しょぼい毎日

いつも理想はでっかいが、結果はしょぼい・・・。そんな日常を綴ってみました

1円電車と廃墟をみる(4)

2011-06-09 23:57:14 | 旅行記

6月5日(日)

トワイライトな旧明延鉱山地区を後にして、帰路につきます。行きと同じ道を通り神子畑まで戻り155ます。天まで届きそうなコンクリートの階段状の遺構は南米ペルーの

マチュピチュか地球防衛軍の基地跡かといったスケールに感じます(両方とも見たことは無いですが)。160

道路脇に建っている洋館「ムーセ旧居」が気になっていましたの、入ってみます。長崎のグラバー亭か神戸の異人館と見まがう程のハイカラな建築物は、廃墟だらけの風景の中に、唯一生命感があり、場違いな感じがします(私が入った時は誰一人居ませんでしたが)。この建物は、かつての鉱山事務所や診療所として使われていた洋館で、かつての神子畑選鉱場の写真や模型等を展示したプチ鉱山資料館となっていました(無料)。ここの展示物を見ていなければ、目の前に広がる巨大なコンクリート遺構と、東洋一と言われた神子畑選鉱場の現役時代の姿とを関連付けて想像することは出来ませんでした・・・・。

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再び外に出て、神子畑選鉱場遺構に向きあいます。向かって左端にインクラインが設けられ、遥か上方の明神電車(明延からの鉱山鉄道)の停車場のエリアとを結んでいました。明延から運ばれた鉱石は列車から降ろされ(落され)下の階層に下って来る間に、巨大なマシンにより、より分けられていた様です。その技術は高かったといいます。明延エリア自体は、鉱床が枯渇して止めたのではなく、昭和最末期の急激な円高により海外との競争力を失ってやめざるおえなくなったもので、最期まで持てる最新の技術を投入していたようです。それでも、力尽きてしまった・・・・。ここが国内金属鉱山の最後の砦だったと言います。この巨大な無人遺構を前にしてみて、日本の国の将来とダブって見えてしまうのでした。

 

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遥か高山の地に栄えたマチュピチュでしたがそこに暮らす169人々が消えてしまった様に、この地にいた大勢の人影もすっかり消えてしまいました。 両者とも、石の遺構を残して・・・・。


1円電車と廃墟をみる(3)

2011-06-08 21:35:27 | 旅行記

2011年6月5日(日)

一円電車の運転会場と隣接する明延振興館前にも、明神電車の車両達が展示されています。

064 072 ←役員専用電車として活躍した<しろがね号>。機関車に見えますが、お客を乗せるので電車なのでしょう。扉が開き、内部が覗けますが、すでに朽ち始めており、VIP専用車の面影はありません。ちなみに、先ほど乗車した<くろがね号>は、元々三菱鉱業社長が明延を訪問する際に利用するため急造された車両との事。とにかくユニークな車両が多い!

123 少し離れた<あけのべ自然学校>にも、今まで見てきた車両よりさらに小さい、軌間500㎜のバッテリー機関車と鉱石車が展示されています。こちらは全身さびだらけで、朽ちるに任せています。ここから少し山に入っていくと、踏切跡があると聞いて、山道を登ります。少し開けた場所に500㎜軌道の跡を発見。抗口は鉄扉で閉鎖されています。反対側はすっかり整地されていましたが、何かの施設の跡の様です。少し視線を上の方に向けると木々に隠れていくつかの建物が見えます。そして上方の施設に向かってインクラインの跡が伸びています。ここが、かつて明延鉱山の112116中心だったエリアだったのです。インクラインの伸びている上部エリアに、鉱山の重要施設が立ち並んでいた様です。神子畑に通じていた明神電車(一円電車)はここから発着していたようです。S62年に閉山となり、4半世紀という時間が流れましたが、時の流れは風景を変えてしまったようです。それにしても、かつて4000人が暮らしていた明延ですが、今はそのほとんどがみどりに帰ろうとしている現実が実感できます(現在は人口140人程)

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←上部に大規模な鉄道施設や鉱山施設が集中していた様です。今やそれらの跡は自然に帰ろうとしています。看板がなければ気がつかなかった。


1円電車と廃墟をみる(2)

2011-06-07 20:31:42 | 旅行記

2011年6月5日(日)

039 033 乗り込んだ客車は<くろがね号>。客車は、元々この地で活躍していたものの様です。中に入ってみてナローゲージの車両の狭さに感動を覚えます。ロングシートに腰をかけると、向かいの席にほとんど膝が付いてしまいます。木の床は飛び跳ねると、破れそうな位のペラペラ感。現役時代の明神線は、ほとんどがトンネル区間であった為か、窓は危険防止のため鉄格子がはめられ、囚人護送車の様です。片道70m程の距離を往復するだけとの事ですが、ゆっくり走るので感覚的にはもっと長い距離の様に思えます。平地に新たに線路を引いたので(元々の軌道とは関係ない場所)、乗り心地は予想外に良かったです。客車列車に乗ったのは何年ぶりでしょうか?ほんの数分の乗車ですが、楽しいひと時でした。将来は、山の方に残されている600mの軌道に列車を走らせたいと伺いました。それには費用がまだ足りないとの事。乗車に1円しか出さなかったのが申し訳ない気持ちになりました・・・。私ひとりのために、5名程のスタッフで列車を出してくれたのですから・・・・。運転終了時間の15時が迫っており、私の乗車した列車が最終かと思っていたところ、一組の家族連れがやって来て、あれよあれよと言う間に乗り込んだと思うと列車は出発していきます。乗るのも楽しいですが、外から動くのを見ているのもまた楽しい・・・。客車の中で子供たちがはしゃいでいる様子が見て取れ、外のに居る自分にもその気持ちが伝染してきます。098

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1円電車と廃墟をみる(1)

2011-06-07 00:58:16 | 旅行記

2011年6月5日(日)

002 高速道路(&本四架橋)休日1000円もあと3週を残すのみ。<チャンスは最大限に生かす>はシャア大佐の最終回でのお言葉ですが、私もそれにあやかり、四国から脱出します。鳴門IC から明石大橋を経由し山陽道、播但連絡自動車道路をひた走り終点和田山に近い朝子ICまでひた走ります。ここからカーナビとiPadの地図ソフトを頼りに進路を西にとり、山の中に入っていきます。人家も絶え、周囲が緑に支配されたと思われた頃、突然視界に巨大な人工物が飛び込んできます。神子畑選鉱所跡です。強烈に興味をそそられますが、今こちらで長居をする訳にはいきません。これから、さらに山間に分け入り明延の1円電車を見に行きます。本日、地元のボランティアによって復元された列車が走るとのこと。ところが明延地区への案内表示は看板や幟等もなく(見つけられない程貧弱なのか?)、iPadもドコモも圏外となり、最後の綱のカーナビも山間地のため地図の縮尺が大きくて役に立たず、頼りとするのは当てにならない自分の勘のみ・・・。諦めかけたところで鉱山学習館の案151 025 内板を発見。側道を上がります。行き止まりにたくさんの鉄道車両が展示してあります。とは言え、ここには動いていそうな車両は見えません。みんな博物館の剥製の様に静かに鎮座し016てい006 ます。あまりに個性的な車両ばかりで、時間が経つのを忘れて見入ってしまいます。

と、そこにヘルメットをかぶった一団が現れ、引率者に案内されて地下の坑道に入っていきます。後で聞いたところでは坑道見学会(有料)の参加者であった様です。立ち去ろうとするスタッフの方に、電車の運転は今日は終わったのかと聞いてみると、<ここからもう少し集落に入った地区でやっているが、もう間もなく終了するので急ぐように>と言われました。慌てて言われた場所に行ってみると、小さな機関庫と小さな屋根の下に、小さなバッテリー機関車と小さくてクラッシック(要するにぼろな)客車が連結されて、お客を待っています。

026 <まだ乗れますか?>と声を掛けると大丈夫との事。

スタッフが言うには、この小さな機関車21号機は、明延で使用された機関車ではなく、余所の鉱山で使用されていた同型を入手し、ニチユの子会社で整備してここに持ってきたもので、ここでは機関車は20号機まであったらしいので、それに続く機関車と言う訳で21号機を名乗っているとの事。明延カラーのブルーに塗りなおしてもらっています。

乗車協力金として1円を支払い、小さな車両に乗り込み出発を待ちます。乗客は私ひとり。贅沢な客車列車の(けれど極めて短い)旅が始まります・・・。