6月5日(日)
トワイライトな旧明延鉱山地区を後にして、帰路につきます。行きと同じ道を通り神子畑まで戻ります。天まで届きそうなコンクリートの階段状の遺構は南米ペルーの
マチュピチュか地球防衛軍の基地跡かといったスケールに感じます(両方とも見たことは無いですが)。
道路脇に建っている洋館「ムーセ旧居」が気になっていましたの、入ってみます。長崎のグラバー亭か神戸の異人館と見まがう程のハイカラな建築物は、廃墟だらけの風景の中に、唯一生命感があり、場違いな感じがします(私が入った時は誰一人居ませんでしたが)。この建物は、かつての鉱山事務所や診療所として使われていた洋館で、かつての神子畑選鉱場の写真や模型等を展示したプチ鉱山資料館となっていました(無料)。ここの展示物を見ていなければ、目の前に広がる巨大なコンクリート遺構と、東洋一と言われた神子畑選鉱場の現役時代の姿とを関連付けて想像することは出来ませんでした・・・・。
再び外に出て、神子畑選鉱場遺構に向きあいます。向かって左端にインクラインが設けられ、遥か上方の明神電車(明延からの鉱山鉄道)の停車場のエリアとを結んでいました。明延から運ばれた鉱石は列車から降ろされ(落され)下の階層に下って来る間に、巨大なマシンにより、より分けられていた様です。その技術は高かったといいます。明延エリア自体は、鉱床が枯渇して止めたのではなく、昭和最末期の急激な円高により海外との競争力を失ってやめざるおえなくなったもので、最期まで持てる最新の技術を投入していたようです。それでも、力尽きてしまった・・・・。ここが国内金属鉱山の最後の砦だったと言います。この巨大な無人遺構を前にしてみて、日本の国の将来とダブって見えてしまうのでした。
遥か高山の地に栄えたマチュピチュでしたがそこに暮らす人々が消えてしまった様に、この地にいた大勢の人影もすっかり消えてしまいました。 両者とも、石の遺構を残して・・・・。