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レジ圧の増加?

2020-08-14 | 日記

コンビニのレジ袋が有料化されたからレジ圧を感じる人が増加した、という話を聞いた。以前はレジ袋に店員が詰めてくれていたのだが、エコバッグを持って自分で詰めるのでより時間が掛かるようになったと言うのである。

 まぁ、何事に付け待たれ・待たされるのは世の常なので、想定された織り込み済みの変化に過ぎないと思うが、実際それを苦にしてコンビニから遠ざかる人までいるという。

 レジ時間の伸びの検証として、店員に聞かれてからポイントカードをバッグから取り出したり、金額を言われてから財布を取り出すとか、レジを打つ間は待ち続けレジ完了の後にエコバッグを取り出して詰め始めるという設定もいただけない。最大限時間を掛けて計って「レジでの時間がこれだけ伸びた」と比較するのもどうかと思う。基本、変わっているのはレジ袋かエコバッグかだけなので、その比較だけで良いのではないか? 慣れた店員が袋詰めするのと客がエコバッグに詰める時間を比較すれば確かに慣れた店員が早いと思うが、数十秒の差は出ないだろう。以前は客がカードや財布を取り出す間に店員が詰めているというが、カードの処理や金の受取り、そしてつり銭を渡す間は店員の袋詰めの手が止まるのだからどちらが先でも時間は大して変わらないはず。結局、変わったのは「店員が詰めれば、レジ待ちの ”圧” を店員の手際のせいにできたが、自分で詰めるようになれば袋詰めの間の ”圧” を自分が感じなければならなくなった」ということではないか。

 コンビニやスーパーのレジが今ほどシステマティックでなかった時代、次の客を待たせてしまうのも待たされるのも当たり前だったと思う。早くレジを終えようとポイントカードやプリペイドカードを手元に用意し、金額表示の積算を見て店員の請求より前にお金を用意するのも、それを ”圧” を感じたせいだと言えば確かにそうである。しかし、人間社会でそのような "圧” が存在するのは当然で、お互い様で済む範疇ではなかろうか。それを知った上で”圧” を感じる側も掛ける側も互いを気遣うのが社会の常識、いわゆる「日本人の思いやり」という自負に含まれるのではなかろうか。

 待つ側は文句を言わない、待たせる側は時間短縮を心掛けることを当然と考えて来たはずである。世界が驚いた日本人の美徳、「列に並び、順番を守る」「黙って静かに自分の順番を待つ」の当然の発露で良いではないか。それを「レジ袋有料化の弊害」とか「あらたなレジ圧の発生」などと問題視する理由が分からない。必要なのは「変革の当然の帰結として若干の待ち時間が発生した、が、その些細な ”圧” を良い社会に進むための一人一人の貢献と感じよう」とする発信ではなかろうか。理由と必要性があって「レジ袋が当然の便利な社会」から「プラスチックを減らすためのレジ袋有料化社会」に進もうとしているなら、レジ圧の若干の増加はその変革に付随する「容認可能な」変化と捉えるべき。当然、それを取り上げるならば、「レジ袋有料化によって得られる新たなメリット」との相殺を考える姿勢が伴っていないと「単なる我がまま」に感じられてしまう。

 もし皆が本気でプラスチックを減らす気なら、これくらいの「不便」では済まない。不便に耐え、様々な場面での "待ち” や ”圧” を乗り切らなければ変革はない。新聞紙で包んだ野菜や魚を入れた買物籠を下げていた世代、時代の変革を目撃しようと大阪万博の真夏・炎天下で3時間をアスファルト上に並び待ち続けた世代は、その「不便」と今の「当然の便利さ」の違いを体験として良く知っているはずである。 

 


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