昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

敗戦の日

2021年08月15日 06時01分24秒 | 9 昭和の聖代

815 

 

 

 

 

 

 


昭和20年8月15日
アメリカに降伏した日である

朕 深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現狀トニ鑑ミ
非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ
ここ ニ忠良ナル爾なんじ臣民ニ告ク
朕 ハ帝國政府ヲシテ 米英支蘇四國ニ對シ
其ノ共同宣言ヲ 受諾スル旨 通告セシメタリ
抑々そもそも帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ
萬邦共榮ノ 樂たのしみ ヲ偕もと ニスルハ
皇祖皇宗ノ遺範ニシテ 朕 ノ擧々措カサル所 
さき ニ 米英二國ニ宣戰セル所以モ亦
實ニ帝國ノ自存ト 東亜ノ安定トヲ 庶幾しょき スルニ出テ
他國ノ主權ヲ排シ 領土ヲ侵スか如キハ固ヨリ 朕 カ志ニアラス
然ルニ 交戰 已すで ニ四歳しさいを閲くみ
朕 カ陸海將兵ノ勇戰  
朕 カ百僚有司ノ励精れいせい
朕 カ一億衆庶ノ奉公
各々最善ヲ盡セルニ拘ラス
戰局必スシモ好轉セス
世界ノ大勢亦我ニ利アラス
加之しかしのみならず 敵ハ 新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ
しきり ニ無辜むこ ヲ殺傷シ 惨害ノ及フ所 眞ニ測ルヘカラサルニ至ル
而モ尚 交戰ヲ繼續セムカ
つい ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス
延テ 人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
斯ノ如クムハ 朕 何ヲ以テカ
億兆ノ赤子ヲ保シ 皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ
是レ 朕 カ帝國政府ニシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
朕 ハ帝國ト共に終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ
遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス
帝國臣民ニシテ
戰陣ニ死シ
職域ニ殉シ
非命ニ斃レタル者
及 其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク
且 戰場傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ
朕 ノ深ク軫念しんねん スル所ナリ
おも フニ 今後帝國ノ受クベキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス
爾臣民ノ衷情モ  朕 善ク之ヲ知ル然レトモ
朕 ハ時運ノ趨オモム ク所
堪へ難キヲ堪へ
忍ヒ難キヲ忍ヒテ
以テ 萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス

朕 ハ 茲ニ國體ヲ護持シ得テ
忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚しんいシ 常ニ爾臣民ト共ニ存リ
若シ夫レ情ノ激スル所 濫みだり ニ事端ヲ滋しげ クシ
或ハ同胞排擠はいせい互ニ時局ヲ亂リ
爲にニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ
朕 最モ之ヲ戒ム宜シク 擧國一家子孫相傳ヘ確かたク神州ノ不滅ヲ信シ
任重クシテ 道遠キヲ念ヒ 總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ
道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏かた クシ
ちかつ テ 國體ノ精華ヲ發揚シ
世界ノ進軍ニ後おくレサラムコトヲ期スヘシ
爾臣民其レ克 ク 朕 カ意ヲ體セヨ

・・・玉音放送原文

 
開戦の詔書

  

   
爾 臣民

コメント

妻と共に消え去った、幼き命がいとおしい

2021年08月14日 05時49分16秒 | 9 昭和の聖代

冷え十二月の風の吹き荒む日
荒川の河原の露と消し命
母と共に 殉国の血に燃ゆる父の意志に添って
一足先に父と殉じた哀れにも悲しい

然も 笑っている如く
喜んで母と共に
消え去った幼い命がいとおしい

父も近く御前達の後を追って行けることだろう
厭がらずに 今度は父の膝に懐でだっこして寝んねしようね
千恵子ちゃんが泣いたらよく御守しなさい
では暫らく左様なら
父ちゃんは戦地で立派な手柄をたてゝ御土産にして参ります
では
一子ちゃんも、千恵子ちゃんもそれまで待ってゝ頂戴
井 一 陸軍中尉 (29才) の遺書である

陸軍飛行学校で少年飛行兵に精神教育を担当していた
次々と特攻隊として飛び立ってゆく、教え子を見送る
「 必ずオレも後に続くぞ 」・・・と 

然し、特攻を志願すれどすれど、パイロットでない中尉の願いは叶わない
彼の妻は死なないで欲しいとひたすらこいねがうも
夫の決意の固きを悟った妻は覚悟し
「 私たちが居たのでは後顧の憂い・・思う存分の活躍ができないでしょう
・・一足先に逝って待っています 」

と、遺書を残し 
三才と一才の女の子を連れて入水自殺をする

引上げられる妻子の遺体のそばで号泣した中尉
血書の嘆願書を以て決死の再志願、
遂に特攻の願いは認められ
昭和20年5月28日戦死、
藤井一中尉は家族の許へ

・・・是の
何処を どう捉えるかは、
人それぞれの想いに依るだらう
然し
祖国の為
かけがえのない命を挺した先達
その歴史の上に今の吾々の命は存在する
此の事
忘れてはならぬ
そして
此を
戦争がもたらす悲愴と言うな

とはいえども
情を以てすれば


妻と共に、消え去った
幼き命がいとおしい
もうすぐ、会いにゆくからね
お父さんの膝で抱っこして寝んねしようね
それまで、泣かずにまっていてね
・・・

嗚呼
誰が此を
泣かずに居られよか
・・・
絶句

コメント

5 右翼青年 昭和49年(1974年)~

2021年08月12日 11時50分38秒 | 5 右翼青年 1974年~

右翼青年
昭和49年(1974年)~
左翼全盛の頃
「君は右翼か」・・・そう言われた
「日本人です」・・・そう応えた

己が心懐の
日本人たるDNAを物語る

目次
クリックすると頁が開く


私の DNA
1970年代
「本を読む」・・は、ステータスであった頃
通勤の車内で以て、文庫本を読むのも、日常の事であった
吊皮片手に本を読んでいる者も当りまえの如く居た
「なにも、この朝の忙しい時に・・・」

十九歳の私
「文学少女には成れない」 と、諦めた中学以来
「本を読む」 に、縁遠い存在であった

昭和49年(1974年) 年頭
会社の帰り、先輩に伴い大阪梅田の旭屋書店に立ち寄った
先輩に つられた訳ではないが、書棚に目を遣っていた
そして
並んでいる本の中に、目を引く物を見つけたのである
「天皇制の歴史心理」
それは、偶然の如く か、必然の如く なりしか
私は、「天皇」 と、出遭ったのである

最初の一歩を踏み出した私
以降、勢いついて、止まらない
「自分とは何ぞや」・・・を、発見していったのである
それは、私にとっての 「歴史上の大発見」 と、いうものであった
読みたい、との想いは
必ずや
読みたいもの、と出遭う
そう、実感した私である


男一匹 命をかけて
「静聴せよ、静聴、静聴せい」
「静聴せい、静聴せい」
「静聴せいと言ったら分からんのか、静聴せい」
「おまえら聞けぇ、聞けぇ!」
「静かにせい、静かにせい!」
「話を聞けっ!」
「男一匹が、命をかけて諸君に訴えているんだぞ」
「いいか、いいか」

「それでも武士かぁ!」
「それでも武士かぁ!」 ・・・自衛官からの野次
    
昭和45年(1970年)11月25日
市ヶ谷台上で 天皇陛下万歳を三唱 して
壮絶なる死を遂げた、三島由紀夫の 「死の叫び聲」 である
軍隊とは、武士の集団であろう ・・と
武士なる、自衛隊と信じて 蹶起したのである
であるが・・
もはや、武士の魂 を 抜取られた、時代の申子 自衛隊
「檄」 を、飛ばせど
三島由紀夫の意志など、通じる筈も 無かったのである
されど
三島由紀夫の 飛ばした「檄」は、「死の叫び聲」は
私の中に潜在した 「吾は日本人」 と謂う 意識を喚起した
これぞ
私のDNA なのである

左翼思想全盛の昭和45年(1970年)に於いて
素直に そう 掬び付くことは、稀有な存在 であった
今も尚
吾々のDNA は、凍結されしまま 眠っている
これから日本が、世界の中で生存しようとするなら
凍結されし、吾々のDNA  を、解凍し
吾々のDNA に眠る
武士の魂 を 喚起する
そこれこそ
吾々日本人に求められているもの
と、私は想うのである

二・二六事件と私
昭和40年(1965年)11才                                       
「陸海軍流血史・五一五から二・二六」 との出逢いは、
何かしらん重々しいものを感じたものの、如何せ11才の私、それは幼稚なもの
昭和45年(1970年)16才                                       
市ヶ谷での三島由紀夫の自決は、16才の私の潜在意識を喚起させた
然しそれは、未だ漠然としたもので核心までは至らなかった
そして、
昭和49年(1974年)19才
『自分が日本人である』 という潜在意識の核心を はっきりとを自覚した私
『日本人とは如何』・・・この追究が、二・二六事件の蹶起将校との運命的な出逢いとなった
それは、逢うべくして逢ったのである
蹶起の青年将校こそ、『純真無垢の日本人である』・・そう確信したのである
神達の言動を知るにつき
それらは、私自身の昭和の記憶 として
宛も私自身の実体験の如く蓄積されていったのである

四-1
超国家主義

多感であった19歳の私が、亦、自分を磨かんとして磨いていた私が、これ等と出遭い
憧れを感じる程に、素直に受け入れたのである
これ等は、慾すればこその出逢い、と謂えよう

私は、これ等を 慾するところ慾するが儘に読んだ
そして、私はこれらを精読、浄書することで、私の中に眠るDNAを読み取っていたのである
まさに、どこをどう読むかは、その時点に於ける私自身の資質、素容そのものと謂えようか
しかし、これ等を何故そんなに 憧れたのか
亦、素直に受入れることができたかは、私自身説明できない
それは私のDNAとしか 謂い様がないのである
四-2
一つの写真との出遭い
 ・ 

歴史との出逢い

目的地は直ぐそこ哉、気が逸る・・・・
そして
「ああ・・あった」
一人 声無き歓声を上げた私
「神達と逢いたい」 との、夢が現実のものと成りし瞬間である
やっと、辿り着きし
二・二六事件慰霊像
神達の処刑跡地に建立されし、慰霊像
昭和49年(1974年)8月7日
二十歳の私 昭和維新の神達 と、初めて、直接接点を持ったのである
言い替えらば
歴史 との、記念すべき感動の 出逢い であった



祖父 の 遺伝子

西田 税 の、乃公自作の真理は、52年後の昭和49年(1974年)、19歳の私に届いた
「意を得たり」
これが、私の実感であった
而して 私は
祖父の遺伝子 を、しかと確認したのである



祖父の訓育
昭和49年(1974年)、二十歳の私が出遭ったもの
やるなら拳骨でやるんだ」

正々堂々を信条に、卑怯な真似はするな
此が祖父の訓育・・と、素直に『よし』とし、肝に銘じたのである

何シブイ顔して、歩いてんの!?
若き二十歳
私は眉間を寄せて、街路を歩いた
「何シブイ顔して、歩いてんの !?」  (カッコウ付け過ぎヤヨ)
バス停に向かう途中の路で、〇〇〇が、そう声をかけた
「男がヘラヘラした顔して、歩けるか」
私は、そう云い返した


尊 皇 討 奸
昭和維新の象徴である
神達は是を、合言葉にも使った
二十歳の私 は
どうしても、神達と逢いたい
そう想ったのである
昭和49年(1974年)11月25日
念願の 山王ホテル に、遂に来た
「オオーッ」
  
昭和11年2月26日
あの、尊皇打奸の旗 が、たなびいた、屋上搭屋は当時の姿のままであった
こそ 昭和維新
昭和維新の風を肌で感じた気に為ったのである
 


生涯一の大風景
  
意を決して 上って
塀超しに見た風景は、素晴らしきものであった
二十歳 にして
それは
生涯一の大風景であった
 
十一
覚醒しても尚、覚えている夢
徴兵制が復活した
こともあろうに 私は、最初の出征兵士となったのである
日本国最初の兵士

任期は一年
「最初だから まさかこの1年の間に戦争は起らないだろうし、そのまま満期除隊となるだろう」
 と、たかをくくっていた私は、暢気に構えていた
ところが、戦争が起きてしまった
そしてとうとう、東南アジアに派遣されることと成ったのである

十二
右翼青年

21歳(1975年)昭和50年頃の、友・平野との会話

「ソ連が攻めてきたら、どうする?」
「戦争反対、唱えるしかないな」
「北海道に攻め入ってきて、日本人が殺されているんやで、それでも、戦争反対唱えるのか?」
「俺は戦いに行く」
「勝ち目ないで、ソ連には敵わん」
「日本人が殺されるのを、手を拱いて視とけ、言うのか?、占領されたら、どうするんャ」
「白旗挙げて降伏する、戦ったら死ぬデ、死んだら終わりヤ、死んで、残った家族どうなるんャ
  降伏しても、命までは取らんヤロ」
「ソ連の奴隷になれ言うのかァ」
「死ぬよりましヤデ」
「お前、本当に、そう思っているのか?・・・」
十三
「サークル」

夢とは ロマン のこと
究極の行動とは 殉じる こと
彼等は それを知らない
彼等は、真剣に 「憂国」 を、語り合っていると謂う
軽々しい
憂国 とは 同胞の為に殉じる こと
相当な覚悟をもって、発言すべく事柄であらう
彼等が、そんな覚悟を持っている 筈は無い
十四
あの時はもう帰らない

昭和50年(1975年)11月24日
神達の面影を求めて、一人、大東京へ

霞ヶ関ビル
エレベーターで昇るにつれ、気持ちが昂ぶってゆく
何と、地上150mから、大東京を見渡す
是、素晴らしき風景哉
「オオッー」
「万歳、万歳、万歳」

十五
男のロマン 1975
男のロマン 大東京
二・二六事件 一人歩き

次頁
6 バブルの頃 昭和62年(1986年)~昭和64年(1988年)
に続く
コメント

明日があるさ

2021年07月09日 22時02分10秒 | 2 男前少年 1963年~

 ケイトウ
昭和38年 ( 1963年 )
小学三年生、9歳の頃のこと、私は、夜 眠りに着くのが嫌だった。
トイレへ行きたくなかったのだ。
トイレは部屋を出て廊下のつきあたりにある。
ところが、トイレには灯りがなかった。
だから夜中に一人、トイレに行くのが怖かったのだ。
幼い妹等は母が連れて行って呉れる。
しかし、『 あんちゃん 』 の私、『 男前 』 の私、
恐ろしいから、ついて行って・・・とは、言えなかったのである。
寝る前にチャンと用を足したのに、布団に入ると もよおす。
「 さっき したばっかりなのに・・・・」
我慢すれば、我慢するほど、したくなる。
辛抱我慢の末、せっかくトイレへ行ったけれども、小便は出ない。
仕方なく、戻って布団の中で しばらくすると 又もよおすのである。
もういやになっちゃう のである。
「 ホースを便所から布団の中まで伸ばしてそれでション便したら、便所迄行かんでもええのに 」
・・・私は、そんなことで毎晩 葛藤していたのである。

訃報
夜中のトイレに対する葛藤が漸くなくなった。
もう、平気。
・・と、自信も出て来た 昭和39年 ( 1964年 ) 8月、
10歳、小学四年生の 或る夜。
ドンドンドッ 、と、戸を叩く音。
驚いて戸を開けると、血相を変えた顔で叔父が入って来た。
もっと驚いたのは、故郷に存る筈の祖父が続いて入って来たことだ。
「 どしたんな。こんな晩に。」
と、親父が訊いた。
「 ・・・・・」
薫・伯父が亡くなったこと、知らせに来たのだ。


昭和37年 ( 1962年 ) 8月、
あの和歌山でのこと。 ・・・リンク→教えたとおり、言うんで
和歌山に着いたその晩、私は三人の伯父 ( 一人は叔父 ) たちと一緒に寝ることにした。
薫・伯父が私に寝ながら話を聞かせて呉れると言う。
私は 5歳の頃 叔父たちと一緒に寝た夜、定・叔父から寝ながら 『 日本狼の絶滅 』
という話を聞かされたことがあった。
その時の楽しかった一夜を思い浮かべた私、「 それじゃあ 」 と、喜んで応えた。
ところが、これがとんでもない恐ろしい話であった。
『 怪談・田んぼの一軒家 』
「 大阪へ来る時、列車の窓から田んぼが見えたじゃろう、
ほいて、田んぼの中に家があったじゃろうが・・・・ 」
山陽本線上り、窓から見える風景は、田んぼ ばかり。
私は、田んぼに点在する一軒家の風景や、広告看板が並ぶ風景を眺めてきた。
「 その、田んぼの一軒家に住んじょった 家族の話なんじゃ。
家にはのお、
おとうさん、おかあさん、小さい赤ちゃんの三人が居ったんじゃ。
家族三人で仲よお暮しょうたんじゃ・・・けど、
ある時、おとうさんが病気で死んでしもおてのお。
残された おかあさんは、たいそう悲しんで泣いてばかり居ったそうじゃ。
その おかあさんも いつのまにか姿が見えんようになったんじゃ。
『 こりゃ、おかしい 、どうしたんじゃろ 』
村の人らが心配してのお、・・・その、田んぼの一軒家を訪ねて行ったんじゃ。
そしたらのお、その家にはのお、
赤ちゃんを抱っこした、おかあさんがおったんじゃ・・・
そのおかあさんはのお・・・やせ細ってのお、白い着物を着て、長い髪を垂らしてのお・・・
・・・赤ちゃん、よう見たら、もう死んじょる。
『 死んじょる赤ちゃんをずっと抱っこ しちょったんじゃ 』
『 気が狂うちょる 』
村のみなは それはもう 恐ろしゅうなってのう・・・ 」
伯父が さも恐ろしいげに話す。
「 いびしい !!  」
私は恐ろしくって、枕を被った。
それでも、伯父は私の耳元で尚も話を続ける。
もう二人の伯父たちは、その様子を微笑んで見ていた。
「 赤ちゃんは腐っちょってのお、体には ウジ虫が ウジョウジョ・・・ 
ほいてのお、
おかあさんが 長い髪をだらーんと垂らしたまま こっちへ向ってくるんじゃ。
うつむいた顔をあげて のお・・・ イーヒッヒッヒ・・・・ 」

斯の話、8歳の私には度が過ぎた。 

昭和38年4月、
大阪に移住して来た吾が家族。 伯父の近所に居を構えたのである。
明日は、転校初日 亦 始業式である。
不安一杯の私に、

「都会のもん はなあ、体は大きいても、力はないんじゃ」
「田舎のもん はなあ、
ちいちょうても、強いんじゃ!」
と、私を勇気づけて呉れた伯父。 
・・・リンク→びっくりしたなぁもう !!

その伯父が亡くなったのである。

訃報を聞きつけて、
祖父母、伯父・叔父、叔母と親戚の全てが伯父の家に駆け付けた。
私も親父と一緒に駆け付けたのである。
伯父の遺体はまだ家には帰って無かった。
皆は遺体が帰ってくるのを待った。誰の気持も重かった。
そんな緊張の最中に、いったい何をどう話 したらいいというのか。
誰もが黙りこくってシーンとしていたのである。
伯父の娘、二人の幼い従妹 ( 8歳と6歳 ) も、親の死に 未だピンと来ていないみたい。
いつもの様に、貢・叔父に 『 カモネギ 』 の話を従妹がすると、叔父はいつもの様に笑って愛想した。
その笑い方がいつもの笑い方より一段大げさだった。
私はそれを不思議に感じた。
がしかし、10歳の私、それがどういうことか判ろう筈もない。
そんな中、伯父の小母 ( 義伯母 )さんや、お姉ちゃん ( 叔母 ) が私を相手に絡んで来た。
皆の悲しみなぞ判ろう筈のない私が無邪気にそれに応える。
私のその無邪気な応へに、大声を上げて笑う小母さんとお姉ちゃん。
「 喜んでいる 」 と、勘違いした私、さも得意になって喋った。
そんな時、遺体が帰って来た。
すると、つい今しがた、大声で笑っていた二人、
笑い声は一転、大地も裂けんが如く、泣き叫んだのである。
私は、愕然とした。
「 さっきまで、あんなに笑っていたのに・・・・」
そして、その姿を茫然と見つづけたのである。

人が死ぬとは、殊に親兄弟が死ぬとは、・・・こういうことなのである。

この家のトイレは、家の外にあった。  そして、灯りが無かった。
夜、こわごわ用足しに向かうと、
「 ワシも一緒に行く 」・・と、祖母が追っかけて来た。
私は祖母と一緒に用を足したのである。

♪いつもの駅でいつも逢う
セーラー服のお下げ髪
もうくる頃  もうくる頃
今日も待ちぼうけ
明日がある  明日がある  明日があるさ ♪
・・・斯の時、
従妹が口遊んでいた歌である。

幼い娘二人を抱えて、女手一人で育てて行かねばならぬ小母さん。
酷な人生であろうと、生きて行くしかないのである。

 おしろい花
トイレの傍に、従妹らが植えたものか。
おしろい花が咲いていた。

その中にひとつだけ、
真赤に咲いた鶏頭 ケイトウ の花
・・・ひと際鮮やかであった。

そして私
一時は克服したと想った、夜中のトイレでの葛藤。
又 始まったのである。

コメント

夏の想い出と祖母がつくったアブラメの味噌汁

2021年07月08日 19時30分40秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

松本の店と山口の家の間の小径を少しだけ登ると右手に大きな杉の木があった。
大きな杉の木には、夏になるとアブラゼミが鳴いた。
松本の店で一個十円の桃を買うと、
松本の小母さんが店先においてあるガロン缶に溜めた水で洗って呉れる。
洗い終わると、俟ちきれんとばかりに大きな口を開けて頬張るのである。
いちいち皮など剥かない。
私は、大きな柔らかい桃より、小さな堅い桃の方をいつも選んだ。
其れには、チョットした理由があって。
小さく堅い桃は、甘さは控えめなれど、コリコリした食感が好きだった。 ( 此は、大人になっても変わらない )
しかし、それは真の理由ではない。、
柔らかい実の桃には、ときどき その芯に虫が居たからである。
だからといって、誰が 折角の桃 捨てるものか。
『 桃とはそんなもの 』 ・・だと、そう想っていたのである。

  アブラメを釣った場所からは、ドンコも釣れた

昭和36年 ( 1961年 ) の夏休

朝から魚釣りに出かけた私。
道路から海を覗けば、透き通っていて底まで見える。
いつでも、小魚は泳いでいる。
この日は、気まぐれに松本店前の道端に坐り、釣り糸を垂れた。
釣りの好きな私は、いつもなら波止場での釣りをするのであるが、
偶には、こうして道端から ドンコ釣りをして遊ぶこともあったのである。
一度だけ、25㎝程の スズキ が釣れたこともあって、偶にそんなこともあるのが 亦 楽しかったのだ。
 アブラメの稚魚
アブラメの稚魚ばかりが釣れた。
一人で ご機嫌よろしゅう、釣ったアブラメを提げて祖母の家に持ち帰った。
「 おばあちゃん、アブラメ ようけ釣ったケン 」
「 昼にちょうどえかったワイ、味噌汁に入れちゃるケンノー 」
「 アブラメ ( 稚魚 ) 、喰えるん?」
「 喰える、 喰える、美味いドー 」
果して、食べてみると、祖母の言いうとおり。
これが まあ 美味いこと。
白身の淡白な味が、みそ汁の味にマッチして美味かったのである。

 イメージ
♪ 紅い夕陽よ 燃え落ちて・・・
夏の夕暮れ
海辺に佇み 夕涼みする大人たち
浴衣と下駄ばき姿で尚 はしゃいでいる子供ら
そんな風景を眺めながら、
今日も無事に過ごせたと、一日を惜しむのである


カニの大群
毎年、夏の夕暮れに決まって現れるカニの大群。
サワガニ が産卵の為、山から海に大移動するのである。
「 どこから こんなに、カニが来るんじゃろうか 」
海辺の道路を埋め尽くすカニの大群に、男の児は もう有頂天。
自転車に乗って 疾走したのである。
 イメージ

祖母がつくった味噌汁のアブラメ
たった 一度っきりだけど、それが意外にも 美味かった。
『 意外に 』
・・そのことが、
たったそれだけのことで、

私の生涯の想い出として、今も尚 忘れないでいるのである。
想い出とは、そういうものなのかも知れない。

コメント

満天の空に 星は 星の数ほどあった

2021年07月07日 17時53分33秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

昭和36年 ( 1961年 ) 夏の夜
親父と二人 チヌ 釣り をすることになった。
 イメージ
「 餌を捕っちょけ 」
・・と、親父
引き潮を待って、
水の退いた波止場の床 ( 底 ) に降りて、
波止の脚下に敷かれた波消し岩 ( 基礎 ) の間を掘った。
チヌは 『 虫 』 ・ゴカイの餌だと、食いが悪い。
食いの良い 『 オオ虫 』 ・イソメ を捕る為である。
然し、
『 オオ虫 』 は そう簡単に捕れない。
限られた場所にしか生殖せず、以て ただでも数が少ない。
にもかかわらず、皆が挙って捕るものだから 既に捕り尽くされていたのである。
それだけではない。
五歳の頃 指先を噛まれたこともあって、
『 虫 』  には平気な私でも、『 オオ虫 』 は苦手だったのだ。
『 虫 』 を捕るときのように ホイホイ 手を出せなかった。
そんなことが相俟って、やっぱり 捕れなかった。 
だから、結局この日も 砂浜にいる 『 虫 』 を捕って、此を餌にすることにしたのである。
そして、
いつもの通り
チヌばりに 一度に数匹引掛けて、
これを 『 オオ虫 』 一匹の代用とすることにしたのである。
 
『 オオ虫 』 ・イソメ                   『 虫 』 ・ゴカイ

「 イザ 行かん 」
・・・意気揚々、目指すは丸谷の波止場。
波止場に、灯りなぞあるものか。
だから、提灯を提げて波止路を歩く。・・もう、お手のものである。
そして、波止の先端に陣取ったのである。

「 さあ、釣るどー 」
親父は波止の延長線上に天神鼻に向かって 真直ぐ 仕掛けを投げた。
私は波止に直角に入江側に向かって仕掛けを投げた。
釣り竿なんかは持たない。
 テグス
餌を付ける時だけ提灯を燈す
糸をほどいて、左手にテグスを掴み、右手で仕掛けを投げた。
これが、普段の釣り方 ・・・船で漁師がする釣り方と同じ


真っ暗の中、頼りは星明りだけである。
べた凪の入江の水面に、対岸の家々の灯りが揺らめいている。
私は、この景色が堪らなく好きであった。

コンクリートの波止に直接坐って、
仕掛けのテグスを人差し指の先に掛け、 チヌの当りを待った。
・・・・
が 然し
チヌ が そう簡単に釣れるものか。
・・・・
どのくらい、時間が経ったであろう。
当りなぞあるものか。
退屈の極である。
いつもなら、とっくに眠っている時刻なのである。 況してや星明りの下、さすがに眠たい。
それでも 吾は男の児・・・茲は辛抱我慢と、閉じようとする眼をひっしに堪えていたのである。
が 然し、もう・・眠たくて 眠たくて
ウトウト・・と、していた
・・・将にその時

!!!
猛烈に 糸を引っ張った。
「 スワッ 釣れた 」
と 勇んで糸を引く。 でも、チヌではなさそうな。
引き揚げて見ると、なんと アナゴ であった。

「 アナゴかぁ ほれに飲み込まれちょる 」

満天の星空
波止場の先端に座って
眠たい目を擦りながら、夜空を見あげると そこには、
「 ぶつからないのか 」
と、想うほどの星空があった。
そして いつもの様に、
天の川 を はっきりと、確認したのである。

幼き頃、当然の如く見上げていた夜空
そこに
星は 「 星の数ほど あった 」
しかし、それは 今や
記憶の中にしか 存在しない のである。
叶うものなら
あの頃の私にもどって
もう一度
親父と共に
星空を 眺めてみたい
・・・そう想う私である

コメント

丸谷の波止場 「 サッカン 早よ 助けんねー !! 」

2021年07月06日 06時29分20秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

夏に泳ぐ・・・と言えば 丸谷の波止場
たいていは内海・入江で泳いだ。
海から上がると 波止に腹這いになって甲羅干しをする。
そして 又 海へ飛び込んだ。
 外海と波止場と親父
物語は小舟の辺り
「 船がきたどー 」
仁方港から三ノ瀬港へ向かう巡航船が沖合を通過しているのだ。
「 ソレーッ 」 ・・・と、ばかりに
大きい人達 ( 小学高学年~中学生 ) は 一斉に外海へ飛込む。
船が かき分けた波は、波止場に到着するころには その勢いも衰え ユッタリ した波になっている。
それはまさに 波のゆりかご
そして、ユラリ 揺らめく 心地よいゆりかごに乗るのである。
私のことは語らない。

泳いだ後は、必ずや井戸で水浴びし、躰に着いた塩分を流した。
大きい人 ( 中学生 ) が、海パンの尻を引っ張って、そこへ手押しポンプから出る井戸水を注ぐのである。
母や叔父達が天秤かついで水を汲みに行く 斯の井戸である。
・・・リンク→吾母との絆の証し

「 泳げるようになった 」
道端の階段から波止の階段まで約30m ( 満潮時 )、
この間を、浮き輪なしで泳いだら一人前とされた。
皆から、「 泳げるようになった 」 ・・・と、称されたのである。
此は、島の子にとっては名誉なことであったのだ。
斯の 『 階段~階段 』 までが、吾々にとっての登龍門だったのである。

私は 昭和35年 ( 1960年 ) 6歳の夏、そこを通過した。
然しこれには、からくりがあった。
最後の1、2m程を 10歳年長 ( 16歳 ) の叔父が後押して呉れたのだ。
叔父の手心が加わった成果だったのである。
それでも私は、そんなことはいっこうにかまわずに、
「 泳げるようになった 」  「 泳げるようになった 」 と、得意になって自慢したのである。

泳げるようになったのはこの年の前年 昭和35年 (1960年 ) のことである。
保育所の卒園式を終え 記念品のパンを食う私・・・リンク→丸谷の波止場 と 「 夕焼けとんび 」


弱虫を救った母の必死の叫び声
「 泳げるようになった 」 と、自慢していた私
皆へ それを披露する時が来た。  謂うならば デビュー 戦である。
男前の私、意気揚々、「 イザ飛込まん 」 と、波止路に立った。
ところが然し、そこから海を見遣って驚いた。
「 高い 」 
意外に 高かったのである。
「 飛込むことなぞ できるものか 」
そう、直感した。ヒビッタ。
意気消沈。すっかり弱虫になってしまったのである。
類似イメージ ・1954年頃
波止路の角に尻をついて、かかとを石堤の隙間に入れ、
出来るだけ低くして海へ入ろうとした。
然し、それでもまだ高い。
そもそも、波止の路から飛込むことなぞ 無理だったのである。
二の足を踏んだ。尻込みした。・・・もう、どっちもどっち
大きい人達が 波止の上で腹這いになって甲羅干しをしていた。
その中に、10歳年長 ( 16歳 ) の叔父も居た。
「 早よ、飛込まんかー 」
と、叔父が 腹這いの侭 ハッパをかける。
然し、すくんでしまった弱気の躰が 動くものか。
いつまでも、モゾモゾ していたのである。

弱い心が 災いを引き寄せる
後ろから、 両手で以て背を押された。
無邪気な悪戯をしたのは、トヨ君の弟 ( 私より2歳ばかり年少の幼児 ) 。
ドッボーン
突き落されたのである。
私はたいそう慌てた。  もう パニック 。
自分が泳げることすらも判らない。
徒に、バシャバシャ もがく だけだった。
如何な かっこうで もがいたかは憶えちゃあいない。
もがき以て、波止上で腹這いになった侭、叔父達が私を眺めている顔が見えた。
彼等は目前の出来事を承知しながらも、唯茫然と眺めているのだった。
一時 いっとき 空白の中にいたのであらう。 
だから、「 溺れるかも 」 と、想いつつも  躰が反応しなかったのである。
そんな時、波止路から 母の必死に叫ぶ甲高い声が聞えた。
「 サッカン 早よ 助けんねー !!
母の叱咤は 空白に縛られた叔父を動かしたのである。
忽ち、躰が反応した。
それからの 叔父の動きは如何にも機敏だった。  そして叔父の咄嗟の判断が功を奏した。
近くには停泊する舟もあった。
サッ と、立上るや、波止の上から飛降り、波止路に一番近い舟に飛乗った。
続いて 私に近い舟に渡り、それを私の傍まで動かした。
そして、手を伸ばして私を掴み上げたのである。
海から上がって、 『 一件落着 』。

私は溺れなかった。 ( もがいただけ・・・手前みその基準 )
偶々、水を飲まなかったことが その因である。
然し、偶々、大事に至らなかっただけのこと、生死の境は紙一重だったのである。
『 魔が差す』 ‥一瞬 とき は、こういう場合を謂うのであらう。
「 サッカン 早よ 助けんねー !!
厄を払い、叔父を動かしたものは母の必死の想いであったのだ。

「 あの時、母は何故 波止場に居たのであらう 」
このこと、今 初めて気づいた。
私が母のいる青雲の涯に逝った時、このこと尋ねてみよう。

コメント

ひまわりの小径 ・ 「 セーラー服の後ろ姿 」

2021年07月05日 04時38分16秒 | 4 力みちてり 1970年~


あなたにとっては、突然でしょう

ひまわりの咲いてる径で 出遭ったことを
わたしの夢は おわりでしょうか
もう一度 愛のゆくえをたしかめたくて
恋は風船みたい だから離さないでね
風に吹かれ 飛んでゆくわ
立止まる二人には 交わす言葉もなくて
恋はいつも消えてゆくの
 ・
チェリッシュ
ひまわりの小径
昭和47年 ( 1972年 )

悦ちゃん・・・の
かぼそい声、可愛い声、可愛い容姿に、
一目惚れ

「 こんな  可愛いい 女性ひと に出逢いたい 」
・・・と、そう想った。

昭和47年 ( 1972年 )
私は、
徒歩で通学していた。
そして、必ずや善源寺楠公園内を横切ったのである。

セーラー服の後ろ姿

夏休み
軟式野球部員の私は
高校最後、夏の大会に向けて
日々、練習に精を出した。
されど、真夏の炎天下である。
練習を終えて、くたくたになっての下校は、しんどかった。
その日も快晴・・・暑かった。
私は、いつもの様に、善源寺楠公園内に入ると、
偶々
前方を行く、セーラー服の後ろ姿 を、認めたのである。
ライトグレーのスカートに白い上着、ライトグレーの襟には白いライン。
「 何処の女子高やろ?」
「 クラブ ( 活動 ) の 帰りかな?」

セーラー服の後ろ姿 に
淡い想いを抱いた私
なんて女性は、偉大哉
それまでの、くたくたな私の心身は、
俄然元気に変わった

♪ あなたにとっては、突然でしょう
ひまわりの咲いてる径で 出遭ったことを♪

一度っきりの
『 セーラー服の後ろ
姿 』
の想い出は、
チェリッシュの悦ちゃんの歌声と、
その歌詞が、オーバーラップする。
・・・のである。

コメント

ちょっと、つまづいただけの物語

2021年07月04日 12時48分21秒 | 3 青い鳥 1967年~


                                                                                 2年4組
昭和43年 ( 1968年
) 8月10日
中学二年の吾々は、
一泊二日の林間学舎を
大阪能勢の野外活動センターで行った。
一日の予定が終わると

宿泊は班毎にバンガローで取る。
宿泊の班構成は、
一クラス ( 全7クラス ) 男女2班づつ、4班に分かれた。



こぉらっ!!

バンガローでの解放感も相俟って、眠るのももったいない。
皆一様に昂揚していた。
だから、消灯後も中々就寝せずに、はしゃいでいた。
吾班の隣りに、他組 ( 6組、岩出の存る班 ) の男子の班があった。
彼等は、羽目を外して、一際騒いでいる。
バンガロー越しに、彼等の騒ぎが聞こえてくる。
「 6組の奴、やかましいな 」
「 ええかげんにせえよ 」
とは言いつつも、別に腹も立たなかった。
むしろ、吾々も彼等に続け
・・と、そんな気持ちで居たのである。
ところが、突然、静かに成った。
先生の声が聞こえる。
「 あいつら、怒られとるで 」
「 怒られとる 怒られとる、あいつらアホや 」
 
広場での集合写真に 6 組の 舟木が映っている
その後ろに顔だけ写っているのが 岩出
バンガローで、舟木が岩出と同じ班だったかは知らない


翌日、当人等に聞くと

「 電気消した後、真っ暗の中で枕投げしとったんや 」
「 いつの間にか変な奴が居ってな、お前、誰や ? 、言うたら 」
コォラッ!! や 」
「 それが、先生やってな 」
「 入って来たん、判らんかったんや 」
「 全員 正座させられてなあ、もう、怒られた怒られた 」
と、
怒られた事が、さも 武勇伝の如く、語ったのである。


ちょっとつまづいただけの物語

班毎に分れての夕食が終り
全員集合
キャンプファイヤーである。
一度広場まで降りたものの、忘れ物に気付いた。
引きかえさねば。
降りてくる皆とは反対に、一人上って行く。

途中
巾1メートル程のクリークに架かる床を丸太で組んだ木橋に差しかかった。
駈足で上る私は、偶々 そこで つまづいた。
ところが


丁度そこに降りてきた女子生徒○○弘子さん ( 中一の時の同級生 )
木橋に差しかかった時、
偶々、同じタイミングで、つまづいたのである。

「 アッ ! 」
ぶつかる・・・

然し、
物語は起きなかった。
咄嗟に伸ばした彼女の手が、
彼女を かばおうとした私の手が、
もうちょっとで 触れる所で 止まった。
お互い 顔を見合わせた。
彼女は 微笑んでいた。

私は、
そのまま駆け上って行ったのである。

偶々おきた、ほん些細なこと
でも、
どちらかが  ほんの僅か手前で

つまづいていたなら
物語りに為ったであらうに
「 おしかったなぁ 」

・・・は
後で想うことである。

コメント

夏休みは いつも一人で

2021年07月02日 05時36分32秒 | 2 男前少年 1963年~

少年時代、
親と出掛けたことなど、一度も無かった。
旅行も無い、外食も無い
・・・何にも無いのである。
この時代は、皆がそうだったのだらう
・・・と、そう想っていた。

昭和39年 ( 1964年 ) 8月31日
隣り近所の久田さん ( 17才・高校2年生 ) に連れられて、箕面の滝に出かけた。
これが、夏休み唯一の外出であった。


一人で壁相手に

キャッチボール
建物の影が伸びた時刻
家の前の道端で一人私は
ンクリート万年塀にボール(軟球)を投げる
反って来るボールを、「 パチーン 」・・と、快音響かせ
スナップを利かせたグラブ捌きで、叩き取る。
これを、繰り返しては、亦、繰り返す
「 オッ、ぼく、うまいな ! 」 
上手くもなる
昭和39年 (1964年 ) 八月・夏休み
これが、私の日課だったのである。

竹尺で叩かれる  (タケザシ)
夏休みの、ある日
未だ日が高い時刻だというに、親父が仕事から帰って来たことがある
建物の影が伸びて、涼しくなるのを待っていた私
「イザ、始めん」・・・と、塀相手に一人キャッチボールを始めたばかり
そこへ、偶々早く帰って来たのである
左官職人の親父
外で遊ぶ私が気にくわなかったのだらう
「わしが、帰ってくる時間には家に居れ」
「ちゃんと家に居って、わしが帰ってくるのを迎えんか」
と、それがあたりまえだと言うのだ
「外で遊びようる」 とはもってのほか
・・と、ひどく叱られた
よっぽど、虫の居所が悪かったのであらう
立たされ、竹尺で太ももを叩かれた
10才の私、親父の言う理屈、分らう筈もない
「いつ、帰って来るかもわからんのに」・・と、そう想った
 リンク→10時になったら、帰ります

「 遊びょうらんと、勉強せえ 」
午前中に、
同級生の安宅と北毛馬公園で野球をした。       
(現在は毛馬中央公園)
やっぱり暑いと、
2時間程しての帰り道

安宅の家の方が先に着く、彼は玄関に入るなり
「 アー、やっぱり家は涼しいなー 」
・・・と、言った。

覗くと、さもあらん
・・・涼しそうな玄関であった。

「 うちは、外の方がまだ涼しいのに 」
行儀に座るだけで、
膝の内側に汗を掻く、そんな暑い我家

扇風機も無い昼間に、どうして 勉強なぞできるものか。
 

 B1c118fe   次郎物語          
  ひとりぼっちの 次郎はのぼる

  ゆらゆらゆらゆら かげろうの丘

  ひとりぼっちの 次郎はのぼる

  ぴいろろぴいろろ ひばりの峠

  次郎 次郎 みてごらん

  松の根は 岩をくだいて 生きていく

1964年
NHKで夕方 
6:00~6:25 放映された 「 次郎物語 」 の、主題歌である

NHK神話
夕方は子供アニメの放送が多くあった。
アニメを夢中になって観ていた私に親父は
「 良いテレビ ( 番組 ) を見ろ 」・・と。
そして、押し付けられたのが、「 次郎物語 」 で、あった。
己が見て評価した訳でもないのに
NHK は良い・・と
親父は、素直にNHKを
信頼していたのである。
私は、親父に
謂われる侭に素直に此を見ていた。
「 NHKのは良い 」 ・・・ものと。

コメント

鉄腕アトム

2021年07月01日 05時01分03秒 | 2 男前少年 1963年~

♪ 空をこえて ラララ 星のかなた
ゆくぞアトム ジエットの限り
心やさし ラララ 科学の子
十万馬力だ 鉄腕アトム ♪

・・テレビアニメ 
「 鉄腕アトム 」 の主題歌である

「 鉄腕アトム 」
午後6時15分から始った。
ちょうど、夕食時である。


あつーい !
然し
我家には、扇風機は無かった


昭和39年 ( 1964年 ) 10才 小学校4年生の夏休み
夏場の涼を得る唯一の手段と謂えば うちわ

「 扇風機の風は体に悪い 」
「 うちわ が 一番ええんじゃ 」
・・・
と、親父
上半身裸、サルマタ一枚姿で以て、一升瓶を脇に於いてのコップ酒
胡坐をかいて呑んでいる
「 暑い、扇げ 」 ・・・と
酒を呑んどるんやから、そりゃ ( 体が ) 熱いに決まっとろうに
私はそう想いつつも 両手で うちわ を掴み扇いだのである
額に汗して

汗をかきかき夕食
丸い卓袱台 ちゃぶだい を、5人の家族が囲での夕食
行儀に坐って (・・・正座のこと )
一家の大黒柱たる親父が箸をつけるのを待った
我家では、何事も親父が一番なのである
「 食べよ 」 ・・・と、親父
じっと待っていた 吾々兄妹
只 冷めただけの、とうてい不味い麦茶を飲みながら食事を進めるのである
( 私は麦茶が嫌いなのは、この頃の体験から )

行儀に坐ると折り曲げた膝の内側に汗が溜まる
然し、脚を伸ばすことなぞ許されなかった
( 自分は胡坐をかいているくせに・・・)
胡坐は大人のもの、子供はしてはならぬもの
「 行儀が悪い 」 ・・・と、そう訓えられたていたのである


一貫目の氷
扇風機も無い家に、冷蔵庫なぞ有ろう筈も無い
猛暑の中
母が一貫目の氷を買ってきた
そして
皆で食べた冷やしそうめん
それは もう、美味しかった
夏一番の御馳走であった
どれだけ歓んだことか


夏休み
膝の内側に汗を溜めながら 食べた御飯
不味かった麦茶
そして
一貫目の氷
忘れられない想い出である
然しそれは
貧しきとも、家族五人で過ごした
掛け替えの無いもの
愛おしき瞬間 トキ
・・・だったと

そう想う 

コメント

旅情 ・ 兼六園

2021年06月29日 12時25分16秒 | 5 青春のひとこま 1973年~

昭和48年 (1973年) 7月
親友・長野と二人で旅をした、
心の旅 のプロローグ である。

イメージ画像は2015年  書込みは昭和48年 ( 1973年 )の記憶
真弓坂 から 兼六園に入った吾々、以後の経路は定かでない。 確かなことは記念に撮った写真だけである。
しかし、食堂やテニスコートは確かに存在した。ただ、それらの場所が何処にあったかは記憶しない。


午後11時半頃

大阪駅から特急列車に乗り、金沢へ向かった。
路行き、お互いの積もる話で花が咲いた。
若い頃 専らの関心と謂えば、やはり 女性とのロマンス。
此は、古今東西 普遍のもの。
「 是、読んでくれ 」
親友・長野、日記を出した。
そこには、彼が想いを寄せる女性との出逢いが綴られていた。
整ったきれいな文字で しっかりした文章で、それが いかにも彼らしかった。
「 先を越されてしまった・・・」
それにつけても 旅はいいもんだなあ。 ・・そう想った。
そして、旅の解放感もあって二人は夜を徹したのである。

寝袋の青春

暁払いの四時半頃、 金沢駅に着いた。
「 いざ、兼六園 」 ・・と、勢い駅舎を出た。
そこで最初に目にしたものが、ロータリーの舗道に横たわる、大きな蓑虫・・・だった。
「 なんやろ 」 と、通りすがりに覗いて見ると。
なんとそれは、
 『 寝袋 』 に包くるまって眠っている若者の姿だった。
「 ディスカバー・ジャパン、一人旅する若者が自転車で全国を周る 」
・・という話、テレビから雑誌から承知していた。
しかし、私の脚下で平然と眠る若者の姿を目の当たりにして、
その大胆とも謂える行為に感心したのである。
「 彼等にとっては、これが青春なんだ・・・ろう 」
・・と、そう想った。
しかし、それは あまりにも 無防備であろうが。


地図も持たずに、
只ひたすらに兼六園へと向かった

途中に、私の目を牽いた (当時) 金沢一髙いビル

食べられなかった親子丼
30分は歩いたろうか。 兼六園は目の前、其処にある。
( 真弓坂 ) 入口前に一軒の食堂を見つけた。
「 朝飯にしようや 」
幸運にも、朝早い時間にも拘らず店は開いていた。
ところが席に坐ったところで、
それまで意識もしなかったのに、食欲がないことに気付いたのである。
とりわけ食べる気がおきない。 否、何も食べたくないのだ。

相棒・長野も同じ状態だと云う。
五時という早朝の所為もあろうが、やはり 一睡もしなかったのが祟たたった。
メニューから適当なものを探したけれども、そんなものあるものか。
しかし、店に入ったからには 何か注文しなければなるまい。

「 親子丼なら 食えるかな 」
と、強いて注文した。 ・・・・のだけれど。
一口、つけただけ。 それだけで次に続かない。
躰が拒絶しているのである。 ・・・これはもう、どうしようもない。

揃って、箸を置いた

『 食べものを残してはなりません。粗末に扱ってはなりません 』
此が、吾々が子供の頃 大人達から享けた訓えだ。
「 すいません 」
吾々は、ゆっくり休憩も出来ずに、逃げる様に店を出たのである。

初めての旅ゆえ、不慣れは当然のこと。
しかし、体調を考慮するは基本の基本、それがスケジュールと謂うもの。
金沢駅に着いたところで、休息しておればよかったのだ。
・・・この事、おもい知らされた吾々であった。

兼六園・真弓坂から階段を上って園内に入る。
親子丼は食えなかった。 とはいえ、別に 『 しんどい 』 とは、想わなかった。
元気溌溂 だった。
なにせ、

社会人となって初の旅行。
これぞ日本三名園の兼六園 ・・と、
感慨一入、
興奮の中、歩いていたのである。
     
金沢の兼六園  花見橋の私   雁行橋の長野             どの辺りか不明・・残念

   
石川門 と 石川橋                   茶店通り                               徽軫灯籠


あなたを待つの テニスコート  木立の中のこる 白い朝もや
あなたは来るは あの径から  自転車こぎ 今日もくるわ
今年の夏忘れない  心にひめいつまでも
愛することをはじめて知った  二人の夏よ 消えないでねどうかずっと
                                        ・・・天地真理 ・ 「 恋する夏の日 」

旅情
快晴の夏空、陽射しが眩しかった。
しかし、ちっとも暑くはなかった。
園内をずっと上って行くと、テニスコートがあった。
爽やかな空気の下で、
白の上下を着て溌溂とプレイする、若い女性達の清々しい姿があった。

吾々は、人が入らない濠端の石垣を背にして腰を下ろした。
そこから 金沢の街が眺望できた。
二人 語ることもなく
前方に拡がる景色を トップリ 眺めたのである。
その時、フト
「 カーディガンに暑中見舞を送ろう 」
中学卒業して以来、年賀状すら出したこともないのに。
なぜか知らん・・・そう想った。
隣で肩を並べて同じ景色を眺めている親友・長野が、
何に想いを巡らしていたかは知らない。

天を仰いで小休止。
ウトウトっと・・・そのまま 眠った。
さもあらん。

コメント

心の旅

2021年06月28日 05時23分39秒 | 5 青春のひとこま 1973年~

昭和48年 ( 1973年 ) 7月
親友長野と二人、
夏休みは旅をしようと謂うことになった。
社会人として己が稼いだ金で行く、記念すべき初の旅行である。    (オノガ)
其に相応しい旅をしたい、
「 水の綺麗な海、若狭へ行こう 」 ・・と
さっそく、旭屋書店で北陸の地図を購入して探索すると
偶々三方五湖レインボーランイが目を牽いた。
「 三方五湖にしよう 」
三方五湖のネーミンングに何かしらんロマンを感じたのである。
そして、地図にテントの表示を見つけた。
「 ( 海辺に )  キャンプ場があるで 」
「 此のキャンプ場にしよう 」
「 夏のことやし、テントあったらいける ( 大丈夫 ) やろ 」
「 食事は現地で、なんとでもなるやろ 」
旅の計画は愉しき哉
ああしよう、こうしよう ・・・と、二人して大に盛上ってもう有頂天
なにせ社会人になって初の己が旅行   (オノガ)
而も、気心の知れた二人での旅、
さぞや愉しい旅になるだらうと、心を弾ませたのである。

金沢の兼六園 ~三方五湖 ・水月湖の海辺のキャンプ場 ~ レインボーライン、
三泊四日 ということに決めた。

 
兼六園へ向かう途中に
目を牽いた

(当時)金沢一髙いビル

リンク→旅情 ・ 兼六園
金沢・兼六園
なにせ

社会人となって初の旅行
これぞ日本三名園・・と、
感慨一入
興奮の中、歩いたのである。
   
金沢の兼六園、水戸の偕楽園、岡山の後楽園を日本三庭園と謂う
水戸の偕楽園は翌年の昭和49年 ( 1974年
)、
岡山の後楽園には続いて昭和50年 ( 1975年 ) に旅行した
リンク→
歴史との出逢い 
親友・長野とは、夏の旅行・三年続いたことになる

吾々は、人が入らない濠端の石垣を背にして吾々は腰を下ろした。
そこから 金沢の街が眺望できた。
天を仰いで小休止。
ウトウトっと、そのまま 眠った。
さもあらん。
・・・・
日は未だ高かった。
時間が 随分経ったような気がした。
「 そろそろ 行こか 」
午後3時半頃かな・・・そう想って、時計を見た。
「 エッ、未だ11時半かい 」 


兼六園で半日過ごした吾々は
次の目的地三方へ


福井県若狭町

金沢から小浜線で三方へ
三方駅からバスで海山へ

なんとか、次の目的の地に着いた吾々
さっそく
「海へ行こう」
トンネルを潜れば、そこは若狭湾・日本海、そして、めざすキャンプ場がある
・・ある筈であった
海岸縁りの砂浜では少人数の家族連れが居た
然し、探せど
キャンプ場なぞ どこにもあるものか
地元の漁師風の真っ黒に日焼した老人に尋ねると
「キャンプ場なんかあらへん」
「若いもんがあっちの浜辺で勝手にテント張って寝とるだけや」
と、北陸の人が関西弁を使う
スワッ大変
困ったことになった
なんにもない海辺にテント一つ切りで、まにあうものか
・・旅行前
地図に表示されたキャンプ場のマークを素直にそのまま鵜呑みにして、
テント一つ持って行けばなんとでもならうと・・・たかをくくったのが失敗であった
もう少し、注意を払うべきであったのだ

こいつ・・・
海山に民宿が有ると言う
民宿を探そうと、トンネルを潜り 海山の町へ引返し
地元の人に尋ねて周った。
私は、懸命に探したのである。
にもかかわらず どうであらう長野
知らぬ顔の半兵衛
傍で平然とタバコを吹かしているのである。
私はタバコはやらない
金沢駅でも
旅行客でゴッタがえす中

キップの手配をしようと頑張っている私の横で
なに喰わん顔で以て、タバコを吹かしていた。
「 こいつ 」 ・・・そう想った。

一軒の民宿を探し当てた。
ところが此の民宿
素泊まりのみで、食事のサービスは無いと謂う。
選択する余地なぞあらうべくもない
畳の上で眠れるだけでも此れ幸いと即決したのである。
 
ところで
まだ日は高い
「 泳ごう 」・・と
宿2階の部屋で 海パン ( 海水パンツ ) に着替え、三度トンネルを潜った。  (ミタビ)
海辺に着いたものの、
海には入らなかった。
泳ごう とは口では言ったが
朝から、まともに食事は取っていない二人
斯くも すきっ腹では
とうてい、泳ぐ気にはなれなかったのである。
 景色を見ただけ
未だ夕暮前なれど
近所のレストランで夕食を取ることにした。
一日、ほとんど何も食べちゃあいなかったのだから
なにを食べたのかも覚えちゃあいない
腹は減っているに決っている
然し、食べられない
注文したもので手を付けたはカニだけ、後は殆ど残したのである。

夕暮の景色を味うこともなく宿へ帰った。

宿では風呂には入れると謂う。
さもあらん
汚れた体で布団の中には這入れまい
風呂から上がると
座敷では、宿の家族一同が一家団欒の食事を取っていた。
「 お風呂頂きました 」
2階の部屋に戻ると、
バタンキュー、そのまま眠りに就いたのである。

つくづく 長い一日であった。
 

次の朝、
午前7時半頃目が覚めた。

今日も、夏の快晴が続いている。
此日はレインボーラインを周る日程である
然し、二人から
旅行気分は スッカリ 失せていた。
なによりも疲れた。
そればかりか、
互が互に ストレス を感じて、ツンツン している情態なのである。
もう、これ以上二人して旅行なぞ出来様ものか
「 もう、帰る 」
・・・と、
たった一日で終焉 となって仕舞った。
若きゆえの失敗である
・・・
会話も途絶え
黙々とした帰り仕度の中
ふと
窓外に目を遣ると
夏の山肌、雑木林の、なんとも怠い景色があった。
そんな欝状態で白けた私の心に
♪ あーだから今夜だけは
   きみを抱いていたい ♪
・・と、
隣りの部屋から、ラジオから、
チューリップの歌声が聞こえてきたのである。
そしてそれは
私の心に沁みたのである。

コメント

四つ葉のクローバー と ドナドナ

2021年06月26日 16時27分10秒 | 2 男前少年 1963年~


カタバミ
綺麗なハートの形をした三つ葉である。
私はこれをクローバーだと思って、これの四つ葉を探したけれど、
どんなに探しても、ハートが四枚の葉は見つからなかった。
それでも私は
『 願い事が叶う 』 ・・・四つ葉のクローバー
どうしても欲しかったのである。
 クローバー
四つ葉のクローバー
昭和40年 ( 1965年 )、小学5年生
「 四つ葉のクローバーなら、なんぼでもある 」
そう、同じクラスの吉井が言う。
私はワクワクしながら、彼等の住む 日本住宅公団都島団地に足を運んだ。
約束の場所に行くと、吉井の外、同じ団地に住む、谷本や西川も居た。
「 ここや。ここになんぼでもあるぞ 」
吉井がそう言って指を指した。
「 これ、クローバーとちがうやろ 」
「 いや、クローバーや。 これが、クローバーなんや 」
吉井、谷本、口を揃えて、そう言うのである。
・・・想うてたんとちがう・・・
そう、想った。

私が勝手に、カタバミをクローバーと想い込んでいただけのこと。
「 そうか、これがクローバーか 」
吉井の指さしたクローバーの塊かたまりを、立った儘 覗いて視るだけで、
あっちにも、こっちにも・・・・有る、有る。
嬉しくなって、もう夢中になって摘んだのである。
四つ葉のクローバーを、いっぱい手にした私、
そんなにたくさん、願い事 叶えてどうする。


天下無敵
四つ葉のクローバーは、ひとまず置いといて。
我々は、長さ70㎝程の草木の幹を刀代りに対戦して遊んだ。
テレビドラマ、『 隠密剣士 』 や、『 忍者部隊月光 』 等が、我々少年に 『 忍者ブーム 』 を巻き起こしたは先年。
五年生の高学年にもなると、單にチャンバラごっこするのでは物足りず、
「 だれが一番強いか 」 ・・・と、それは剣道の対戦の如く 対決したのである。
いつも必死の私、誰にも負けはしない。『 天下御免の向う傷 』 だ。
「 お前ら、弱いな 」 と、私が自慢する。
ところが、皆は、どこ吹く風とばかり さほど悔しがらないのだ。
こんなことに必死になることもあるまいに・・・・そんな心構えなのである。
やっぱり、彼等は都会のボンボンなのだ。  ・・・そう想った。
「 都会のもんは 弱い。田舎のもんは 強い 」 と、伯父が云った意味とは、
田舎もん・・この コンプレックス、此を 力にする・・そういうことなのだ。


昭和40年 ( 1965年 )  林間学校・高野山
大阪へ移住して三年目、地域に まだ馴染んでいなかった。
そして、クラスメイトとも 未だ未だ 距離があったのである。
その分、私は頑張った。その頃のものである。

ワンダースリー
1965年6月6日~1966年6月27日 フジテレビで放映
必死ではないが、視ていた。

♪ とてもすき  ボッコ  プッコ  ノッコ
    ・・・
   それゆけ  ワンダースリー ♪

クラスメイトの西川
『 オッコチャン 』 と、呼ばれていた。
ワンダースリー・キャラクター 馬の 『 ノッコ 』 が その素である。
スマートでクラスの人気者であった。
昭和41年秋、彼が転校するを惜しんで クラスで お別れ会を催した。
そこで彼が、
「 お別れの挨拶として歌います 」
と、一人唄った。

君の目の前の小さな草も       
生きている  笑ってる             
ホラ  笑ってる                              

君の目の前の小さい花も
生きている  泣いている 
ホラ  泣いている 

君が遠くに見る  あの雲も山も
生きている  歌ってる
ホラ  歌ってる

ふまれても  折られても
雨風が吹き荒れても

君の目の前の  この僕の手に
君の手を  かさねよう
ホラ  ともだちだ
ホラ  歌おうよ
ホラ ともだちだ


昭和40年 ( 1965年 )
坂本九

オッコチャン
しんみりと、また上手に唄った。  私は 想わず聞き入ってしまった。
君の目の前の小さな草も
生きている  笑ってる
ホラ  笑ってる
・・・それは、
私の心に沁みたのである。


「 ドナドナ 」
ある晴れた昼下がり  市場へ続く道
荷馬車がゴトゴト  子牛を乗せて行く
かわいい子牛  売られてゆくよ
悲しそうな瞳で見ているよ
ドナドンドナドナ  子牛を乗せて
ドナドンドナドナ  荷馬車が揺れる

巷では、流行りの 『 歌声喫茶 』 なるものがピークに達していた 昭和41年 ( 1966年 ) 、
小学六年生の私、哀愁を感じる これらの歌をよく歌った。
「 ともしび 」
夜霧のかなたへ  別れを告げ
雄々しき 男子ますらお でてゆく
窓辺にまたたく  ともしびに
つきせぬ乙女の  愛のかげ
 ・
・・・この画像から
サークル、労働組合、
なぜかしらん、政治臭を連想してしまう。

此を、文化として捉えるのか。
それとも、単なるファションとして見るのか。
この時代の若者といえば、私の叔父や叔母の世代である。
この若者たちは、何を求めていたのであろう。
彼等の人生観、亦、世界観はどういうものであったのか。
そして、この時代、日本は何処へ行こうとしていたのであろうか。
・・・そんなことを考えてしまう。
当時、12歳の私にこのような体験はない。
その雰囲気すら知らないのである。
私には、全く 見当もつかない世界なのである。
同じ頃、叔父に連れられて、
『 兄弟仁義 』 の映画を観て、素直に 男の世界 に痺しびれた私。
・・リンク→俺の目を見ろ 何にも言うな
やっぱり、
育ちが違う・・・のである。
しかし、そんな私でも、
「 ともだち 」 「 ドナドナ 」 「 ともしび 」
聴かば、ジーンと心に沁みるのである。

コメント

青年は夢を追いかけろ

2021年06月25日 15時04分47秒 | 5 青春のひとこま 1973年~

金を追いかける人生はつまらん
夢を追いかけろ
貧乏しても、納得した人生をおくれ
吾々はそういう人生に憬れた

 
 中之島・中央公会堂    1975年1月17日 OM1で 撮影

奇妙な世界
「 講演があるんや、一緒にいかへんか ? 」
親友水阪に、そう誘われての事
仕事を終えて、
中之島の中央公会堂へ

有名な中央公会堂
大ホールへ入るだけでも、私にとっては値打ちがあったのだ。
会場は満杯、しかも盛況であった。 ( ・・・そんな風に見えた )
而も
周りの皆 が 誰も 元気なのである。

しかし、
私が考えていたような講演ではなかった。
自動車のエンジンの排気ガスを減少させて、
エンジンの出力を高める装置の説明に
周りの皆が皆、真剣に聞き入っていた。
それは
「 こんな程度の内容を、いちいち、メモするか?」
・・と、感心する程、熱心なのであった。
私は、その光景を目の当たりにして、不思議に思ったのである。

「 そんなに良いものがあるのなら、自動車メーカーが既に開発しているだろうに 」
・・・そう想った。

装置の説明が終わると、
会員と称する人がステージに現れた。
司会者の問に応える形で、会員に成った経緯や、体験談を語るプログラムだつた。

自営業風の、いかにも実直そうな 50代中年男性、
「 会員に成った最初はどうでしたか 」 ・・・・ 「 不安でした 」
「 儲けはどうでしたか ? 」 ・・・・ 「 0 でした」
「 1ヶ月経って、どうでしたか ? 」 ・・・・ 「 0 でした 」
「 3ヶ月経って、どうでしたか ? 」 ・・・・ 「 ●万円、儲かりました 」
ここで、拍手が起こる。
「 半年経って、どうなりました ? 」 ・・・・ 「 ●十万円、儲かりました 」
拍手が大きく成る。
「 1年経って、どうなりました ? 」 ・・・・ 「 ( 儲けが ) ●百万円、に成りました 」
大拍手と成った。
そして、今は年間 ●千万円を越えた ・・・と、嬉しそうに語るのである。

次は30代の独身女性 ・・・と、体験談は続いていった。

体験談の後は、成功者の表彰式
彼等は会場の皆からの拍手喝采をあびながら、表彰状を手にしたのである。
表彰される皆が皆、
短期間で 『 大儲け 』 したのだと謂う。

勧誘
大ホールから、個室へ移った。
親友の水阪は別室で待機とのこと、相手方が4人ほど室に居た。
部屋のドア前に 一人が立っている。
テーブルの横に もう一人が立っている。
中央のテーブルを挟んで 腰かけた。
形 は、マン ツー マン
私に圧迫感を感じさせない程度に囲んでいる。
彼等は、それをよく心得ているのである。

そして
帯の付いた札束 一つ
テーブルの上に、
私の目の前に
置いたのである。
100万円 ・・・自立する程の厚みの大金
月給 6.7万円の私、年収でも満たない額である。

私への勧誘が始まった。
会員に成るには 装置を 4個購入する。
装置は、最初の4個 売れば、チャラ に成る。
装置を売る事より、会員を造れ
子会員を4人 造れば 以後は利益だけ ・・・と言うのである。
あなたなら4人くらい造る かいしょ あるでしょ 」
自尊心を巧みについてくる。
子会員4人が、又会員を4人造ると 16人が あなたの孫会員に成る。
会員が増える度に、配当金が入る仕組みだと言うのである。
「 更に、孫会員がそれぞれ4人子会員を造る と 」
「 後は、表彰された人の様に 『 大儲け 』 です 」 ・・・と。
100
万円の札束 に、手を かざしながら
巧みに、勧誘して来るのである。

「 ハハーン、あいつ ( 水阪 ) この手で、ひっかかったなぁ 」

「 金儲け してまでも、金は要りません 」
金が欲しい ・・・誰もの願いであらう。
しかし私は、関心が無い
・・・と、
キッパリ と 断ったのである。

別室の水阪と二人、中央公会堂から出た。
「 お前、講演会や言うて騙しゃがって 」
「 すまん、すまん 」
「 お前も、また、友達に騙されたんやろ 」
「 お前のことやから、友達の手前、引かれんようになったんやろ 」
「 男気をつかれて、「 ヨッシャー やったらぁ 」 ・・いう気に成ったんやろ 」
「 そやねん でも 俺も、これを機に手を引くわ 」
「 払ろうた金、もったいないけど 」
「 それがええわ、簡単に儲かる筈 ないもんな 」
「 ん 」

昭和49年 ( 1974年 ) 7月23日 (火)
二十歳の青年 の私が
マルチ商法 APO 
の、大会に参加した時の物語である。
 中之島・中央公会堂
1975年1月17日 OM1で 撮影
 


「 金を追いかけるな 
夢を追いかけろ 」
それは
青年の私が
心に刻んだ 理想であったのだ
  

コメント