方向転換を可能にする4つの条件
そうした中で、方向転換をできるかできないかの差が出るいわば4つの大きな条件がある、というふうに私は考えています。
この会を始めた当初は、市民も学者も評論家も政治家も実業家も、緩やかな方向性の一致した方々に集まっていただいて、それを大きく広げて、経済と福祉と環境の相互促進というビジョンをもった新しい党が生まれてくる核にしたいということでスタートしたのですが、会を続けてみて、今、日本の市民はなかなかそういうふうに結集して新しい流れ、しかも政治に繋がる流れを作り出そうという気持ちにならない、そういうところに人が集まらないという状況にあるように思えます。
そういうわけで、当初、緩やかな方向性の一致ということを考えていたので、私は自分個人の考えをあまり強く前面に出さないようにしてきました。
しかし、そういう状況の中で、いったん「持続可能な国づくりは以下のような4つの条件すべてが調わないと実現しないと考えている」という私個人の考え方をはっきりお示しして、これをまずみなさんに理解していただくことから始めて、できれば合意に到った上で、「では、次のステップとして何ができるだろう」という討議を重ねていくほかないかなと思い始めています。
そこで、これまでは他の先生方にお話をしていただくということが多かったのですが、前回と今回、「私はこう考えています。みなさんはどうお考えですか」と問いかけさせていただく学習会にすることにしました。
存在の4象限理論
さて、私とほぼ同世代のアメリカの大思想家ケン・ウィルバーという人がいますが、この人は「存在の4象限」という理論を提出しています。
世界全体を見るためのいわば「地図」として、非常に有効な理論だと思っていますが、存在にはすべて、図の左側に示される内面の象限と、右側に示される外面の象限がある。しかもそれも上側・個の象限と、それから下側・集団の象限がある。合わせて四象限でものごとを考えると、存在の全体像が見えてくるという理論です。
まずその4象限理論のイントロをお話ししてから、続いてそれを応用しながらブータン、スウェーデンといきます。
まず、わかりやすい買い物・消費行動という例で考えてみましょう。
私たちが左上・個人の内面で、何かものを買いたい・買おうと思ったとします。
それは、実際の行動としては右上の消費行動になります。
ところが、お店があったり卸屋さんがあったりという、商品流通システムという右下の社会システムがないと、私たちは消費行動ができません。
さらに、そこにお札や硬貨を持っていくとみながそれを価値あるものとして見なしているという左下の文化としての貨幣経済が必要です。交換経済だったら、紙きれや金属片を持っていても換えてもらえません。つまり、この紙には価値があるという文化的な合意が成り立っている必要があるわけですね。
考えてみていただいて、どこかの要素、例えば買うという意欲がなかったら消費行動は起こりませんよね。それから貨幣経済がないと買えない。貨幣経済という合意があっても、商品流通システムが壊れてしまっていたら買えない。大震災の後がそうでしたね。お金はあるのだけれど店が開いていないからものが買えない。そういうことでした。
4つの事柄が全部そろって初めて、個人が消費行動をすることが可能になるわけです。
右上の条件だけなので日本ではできない
4象限理論を持続可能な社会に当てはめて考えると、どこから行ってもいいのですが、日本人がいちばん考えているのは右上です。「環境にやさしい」という話ですね。
環境にやさしい、つまり環境適合的な個別の技術をいろいろ工夫する。それから環境にやさしいと思われる行動を個人がする。これをずっと積み上げていると、そのうちよくなるんじゃないか、と。
私の見てきたかぎりでは、1960年代の終わり、環境が問題だということが一般的に知られるようになってきた頃から、日本の市民はずっとこういうことを考えたり行動したりし続けていると思います。「それぞれができることをやっていたら、そのうちよくなるんじゃないか」と。
ところが70年から計算して何年ですか? 42年ぐらい経っていますよね。
みなさんの感触でいいですから、どうでしょう。全体として環境問題は、40経ってよくなっていますか?
私はもう明らかにそうとう悪くなっていると思います(今も進行中の各地での記録的大雨はその1つの現われだと思われます)。
つまり、個別の努力の積み重ねでだけでは、よくなってこなかったし、これからもよくならないのではないでしょうか。
ところが、日本人は個別の努力の積み重ねがとても好きな、ある意味で生真面目な国民で、『ハチドリのひとしずく』という絵本があって、何十万部か売れたというエピソードがあります。
率直に言って、「なぜこれがそんなにも売れるのだろう」と私は思うのですが。ご存知ですか、『ハチドリのひとしずく』という絵本とエピソードのことを?
ご存知ない方もいらっしゃるようですから、典型的なエピソードなのでちょっと話しておきます。
森・ジャングルが火事で、動物たちはみな逃げている、というところから始まります。
ところが、ハチドリ――こんなに小さな鳥ですよ、蜂に近い大きさの鳥だからハチドリというのですが――だけが必死になってその小さなくちばしで水滴をジャングルの上から落としている。
他の動物たちが「何やってるんだ。そんなことはやってもむだだ」と言うと、ハチドリは「私には私のできることをやっているだけ」と答えたというんです。
なかなか感動的でしょう。他の動物は逃げているんです。だけど、小さなハチドリだけは逃げないで、一滴でもいいから私のできることを、と水滴を垂らしている。
これはたしかに感動的ではあるんですが、でも、本当に効果があるかどうかで考えましょう。
これでジャングルの火事が消えると思いますか?
まちがいなく消えないでしょうね。
こういう行動は、心情的にはとても美しいのですが、効果はありません。
日本人の心ある市民総体がこの40年やってきたことは、申し訳ないけれど「ハチドリのひとしずく」のようなことだと私は思います。
心情は美しいし、そこは私もとても共感します。けれども、実際の状況はどんどん悪くなっているんではないでしょうか。
ではどうすればいいのかというと、本当は、森に象さんはいないかもしれないけれど、象さんも含めてみんなでブワーッと大量の水をかけないと、火災は止まらないですよね。
だから「みんなで一緒になって」ということが必要です。
ハチドリが一匹、自分のできることをやっているだけでは森林火災は消えないように、グローバルな環境問題は、それぞれの人ができることを自分の場で一生懸命やるだけでは変わらなかった、というより悪化してきた、と言い切っていいと思います。
40年あまり変わらなかったけれど、ここ2,3年、「私は一生懸命新聞のリサイクルをしています」とか「空き缶もやってます」といったことで、環境全体の事態が変わるというふうには考えないほうがいいと思うのですが、どうでしょうか。こういう言い方は意地悪でしょうか(笑)。
今まで環境団体の会なんかで言ってすごく嫌われたのですが(笑)、でもこの会ではあえて言おうと思います。
ハチドリのひとしずくでは森林火災は消えません。動物たち全部が必死になって水をかけても消えるかどうかという話です。
それと同じように、右上象限だけで、こんなにすばらしい環境技術ができたとか、個々人がこんなに努力していますとかというのは、もちろん必要な4分の1ではあるんですが、あと4分の3が足りない。
私に言わせると、日本では4分の3が足りないと思います。
左上象限の個人の内面としては、「私は自然が好き」というだけではなくて、自然と人間社会が調和することを本気で欲求し、それにはどういう社会システムを創り出せばいいのか本気で願い構想するという、そういう心のある人、特にリーダーが必要ですね。それも1人ではなくて、リーダー群が必要です。
それに対して、左下象限としては、例えばリーダーがそういうことをちゃんとインフォメーションをしたら、ぜひ社会をそういうふうにしたいと思うような、社会全体が共有する環境・自然との調和を最優先するという価値観・文化も必要です。
日本人には個別的に桜が好きですとか星を見るのが好きですとかという個人はいっぱいいて、それで「日本人は自然を愛している」とかというのですが、しかし戦後の日本社会を見ていくと、ずっと自然環境を壊してきています。
つまり、個々人の心情としては愛しているけれど、社会システム総体としては愛していない行動をしてきているんです。だから、そこを間違えてはいけないということですね。
社会全体として、「経済的繁栄よりも自然との調和のほうが私たちは大事です」と国民全体が思っている、そういう社会の価値観が必要です。
これは、残念ながら今の日本には欠けている。というか、これも欠けている。
したがって、環境と調和した社会・経済システムを本気で願い構想するリーダーがいて(左上)、個々人にも協力してもらって、すでにある技術をいろいろ使いながら(右上)、社会全体の価値観の共有があるためにみなで本気になって(左下)、そういう社会・経済システムを創り上げる(右下)という話になる必要がある、ということですね。
予定と違って、日本でなぜできないのかの話を先にしてしまいましたが、日本では右上の積み上げでできると思い込んでいる人が多いということが、決定的に残念ながらずっと続いていると思います。