8月15日は終戦記念日となっている。いわゆる「玉音放送」で降伏を国民に宣言した「敗戦の日」と言う人々もいる。子供の頃から毎年、8月15日の正午にはテレビやラジオから流れる合図とともに黙とうを捧げて来た日でもある。8月15日が近づくと、例年、75年前の戦争にまつわるドラマやドキュメンタリー番組があちこちで放送されている。今年は戦後75年目になり、戦争体験の実体験を持つ人々はさらに少なくなった。最近は、戦争体験の語り部たちの減少を意識した「語り継ぐ」ための番組や行事が増えたと感じる。
確かに、第二次大戦・太平洋戦争を体験した人々は高齢となり、彼の戦争の実態を体験を持って語れる人は減っているし、いつかは居なくなる。それを聞き継ぎ・記録して語り継ぐことには意義があると考える。しかし、その終戦の日以降の出来事はどう語り継がれているのだろう。東西冷戦の始まりを受けての講和条約と日米安保条約の選択、朝鮮戦争での日本の役割と選択、その後のベトナム戦争に日本が果たした役割、ソ連崩壊後の日本の考え方と国際的行動、その他にもいろいろと戦争と平和にまつわる大きな選択や決断があり、それぞれの場面で矛盾や挫折、痛みや不条理を体験した人々がいる。「戦後の政治・社会の動向、国際政治に関することは一部の政治家や官僚に任せればいい」と言ってるなら、「気が付いたら戦争に巻き込まれていた」という過去の体験談の繰り返しである。
彼の戦争を振り返りどうしてそんなことになったのかを一般民衆の体験を通して考えるというのなら、その体験談を現代・未来の選択に生かすのだと言うなら、日本が彼の無条件降伏の日から現在までどういう選択を行い、どういう道を歩いて来たのかについても民衆の体験談を聞いて振り返ってみる必要があるのではないか。そうでなければ、「気が付いたら戦争に巻き込まれていた」という状況を繰り返すだけにしか思えない。太平洋戦争の戦争体験だけが今後の日本の平和を考える縁ではない。彼の戦争の後の75年間、日本の社会が何を体験し、どのような選択をしてきたかの体験・検証の方がより重要だと思うのだが。そうしなければ、今後の日本の選択は再び一部の上層部・専門人たちの手に委ねられることになる。再び「気づいたら・・・になっていた。」という日を待つしかないことになる。