生全員で大声を出して唄いだした。

ヨドノカワモニハナカゲウツリテユウユウ
タルナガレメグレルアタリ
ソノナモユカシキワガミヤコジマフルキデントウカガヤクレキシ
ミヨワガボコウノスガタヲ

窓も開いていない密閉された鉄筋コンクリート造の教室。
そんなところで、40名が、有りっ丈の声を出して唄っている。
それはもう、やたら大声で怒鳴っている。 ( ・・・としか、聞えなかった )
そんなもん、何を唄っているのか分るものか。
上級生、歌い終わった。
リーダー格、
「 分かったかァ!! 」
分かりません! ・・反骨な奴が居た。
「 何ッ!! 」

恒例の伝統行事、
一級上・二年生に依る、
『 弁当食うの やめー 』 の、くだりである

・・・リンク→力 満ちてり

呉津との出逢い

此処で
「 分かりません!」
 と、云って
反骨な奴が居た・・と、私を感嘆せしめた者こそ、誰あらん呉津。
・・と、私はそう信じている。
此は 素直な心持ちが、咄嗟に出たものではない。
普段から、こう謂う 類 たぐい には、レジスタンスする ・・・そう謂う為人なのであろう。
それはきっと、天性のものであろう。私にはセンセーショナルなものに感じた。
此が、私が彼に抱いた最初のイメージである。

1972年5月・修学旅行・・阿蘇山火口
立っている者全て一年生で同じクラス、杉本以外は 『 仲間達 』 のメンバー

前で・かがんでいるのが、古田・・住宅研究部で3 年間共にしたが、同じクラスになったことがない。
・・・リンク→貴ノ花の相撲を見たかったのです

杉本の髪型
彼は、ハイレベルで有名な進学校、天王寺中学出身、
どうして こんな学力の高い奴が同じクラスに居るのか。
やはり、中学の担任が 心配したのはこう謂うことだったのかと、この時思い知らされたのである。
そして、彼は 中々の論客であった。
肩まで伸ばした髪は彼のセンスを物語るもの、其は ひと際目を惹いた。
ところがしかし
高校三年生の修学旅行前のこと
彼は自慢の肩まで伸びた髪の毛を短くカットして現れたのである。 ( 写真 )
 1972年5月・修学旅行・・阿蘇の旅館で
「 お前、どうしたんや その髪 ?」
「 土木の輩に、切れ 謂うて脅されてな 」
「 お前、それだけの理由で 切ったんか 」
隣の土木科の硬派に眼をつけられ、軟派だと絡まれたのである。
彼等は、"吾はバンカラ" の つもりなのである。
"
切らねば きっと 天誅を下す" は 単なる脅し。なにが バンカラ なものか。
奴等は、自分等に無い スマートさを身につけた彼を 嫉みに想ったに違いない。
しかし彼は誰かの如く、レジスタンス しなかった。
「 そうや、普段偉そうに謂うとっても、俺は根性ないんや 」
と、サラッと答えたのである。
それは、何か知らん私の心に響いた。
「 こいつ、大人やな 」
そう想った。
咎める気持ちなど起るものか。
寧ろ、彼のいさぎよさに感心したのである。

反骨 と レジスタンス、大人の対応
理屈は述べまい
感じた儘を記したまでである

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「結婚式に出席しない」 は、俺の主義

2021年06月14日 08時34分53秒 | 5 青春のひとこま 1973年~

永田さんは 今どうしてられるんですか?

今、仕事で名古屋に行ってるみたいやで

梅ちゃん、こんどの日曜日結婚式なんや、あの則ちゃんという女性(コ)とな きみも知ってるやろ あの女性(コ)

知ってますよ、性格の良い女性(コ)でしょ、梅本さんとお似合いですよ

永田さんと梅本さん、親しかったそうですね

うん、僕等が梅ちゃんと知り合ったのは、永田からの線なんや

そうですか、で、永田さん、出席されるんですか?

イヤ、あいつ出席せんらしい、梅ちゃんが是非とも、ということで頼んだらしいけど、

あいつ、 俺の主義 として、行かへん 」 言うて、断ったらしい

梅ちゃん、断る理由に「俺の主義」だから、と云われたと、怒っとったよ

人間、言うたらいかん事があって、そんな言い方して断ったら駄目なんや

そうですかね、そんな事はないと、僕は思いますがね

断るんだったら、仕事で忙しいとか、他に言い方があったと思うよ

それを主義だからといって断るのは、間違っていると思う

そうですかね、僕は正しいと思いますがね

行きたくないのに、無理に誘わなくても良いのではないですか

永田さんが、断る理由に 「 主義 」 だと云ったのなら、それで十分ではないですか

僕はそれで、事足りていると思いますがね

梅本さんは永田さんが来てくれないもんで怒っているんで、

「 主義だから 」 という言葉は怒る為の材料にしているだけだと思いますがね

いゃ、自分の晴れの舞台に親友である永田に出席してもらいたい、

そんな気持ちで居るのに「主義だから」とそれだけの理由で断られたからだと思うよ

友達だったら、出るべきだと思うがね

出たくないのに出ても楽しい気分にはなれないですよ

二人の結婚を祝福しているんでょ、その気持ちがあれば別に強要しなくても良いと思いますがね

親友の結婚を素直に喜び祝福する、至極あたりまえの事だ。
その気持ちの表現の方法は、人それぞれの個性があっても良いと、私は思う。
「 主義だから 」 そういう表現、あっても良いと私は思う。
友情ならば 「あいつらしい」、と、理解してやる。
・・・その方が私は好きである。

己のエゴが通らない時、誰しも腹が立つものである。
自分は正しいと思っているから、思い通りにならない相手を非難するのである。
「 友達ならば 」、俺のエゴを適える義務が有る。
・・と、言っている様な気がする。

結婚式の披露宴とは、己のこれからの人生の覚悟、
新参者として世間様に対してその一員に加わるとて 「 宜しくお願いします 」 と、謂う、お披露目であるはず。
其れゆえに、世間様の代表者たる出席者に対して、忝く思い、その労に感謝して御馳走するのである。
「 皆に祝って貰う 」 だけのものでは無いのである。
披露宴に出席する者は、まったく別の人間どうしが 縁あって結ばれ
これから苦楽を伴にする、
若い仲間が出来たことを祝う。
・・その縁を祝い、一人前に成ったことを慶ぶのである
「 幸せに成ってもらいたい 」
・・・と、いう気持ち
・・・誰もが願うものであるが、
結婚する二人だけに向けられている訳では無いのである。

俗に、己の感情で、
「 冠婚葬祭の義理を欠いてはならない 」
・・・と、謂われる。
それが世間に於いての 「 付き合い 」 だと。
果たして、
「 主義 」 として、断った永田さんと、
「 付合い 」 として、出席している者と
どう違うのであろうか。
「 結婚は祝ってもらうもの 」
・・・その通りだとは想う。  ・・・想うが。

延々と屁理屈 謂ってはみたが
要するに、唯 少しばかり
「 思い遣りに欠けた 」
それだけの事かも知れない。
 

 
東氏との
昭和57年 ( 1982年 )
4月23日の会話

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あくびをして おんなせんせい に 叱られた

2021年06月11日 13時53分28秒 | 2 男前少年 1963年~

「 どうして遅刻したのですか 」
・・・と、先生が問い詰める。
「 朝、起きるのが遅かったんです 」
・・・と、児童生徒が答えると
先生、
「 そんなもの、理由にはなりません 」
と、言って叱かった。
私はその遣り取りを聞いて
「 遅刻したのは、起きるのが遅かったから。 ・・・どうしてそれが 理由にならんのじゃろ 」
「 どんな理由だったら ええんじゃろ 」
・・・そう想った。

昭和42年 ( 1967年 ) 3月の卒業アルバム ・ 6年2組の写真  ( いつ見ても、つい昨日のように想う)
私は 病気 休校中 で、この中には居ない。 ( 撮影は昭和41年の12月中頃のようだ )
最前列右側のチェック柄のジャンパー姿が 「 友ガキ・舟木 」  ・・・リンク→17才のこの胸に
私の席には長谷川が坐っている。 ( 前から二列目の、二番目・右  )
壁上部に貼られてあるのは、「 日本の歴史年表 」 ・・・私はこれを興味を持って眺めていた。
壁に貼られている 絵画 に私のものはない。
唯、治癒後登校した時、休校前に拵えた粘土細工の皿が残っていた。
それはもう 不出来の不作品で 休校中ずっと其処に晒されてあったと思うと 恥ずかしかった。
一番右奥に坐る tei の後ろ・壁隅にそれは置かれてあった。



千葉信一
小学校でのクラスメイトである。
( 3年、4年、5年、6年 同じクラス )

如何して 誕生会なのか
昭和41年 ( 1966年 ) の春先、
彼の誕生日会に招かれた。
「 誕生日会、随分 ハイカラなことをする 」
私にとっては初めての経験、況してや バースデーケーキも食べられる。
夢の様な話である。
私は二つ返事で応えた。
共に招かれた級友・tei と 二人の女子と共に彼を訪問したのである。
( 私も同じ様な場合、招待したい、どうしても来てもらいたい 女子二人である )
家に上ると、家庭環境が一目で判った。
「 俺と同じ境遇なんや 」 ・・そう、想った。 ( ディティールは、吾が心懐に納めておく )
『 二十四の瞳 ・松江の母 』 の様な母親が吾々をもてなしてくれる。
「 我が子に、ひもじい思いをさせまいと、親は必死に働いた。
母親は自分は喰わずとも、我が子に喰わそうとした 」
そんな母親だと感じた。
姉がいた。

彼女は
仕切るのでもなく、しゃしゃり出るのでもなく、甲斐甲斐しく世話をしている。
私は、そんな姉の姿を見て、
「 家族から 大切にされている んや 」 ・・・と、そう想った。
そして、おぼろげながら も、この誕生日会の意味というものを感じ取ったのである。

誕生日会が終って皆で 「 つくし 」 を採りに行こうと淀川堤に登ったが、
斜面は雑草ばかり、とっくに 「 つくし 」 の季節は過ぎていた。
そんなところに 「 つくし 」 は無かったのである。

如何して 叱るか
昭和41年 ( 1966年 ) 小学5年の3学期の授業中のこと、
彼はあくびをしたくなった。
でも、「 あくびをしたら 叱られる 」 と、辛抱我慢したのである。
しかし、一旦出かかった あくび を とめられるものか。
とめられないし、大口 を あければ みつかってしまう。
嗚呼 ・・・。
ちょうどそんなところを  『 おんな せんせい 』 に みつかってしまったのである。
そして
「 勉強に集中していないから出るのです 」
・・・と、叱られた。
それでも、おんなせんせい の勢い止まず、
「 鼻であくびをして、誤魔化した 」
と、追討ちをかける。
男前の私、
「 あくび一つで、そんなに咎めるな 」
・・・そう、心の中で反撥した。
そして、咎められて シュンとしている彼を、
「 気の毒なヤツ 」 ・・・と そう想ったのである。


昭和41年 (1966年 ) 7月 ・臨海学校 (学舎) 天の橋立、到着時の集合写真である。
クラスで一人 バスに酔って 実になさけなく弱虫の私、いつもの元気溌溂ならば当然中央に位したであらうに 。
ブランコに乗っても酔った私、つくづく 乗り物には弱かったのである。 これで如何して、男前と謂えよう 。
・・・リンク→遠足 帰りのバス  と  林間学校

おんな せんせい 』 の中で然り 、
話せば分る・・問答無用 』 の中で然り、
そして斯の物語
私は、先生に対して懸命に反撥している。
このこと、
「 親離れ前の子が、親に反撥する 」 に 似ている。
然し 反撥したその根は、やはり先生が女だったからであらう。 
・・・そう想っている。
「 女は優しいもの 」 ・・・その想いに対する素直な気持ちの現われであろう。 ・・・と。
そして少年の私は、
それでも 「 俺は男 」 と、頑張ったのである。

其も、此も、 一にして、
なんと 懐かしい、そして 愛おしい

「 おんなせんせい 」 との 大切なる 想い出である。

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バラ色の時 1 「 今日の酒は格別 」

2021年06月09日 19時10分18秒 | 4 力みちてり 1970年~

昭和45年 ( 1970年 )
3月
13日 ( 金 )
中学の卒業式。
14日 ( 土 ) 大阪万博開催
16日 ( 月 ) 中学校へ登校。 ( 試験前日の激励 )
17日 ( 火 ) 公立高校の入学試験。
18日 ( 水 ) 上新庄の建設現場で親父の仕事手伝い 初日。
20日 ( 金 ) 合格発表。
4月
1日 ( 水 ) 高校入学式。
7日 ( 火 ) 手伝い最後の日
8日 ( 水 ) 高校始業式
「 桜花咲く 」 頃の、吾スケジュールである。

 昭和46年頃 ?
この頃親父は、
鉄筋コンクリート造 ・3階建マンションの左官工事を請負っていた。
その現場は阪急上新庄駅から徒歩5分の所に在った。

仕事手伝いとは、左官の手元として雑用をすることである。( 普段は手元をする人がいて 彼等を雇っていた )
「 手伝い 」 ・・・は、初めてのことであった。

昭和45年 ( 1970年 ) 5月  友ガキ・舟木
毛馬閘門の中洲で撮影


友ガキ・舟木と二人で、
親父の仕事を手伝ったけれど

一人では心許ない。
それで、友ガキ・舟木を誘った。
仕事は意外にきつかった。
その内容を説明すると こうだ。 
壁に塗る 「 モルタル 」 を拵える準備として。
一袋40㎏のセメント袋を運んで来る。 40㎏は重たかった。 
どうしても 持上げて肩に担げないものだから、腹に抱きかかえて運んだ。
「 よう 担がんのんか。 昔は50㎏ じゃったんど 」 ・・・と、親父が笑う。
山積みになった砂を スコップで掬い 篩ふるいにかける。  これも亦、重たかった。
砂目を均一にし、ゴミ等不純物を取除いた砂を使う為、篩にかけるのである。
準備が出来ると、大きな舟 ( 鉄製の箱 ) に砂とセメント、水を入れて混ぜる。
簡単なようだが、是、コツのいる中々難しい作業であった。
こうして出来上がったものを 「 モルタル 」 と謂う。
次は、この 「 モルタル 」 を 職人の作業場まで運ぶ。
2階、3階への移動だけは電動ウィンチで機械を使うが、それ以降は人力である。
左官職人の手許に置いてある小さい舟 「 トロ箱 」 に運び入れるのだ。
職人はこの 「 トロ箱のモルタル 」 を 鏝板に掬い これで以て壁を塗るのである。
この作業も やはり 力仕事。重いのである。
作業用一輪車に載せるとフラフラして運べない。
結局 天秤棒で一個のバケツを二人で担いで運んだのである。
「 力、ないのー 」 ・・・と、親父は笑った。

友ガキ・舟木、三日坊主にも成れなかった。 ( 18、19 日の 二日で音を上げた )

3月20日は、合格発表の日である。
行く前に、淀川神社で参拝した。
2番 ( 受験番号 )
「 あった! 合格していた!!」  
      
其晩、親父は 「 今日の酒は格別 」 と ばかりに酒を呑んだ。
合格したことを 大に慶んだのである。
ついぞ先の 二月のこと、
中学の担任から翻意を促されて岐路に立った時、「 我を通していい 」 と 背を押して呉れた親父。
「 公立 落ちた時は、私学の清風高校に通わす 」 ・・・そう、腹を据えてのこと。
もちろん、伜を信じてのことである。  ・・・リンク→蛙の子は蛙
「 伜を一級建築士にさせる

・・・それは、
佐官職人である親父にとっても 「 夢 」 で あったのだ。
そして、その登龍門をくぐった。
こんな美味い酒が他にあろうか。 ・・・・親父は、いつもの様にひとり言していた。
この日の夕食は赤飯を炊いた。 そして 鯛の尾頭付き。
そんな御馳走を、友ガキ・舟木も共に食したのである。

4月1日 ( 水 ) は 入学式。
この日も肌寒い日であった。
学校まで徒歩で30分、晴着姿の母と式典に参加した。

半ドンの日、一人での帰り路。
阪急電車上新庄駅から「 動物園前行 」 の電車に乗ると、
セーラー服の女子生徒が晴着姿の母親と並んで、向かいのシートに坐っていた。
そして、膝元の風呂敷包みから教科書を取出して嬉しそうに見ている。
彼女も、母親も、共に幸せそうな顔をしていた。

バラ色の時 ・・・とは、斯くの如きを謂う。

次頁 バラ色の時 2 「 線路の路肩に見付けた つくし 」 に 続く

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