北海道に行ってきました。下は3月2日に富良野で撮ったものです。
※ 写真は全てクリックで拡大します。

この日の朝はたいへん冷え込み、ダイヤモンドダストが見られました。
ダイヤモンドダストとは、空気中の水(水蒸気:見えません)が寒さのために氷の粒になり、その埃のように細かい氷の粒が太陽の光を受け、ダイヤモンドのように美しくキラキラ光るというものです。
でも、光るものを写真にするとなんだかよく分かりませんね。なんだか雪みたい・・・。
動画の方がよく分かったかな、と思うのは、帰ってからの話です
落葉樹の枝は霧氷でまっ白です。霧氷は空気中の水分や霧が風で枝などにぶつかり、そこで氷になってくっつくもので、雪が木にくっつく樹氷とは別物です。
下の写真、左の方には少しダイヤモンドダストが見えていますし、右側の枝の間に丸く見えるのはヤドリギです。

北海道では旭山動物園にも行って来ました。ここで見た動物たちは、順次「そよ風に乗って」で紹介していく予定です。
※ 写真は全てクリックで拡大します。

この日の朝はたいへん冷え込み、ダイヤモンドダストが見られました。
ダイヤモンドダストとは、空気中の水(水蒸気:見えません)が寒さのために氷の粒になり、その埃のように細かい氷の粒が太陽の光を受け、ダイヤモンドのように美しくキラキラ光るというものです。
でも、光るものを写真にするとなんだかよく分かりませんね。なんだか雪みたい・・・。
動画の方がよく分かったかな、と思うのは、帰ってからの話です

落葉樹の枝は霧氷でまっ白です。霧氷は空気中の水分や霧が風で枝などにぶつかり、そこで氷になってくっつくもので、雪が木にくっつく樹氷とは別物です。
下の写真、左の方には少しダイヤモンドダストが見えていますし、右側の枝の間に丸く見えるのはヤドリギです。

北海道では旭山動物園にも行って来ました。ここで見た動物たちは、順次「そよ風に乗って」で紹介していく予定です。
2月8日に記事にした大沢池越しに見えた大覚寺にも寄ってみました。

表門 銅葺屋根の緑青が雪の白さで目立っています
真言宗大覚寺派大本山である大覚寺の前身は、平安時代、都より離れた葛野の地を愛された嵯峨天皇が、后との新居として建立された嵯峨院です。
嵯峨天皇は弘法大師空海と親交深く、当時起こった飢饉に際し、般若心経を写経され、この般若心経は、現在も大覚寺心経殿に伝えられており、現在も般若心経の根本道場として多くの人々に親しまれています。また、「いけばな嵯峨御流」は、嵯峨天皇が嵯峨離宮庭内で手折られた菊を瓶に生けられたことに始まっていて、お寺に接して「嵯峨華道専門学校」があります。

勅使門
貞観18年(876)、嵯峨天皇の長女・正子内親王は、嵯峨天皇と弘法大師の親交と理想を受け継ぎ、嵯峨院を大覚寺と号しました。
その後、鎌倉時代になると、亀山法皇や後宇多法皇が入寺し、ここで院政を行ったため「嵯峨御所」とも呼ばれました。南北朝時代には、南朝の上皇が大覚寺にお住まいになられたことから、南朝は大覚寺統と呼ばれました。
建物は火災や応仁の乱によりほとんどの堂を焼失しましたが、江戸時代初期にはほぼ寺観が整いました。昭和13年(1938)には、大覚寺境内全域が大覚寺御所跡として国指定史跡に指定されています。
このように、大覚寺は皇室ゆかりの寺院であり、代々法親王が住職となった門跡寺院で、あちこちに菊の御紋を見ることができます。


表門 銅葺屋根の緑青が雪の白さで目立っています
真言宗大覚寺派大本山である大覚寺の前身は、平安時代、都より離れた葛野の地を愛された嵯峨天皇が、后との新居として建立された嵯峨院です。
嵯峨天皇は弘法大師空海と親交深く、当時起こった飢饉に際し、般若心経を写経され、この般若心経は、現在も大覚寺心経殿に伝えられており、現在も般若心経の根本道場として多くの人々に親しまれています。また、「いけばな嵯峨御流」は、嵯峨天皇が嵯峨離宮庭内で手折られた菊を瓶に生けられたことに始まっていて、お寺に接して「嵯峨華道専門学校」があります。

勅使門
貞観18年(876)、嵯峨天皇の長女・正子内親王は、嵯峨天皇と弘法大師の親交と理想を受け継ぎ、嵯峨院を大覚寺と号しました。
その後、鎌倉時代になると、亀山法皇や後宇多法皇が入寺し、ここで院政を行ったため「嵯峨御所」とも呼ばれました。南北朝時代には、南朝の上皇が大覚寺にお住まいになられたことから、南朝は大覚寺統と呼ばれました。
建物は火災や応仁の乱によりほとんどの堂を焼失しましたが、江戸時代初期にはほぼ寺観が整いました。昭和13年(1938)には、大覚寺境内全域が大覚寺御所跡として国指定史跡に指定されています。
このように、大覚寺は皇室ゆかりの寺院であり、代々法親王が住職となった門跡寺院で、あちこちに菊の御紋を見ることができます。

沢に作られた大きい池と広い池、ほんとうに大きいのはどちら?
なんて、遊ぶつもりはありませんが・・・
京都市の北西部、京都市右京区の嵯峨野に、1kmほど離れて、大沢池(おおさわのいけ)と広沢池(ひろさわのいけ)が並んで存在します。
まだ昨日の雪が残る2月7日、京都市内のあちこちを探鳥目的で訪ねましたが、鳥の方の収穫はもうひとつでしたので、風景などの紹介を・・・
大沢池は、嵯峨天皇の離宮嵯峨院の庭池として作られた日本最古の庭池です。
古来、嵯峨野一帯は現在の桂川の水が流れ込む沼地で、そのために「沢」の字が含まれているのでしょうが、優れた土木技術を持った渡来系豪族の秦氏一族によって、田園地帯に変わりました。
やがて美しい自然に接することのできる場所として、王朝人の別荘が建てられ、そのうちの1つが嵯峨院でした。嵯峨院は後に大覚寺となります。
嵯峨天皇は弘法大師空海と親交を深められ、当時起こった飢饉に際し、般若心経を写経されたということです。

大覚寺を臨む (写真はクリックで広がります)

心経宝塔を臨む
広沢池も秦氏の開墾と関連してできた池でしょう。一時廃れましたが、明治時代に地元の人々の協力で修復されています。
現在は鯉などの養殖が行われていて、12月に池の水を抜いて「鯉揚げ」を行い、鯉や鮒を料理屋などへ販売しています。このため訪れた時も水が抜かれたままで、いろんな鳥たちの憩いの場になっていました。

池の周辺は、愛宕山を背景に、田畑を中心としたのどかな風景が広がっています。

なんて、遊ぶつもりはありませんが・・・
京都市の北西部、京都市右京区の嵯峨野に、1kmほど離れて、大沢池(おおさわのいけ)と広沢池(ひろさわのいけ)が並んで存在します。
まだ昨日の雪が残る2月7日、京都市内のあちこちを探鳥目的で訪ねましたが、鳥の方の収穫はもうひとつでしたので、風景などの紹介を・・・
大沢池は、嵯峨天皇の離宮嵯峨院の庭池として作られた日本最古の庭池です。
古来、嵯峨野一帯は現在の桂川の水が流れ込む沼地で、そのために「沢」の字が含まれているのでしょうが、優れた土木技術を持った渡来系豪族の秦氏一族によって、田園地帯に変わりました。
やがて美しい自然に接することのできる場所として、王朝人の別荘が建てられ、そのうちの1つが嵯峨院でした。嵯峨院は後に大覚寺となります。
嵯峨天皇は弘法大師空海と親交を深められ、当時起こった飢饉に際し、般若心経を写経されたということです。

大覚寺を臨む (写真はクリックで広がります)

心経宝塔を臨む
広沢池も秦氏の開墾と関連してできた池でしょう。一時廃れましたが、明治時代に地元の人々の協力で修復されています。
現在は鯉などの養殖が行われていて、12月に池の水を抜いて「鯉揚げ」を行い、鯉や鮒を料理屋などへ販売しています。このため訪れた時も水が抜かれたままで、いろんな鳥たちの憩いの場になっていました。

池の周辺は、愛宕山を背景に、田畑を中心としたのどかな風景が広がっています。

1月30日、鳥の観察に、滋賀県安土町の「西の湖」に行って来ました。
着いて地元の人と鳥情報を交換する中で、湖北町には雪は無く、湖岸道路を通って1時間ほどで行けるとのこと、湖北町水鳥公園にも行くことにしました。
湖に沿って走ると、あちこちにカモなどの群をたくさん見ることができました。
この日に見た鳥たちについては「そよ風のなかで」で順次記事にすることにして、ここでは風景を・・・
※ 写真はクリックで拡大できます。
下は湖北町水鳥公園の前に広がる風景です。手前にはアシ、近くには浅瀬が細長く延びています。生えているのは樹形から見てアカメヤナギでしょうか。
風の強い時にはこの島が波よけになり、コハクチョウなどの水鳥は、この内側に集まるのだとか。
写真には写っていませんが、少し方向を変えると、竹生島も見えます。

下は西の湖に戻って、夕日に染まりかけた伊吹山です。中腹にカモの群が飛んでいるのが分かるでしょうか。

着いて地元の人と鳥情報を交換する中で、湖北町には雪は無く、湖岸道路を通って1時間ほどで行けるとのこと、湖北町水鳥公園にも行くことにしました。
湖に沿って走ると、あちこちにカモなどの群をたくさん見ることができました。
この日に見た鳥たちについては「そよ風のなかで」で順次記事にすることにして、ここでは風景を・・・
※ 写真はクリックで拡大できます。
下は湖北町水鳥公園の前に広がる風景です。手前にはアシ、近くには浅瀬が細長く延びています。生えているのは樹形から見てアカメヤナギでしょうか。
風の強い時にはこの島が波よけになり、コハクチョウなどの水鳥は、この内側に集まるのだとか。
写真には写っていませんが、少し方向を変えると、竹生島も見えます。

下は西の湖に戻って、夕日に染まりかけた伊吹山です。中腹にカモの群が飛んでいるのが分かるでしょうか。
