昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

笑いたいのをこらえたのに

2021年05月16日 05時10分57秒 | 7 大阪ヒーロー

私は
「 お笑い 」 が、
好きである。

昭和38年 ( 1963年 )
大阪に引越してきて、
テレビで初めて 「 漫才 」 を 知った。
漫才、落語、漫談、浪曲、講談、新喜劇 ・・
8歳の少年の私
これを、
「 おもしろい 」 ・・・と、思った。
こういう芸能文化の在る 「 大阪 」
とてつもなく 大都会に想えたのである。
少年は感動したのである。

 後年のダイラケ
ある日曜日
9歳の私は近所の散髪屋へ
店のラジオから、ダイマル・ラケットの漫才が流れていた。
私は、時々笑みを浮べて、聞き入っていた。
「 オモシロイ ・・
ドウシヨウ ・・」
散髪は、カミソリ に さしかかる。
「 笑ろうたらあかん・・」
9歳の少年は、堪えようとした。
しかし
堪えようとすれば するほど 可笑しくなって
とうとう  大笑い
吹き出してしまったのである。


左端に、ダイラケ が居る。 この頃のダイラケの漫才を聞いていたのである

吾々が子供の頃
「 お笑い番組 」 を、家族全員で視ていた。
親と一緒に、視ていたのである。
そして、親と一緒に、「大笑い」 していたのである。

時代は進化する。
58年という時の経過は遥かである。
今や
家族全員で視る、お笑い番組 は無い。
家族全員で、一緒にテレビを視る事もない・・・


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