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敗戦か終戦か

2021-08-15 | 日記

8月15日は「終戦記念日」だという。ある人々は「敗戦記念日」と名付けている。「終戦」と「敗戦」のどちらでも良いという人々もいるが、「敗戦」と言わず「終戦」にこだわる人が居るし、あれは「終戦」ではなく「敗戦」と言うべきだという人もある。確かに歴史として、それが「無条件降伏」を受入れた紛れもない「敗戦」だったことを今更疑う人は居ないだろう。

 同時に、多くの日本人にとってその日が「戦争が終わった」と安堵した日であり、彼らには敗戦でも何でも良かったのだという気もする。確かに、その日まで「絶対に勝つんだ」と竹やり訓練に明け暮れたり軍需工場に動員されて武器を作っていた毎日の中で、「敗けたんだ」という虚しさや悔しさがあったに違いないが、自分の親たち世代の多くの人から聞かされた率直な感想では「もうこれで空襲に逃げ惑う必要が無くなった」という安堵や嬉しさの方がむしろ強かったと感じるからだ。安堵感と共に「ああ、自分は戦争を生きのびた」という嬉しさを感じたという。

 実際、8月15日は「無条件降伏受諾の玉音放送があった日」であり、戦後を生きた多くの人々に降伏による戦争終結を知らしめた日であるが、正式に戦争が終わった日ではない。正式な「戦争終結」は9月2日に日本が降伏文書に署名した日であり、外地にいた日本軍の多くは8月末まで戦争を続けていた。それから言えば、本来は9月1日か2日を戦争終結の日にするべきという気もする。しかし、おそらく連合国側にしても「無条件降伏の受諾」をもって勝利を喜んだのだろうから、8月15日は人々の「心の中の戦争終結の記念日」と言えるかも知れない。

 8月15日になるとそんなことをいろいろ思わされる。「終戦の日」という名称にこだわる多くが「あれは正義の戦争だった」と言ったり、正義と言わないまでも「それなりの儀があった」と説明したがる。「国を守る戦争」との意義付けも同様だろう。「敗けた」と認めたくない気持ちの表れなのだろう。しかしあの戦争に「大儀」を掲げて打って出た立場に人々こそ、その「大儀」が打ち砕かれ敗れ去った紛れもない「敗戦」を悟った日であるはず。その戦争に政府によって狩り出され、戦場に送られたり軍需工場で働かせられた民間人の多く、あるいは空襲に逃げ惑い軍人に脅されて仕方なく竹槍訓練を続けていた人々にとっての8月15日は、「ともかくも、これで何とか明日からも生きていけると希望を抱いた日」という意味合いが強く、戦争の惨禍から逃れられた「戦争が終わった日」であっただろうと思える。

 この日を迎えるたびに、戦争の大儀」や「日本は絶対に勝つ」と思い詰め信じ込んでいた人々が心から「敗戦の日」と受け止め、逆に「戦争の終結」に安堵した人々が素直に「終戦の日」と口にできるようになれば、この国の平和に関する議論ももう少しまっすぐなものになる気がするのだが、そうはならないのだろうか。

 

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