昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

8 大和撫子

2022年07月21日 07時02分22秒 | 8 大和撫子

大和撫子

        映画・野菊の如き君なりき・・・民子
目次
クリックすると頁が開く


大和撫子 は 日本女性の鑑

としていて、清楚
慎まやかで
一歩己の身を引いて男を立て、男に尽す
甲斐甲斐しい女性を謂う
男児は、大和魂
女は、大和撫子
5,6歳の頃 大人達から、そう聞かされた
私の親の時代の、理想像である

おさげ の女性

映画「美しい十代」の女優・西尾三枝子

昭和30年代
日本の高度成長の始まったこの時代
国全体は、まだまだ、貧しかった
しかし
明日のために、一生懸命生きようとした時代であった
明日に希望がもてる時代だったと思う
そして、何よりも
「優しさ」 を、大切にした時代だったと思う
♪ おさげが風にゆれていた
わすれないさ わすれないさ いつまでも ♪


七変化

琴姫さんの
悪を斬る強き、且つ、華麗なる姿に
たかが、8才の少年なるも
私は
女性の持つ 優しさを感じた
それは
主演の松山容子さんの
その、風格、気品から
その、優しい面立ち から
そう
感じとったのである
「女性は優しくて綺麗なもの」
・・・と

私にとって
琴姫さんは、やはり
憬れの
大和撫子なのである

二十四の瞳 花の絵
 松江
一つはなをまがったときである。
前の小ツルがきゅうに立ちどまって海のほうをながめた。
先にたつものにならう雁のように、みんなも同じほうを見た。
小ツルが歩きだすとまた歩く。
やがて、いつのまにかみんなの視線は一つになって海の上にそそがれ、歩くのを忘れてしまった。
はじめから小ツルは知っていたのであろうか。
それともたった今、みんなといっしょに気づいたのであろうか。
静かな春の海を、一そうの漁船が早櫓でこぎわたっていた。
手ぬぐいで、はちまきをしたはだかの男が二人、力いっぱいのかっこうで櫓を押している。
二丁櫓のあとが、幅びろい櫓足をひいて、走るように対岸の町をさして遠ざかってゆくのだ。
もうけんかどころでなかった。
なんじゃろ?
だれのうちのできごとじゃろう?
みんな目を見あわした。
消え去りつつ新しくひかれてやく櫓足から、岬の村に大事件が突発したことだけがわかった。
急病人にちがいない。船の胴の間にひろげたふとんが見られ、そこにだれかがねかされているとさっした。
しかし、またたくまに船は遠ざかり、乗りこんでくる人の判別もつかなかった。
まるでそれは、瞬間の夢のように、とぶ鳥のかげのようにすぎた。
だが、だれひとり夢と考えるものはいなかった。
1年に一度か二年に一度、急病人を町の病院へ運んでゆく岬の村の大事件を、
さかのぼって子どもたちは考えていた。
かつて小石先生もこうして運ばれたのだ。怪我をしたのか、急性の盲腸炎か。
なんじゃろう?
だれぞ盲腸の人、おったかいや?
あとから追いついてきた男の子もいっしょにかたまって評定した。
女はだれも声をたてず、男の子がなにかいうたびにその顔に目をそそいだ。
そんななかで松江はふと、今朝家を出かけるときの母の顔を思い浮かべた。
瞬間、黒いかげのさしたような不安にとらわれたが、そんなはずはないのだと、つよくうち消した。
しかし、頭痛がするとて顔をしかめ、手ぬぐいできつくきつくはちまきをした、
その結び目のところの額によっていた
もりあがった皺を思い出すと、なんとなく払いきれぬ不安がせまってきた。
はじめに、今日は父に休んでもらいたいといった母は、しかし父は仕事を休むわけにはいかなかった。
「松江を休ませりゃええ。」
父が、そういうと、そんならええといい、松江にむかって、
「学校、はじめてなのになァ。だけんど、遊ばんともどってくれなあ。」
思いだして松枝はどきどきしてきた。
するといつのまにか足は、みんなの先を走り出していた。ほかの子どももついて走った。
足がもつれるほど走りつづけて、ようやく岬の家並みを見たときには、
松江のひざはがくがくふるえ、肩と口とでいきをしていた。
村のとっつきがよろずやであり、そのとなりのわが家に、おしめがひらひらしているのを見て、
安心したのである。
しかし、その安心で泣きそうになった彼女は、こんどは心臓がとまりそうになった。
井戸ばたにいるのが母ではなく、よろずやのおばさんだと気がついたからだ。
はずんだ石ころのように坂道をかけおりた松江は、わが家の敷居をまたぐなり、
走ってきたそのままの足のはこびで、母のねている納戸にとびこんだ。
母はいなかった。
「お母さん・・・・・・・。」
ひっそりとしていた。
「おかあ、さん・・・・・。」
泣き声になった。よろずやのほうから赤ん坊の泣くのが聞えた。
「うわあ、おかあさーん」
力のかぎり大声で泣き叫ぶ松江の声は、空にも海にも
ひびけとばかりにひろがっていった


東洋の魔女

女性に、真のヒーローはあり得ない

昭和44年(1969年)、中学三年生の吾々 少年男子が
鮎原こずえ をとおして観たものは
真に
大和撫子
だったのである

「だけど涙がでちゃう 女の子だもん」

此は
永久に不滅である
・・・
そう想う

「私は待っています」 と、伝えて
私が少年の頃から今尚、擁き続ける
私の想う 「私の時代・昭和の女性」
が集約された詩であらう

歌は時代を反映すると謂う


男の人が そんな事してはいけません!!
昼食は、事務所の食堂代わりのテーブルで、皆と一緒に取っていた
お茶のサービスは、事務所の3人の女性がして呉れていた
食後の片付けから食器洗いまで、全て女性等がして呉れるのである
それが日常茶飯事
それが仕事の一部かの如く・・・何も特別の如くでもない
私は、それが当たり前 と想っていたのである

東京だよ おっ母さん
 

島倉千代子から
女性の  優しさ を感じる
それは
私の 女性への憬れ そのもので
幼き頃の 望郷の想い へと 
繋がってゆく
其は、吾母の懐・・・そんな気がする

郷愁
島倉千代子 が 唄う 「女性」
私に潜在する理想の女性像である

真の女性を感んじさせる眼(まなざし)

したむきなる眼差しは
控えめ、恥じらい
これこそ、大和撫子
日本の
女性のもつべきものであらう


絶世の美人
昭和・私の記憶
私が存した、昭和の時代に於いて
この、瞬間 こそ 華
これぞ 私の想ふ 
絶世の美人である

 

次頁
9 昭和・私の記憶 番外
に続く


コメント    この記事についてブログを書く
« 東京だよ おっ母さん | トップ | 一緒に行ったろかぁ »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。