青山先生の講演に出てきた白梅隊の話がねずきちさんの記事にありましたので紹介します。
以下転載↓
沖縄戦で、学徒看護隊といえば、ひめゆり部隊が有名です。
ひめゆり部隊は、昭和20(1945)年3月23日に沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校から動員された部隊です。
彼女たちは、負傷兵の看護などを行います。
本来、国際法であるハーグ陸戦条約によれば、たとえそれが敵軍であっても、医療施設に対する攻撃はしてはならないことになっています。
しかし、米軍の砲撃は容赦なく、医局にいる彼女たちのうち117名が死亡してしまいます。
6月18日、沖縄の日本軍がほぼ壊滅し、彼女たちにも解散命令が出されたけれど、逃げまどう彼女たちに容赦なく米軍の銃弾が襲いかかり、107名が解散後に死亡。
ひめゆり部隊240名のうち、終戦時までに生き残ったのは、わずか14名でした。
ひめゆり部隊については、戦後何度か映画化されているため、ご存知の方も多いです。
がしかし、沖縄戦での女子学徒による看護隊は、ひめゆり部隊だけではありません。
他に、白梅学徒隊(沖縄県立第二高等女学校)、ずゐせん学徒隊(県立首里高女)』積徳学徒隊(私立積徳高女)、梯梧学徒隊(私立昭和高女)、なごらん学徒隊(県立第三高女)などが、それぞれ看護隊として従軍しています。
ひめゆり隊の女学生たち
「白梅学徒隊」は、ひめゆり隊より17日はやい、3月6日に55名で結成されました。
そして、第二四師団の野戦病院で、看護教育を受けます。
3月23日、沖縄に米軍の猛爆撃が開始されます。
もはや、地上にある病院では危険です。
第二四師団の野戦病院は、医師や患者とともに、八重瀬岳の病院壕に移動した。
病院壕といえば聞こえはいいけれど、これはただの「ほら穴」です。
床も壁も天井も地面むき出し、近くに爆弾が落ちれば、轟音とともに天井から土や石が落ちてくる。
その洞穴に、前線で重傷を負った兵たちが運ばれてきます。
沖縄戦でも、少しでも動けるものは、銃をとって戦っていましたから、そこに運ばれてくるのは、すでに戦闘能力を失った重症患者ばかりです。
彼女たち白梅部隊は、そのほら穴で、負傷兵の看護や手術の手伝い、水くみ、飯炊き、排泄物の処理、傷口に沸いたウジ虫の処置、死体埋葬、伝令などをします。
手術は、医師たちによってほら穴の中で行われます。
爆風によってつぶされた腕や脚は、最早切り取るしかなかった。
切り取った手足は、バケツに入れられ、それを白梅部隊の女学生が、交代で、敵の爆撃のない早朝に表に捨てに行った。
3月25日と27日に、引率教師とともに、9名が除隊します。
残りは46名になった。
4月下旬になると、負傷兵が増加し、ほら穴の入り口付近まで、負傷兵であふれるようになります。
やむをえず5月上旬には、東風平国民学校の裏手の丘にも分院を開設し、収容しきれない患者をそこへ移すのだけれど、その分院のある場所にも、米軍が迫る。
やむなく分院は閉鎖し、もとの八重瀬岳の本院へ患者と白梅隊を集合させます。
分院を閉鎖するとき、白梅隊のメンバーが、歩けない負傷兵たちに青酸カリなどを与え、彼らを処置した。
彼女たちは、沖縄県立第二高等女学校の最上級生(四年生)とはいえ、いまならまだ高校一年生。16歳の乙女たちです。
痛みに苦しむ患者たちの日常の世話をし、彼らと親しく会話も交わしていたものを、歩けないと知った彼らに、青酸カリを渡した。
そのときの心の痛み、辛さ、苦しさ、哀しさはいかばかりだったでしょう。
6月4日、八重瀬岳の本院にも、敵の手が迫ります。
病院は、約500名以上のの重症患者の「処置」をします。
こうしたむごい作業も、白梅看護隊の仕事でした。
そして、病院は解散し、白梅隊も、この場で解散となります。
彼女たちは、軍と行動をともにしたいと願い出ます。
しかし、もはや死を覚悟した軍の兵士達は、彼女たちの願いを退けた。
どうしても、彼女たちには生き延びてもらいたかったのです。
彼女たちは、数人ずつに別れて、南部に向けて撤退します。
逃げるあてなどありません。
そして、爆風渦巻く中、8名が途中で死亡し、ようやく16名が国吉(現糸満市)でほら穴を見つけ、そこに隠れます。
そこが、いま「白梅の塔」のある洞窟です。
その16歳の武器さえ持たない彼女たちの隠れる壕に、6月21日、米軍が「馬乗り攻撃」を仕掛けてきます。
「馬乗り攻撃」というのは、ほら穴の上から穴をうがち、その穴からガソリンなどの可燃物を注ぎこんで火を着ける攻撃法です。
この攻撃で、壕に隠れた彼女たちのうち、6名が死亡。
6月22日、上の壕も同様の攻撃を受け2名が死亡します。
そして後日1名も、重度の火傷のため米軍病院で死亡。
結局、動員された55名の生徒のうち、17名の少女が命を失いました。
「ずゐせん女子学徒隊」は、沖縄県立首里高等女学校の、やはり4年生(いまの高校一年生)の61名の少女たちです。
彼女たちもまた、第六二師団の野戦病院(といっても、これもほら穴(壕)です)で、休む間もなく負傷兵の看護をして働き続けます。
まだ16歳の少女が、兵隊の尿を取ったり、膿だらけの包帯を交換したり、傷口にわいたウジ虫を払い落としたり、亡くなった兵隊の死体を運搬したりしたのです。
絶え間なく落ちて来る艦砲弾の下をかいくぐり、水を汲みに行ったり、食事の支度をした。
4月23日、患者を収容するために壕を出た生徒1名が、砲弾の破片を受けて死亡します。
5月20日、敵が迫りくる中、ついにこの野戦病院も退去することになります。彼女たちは歩ける負傷兵を支え、南部へ移動します。
10日間、砲火の中を逃げまどい、ようやく6月1日、摩文仁村米須の石部隊の壕に到着した。
しかし、ここも患者と兵隊でいっぱいです。
やむをえず患者だけを壕に収容してもらい、彼女たちは伊原の崖下の岩間に入った。
6月7日、その岩間が、直撃弾を受けて落盤します。
この落盤で、生徒一名が死亡している。
6月10日、軍は、彼女たち「ずゐせん女子学徒隊」に解散命令を出します。
しかし彼女たちは納得しない。
どうしても軍と行動を共にし、患者たちの面倒をみるといって聞かない。
やむなく、いったん、解散命令は撤回されます。
6月19日、米軍の砲火が激しくなり、軍は、彼女たちに、もはやこれまで。自分たちはここに残るが、君達は解散するから、逃げなさいと、説得します。
ようやく承諾した彼女たちは、いったん壕外に出るのだけれど、外はあまりに砲撃が激しく、ふたたび、壕に舞い戻った。
そして6月23日、この壕が、米軍の「馬乗り攻撃」にあいます。
壕の奥はガソリンで焼かれ、入口付近は火炎放射器で焼かれた。
いぶり出されるように生徒たちは壕外に出、米軍に収容されています。
この時の馬乗り攻撃と火炎放射機で、生き残っていた生徒のうち、25名が死亡。
結局、動員された61名の女生徒のうち、33名死亡が死亡しました。
ずゐせん女子学徒隊
「積徳学徒隊」は、私立積徳高等女学校の4年生25名です。
彼女たちも同様に、豊見城城跡の第二四師団、第二野戦病院で、負傷兵の看護や手術の手伝い、水くみ、飯上げ、排泄物の処理、死体埋葬、伝令などを行います。
彼女たちも、5月下旬には、首里の軍司令部まで米軍が迫ってきたため、真壁村糸須の自然洞窟へ撤退します。
このとき、彼女たちも重傷者に青酸カリで「処置」するようにと命令されるけれど、どうしても、それができなかった。
哀れに思った軍医が「処置」を取りやめます。
しかし、6月20日には、洞窟入口に火炎放射やガス弾を投下され、軍は、自決を決意。
小池病院長は、彼女たち積徳学徒隊に解散を命じ、
「生き延びて、沖縄戦のことを他府県の人々に伝えよ」と訓辞を与え、自決します。
その後生徒は壕外へ出て、米軍に収容された。
動員された25名の生徒のうち4名が死亡しています。
積徳学徒隊
生還した彼女たちは、入隊したときの気持ちを次のように語っています。
「全く不安はなかったね。戦争は絶対に勝つもんだと信じきっていたから」
「私たちが行かなかったら、誰が傷病者を世話するのって真剣に思ってた」
「ただもうお国のために…という気持ちで一杯だったんです」
彼女たちに戦局の様子はわかりません。
ただ、爆弾が落ち、次々に運ばれてくる負傷者を必死に介護した。
そして多くの命が失われた。
戦いに敗れ、蹂躙されるということは、こういうことなのです。
しかし闘わなければ、もっと悲惨な運命が待ち受けた。
抵抗しなければ殺されずに済んだなどということはないのです。
なぜ彼女たちが、ここまで追い詰められ、この世の地獄とも思える厳しい現実に接しなければならなかったのでしょうか。
それは戦争だったからです。
では何故、戦争が起こったのでしょうか。
日本の軍部が暴走したから?
ハルノートがあったから?
ルーズベルトが仕掛けたから?
なるほど戦争の原因については、諸説あります。
しかし、どれも他国や他人の「せい」にするものばかりです。
違うと思います。
他人のせいじゃない。
原因は、軍事バランスが崩れたからです。
日本は、平和を希求して大正10(1921)年、ワシントン会議において、米英日の主力艦保有率を、5:5:3とする条件を飲みました。
そしてこのとき同時に、米国の強い主張によって、20年続いた日英同盟が破棄されました。
そして米英が新たな同盟国となった。
主力艦保有率は、この瞬間に米英10に対し、日本は3となった。
軍事バランスが崩れたのです。
10:3では、もはや到底勝ち目がない。
日本は侮られ、続く昭和4(1929)年の世界恐慌では、日本製品がボイコットを受けます。
そして昭和3(1928)年に誕生した支那の蒋介石政権は、露骨な排日運動を展開した。
あちこちで日本人は、酷い目に遭わされるようになり、昭和12(1937)年には、支那事変が勃発しています。
そして昭和16(1941)年に大東亜戦争が勃発した。
歴史を俯瞰してみると、ワシントン軍縮会議以降、それまで世界の強国の仲間入りをしていた破竹の日本が、まさに一直線に追い込まれていたことがわかります。
世界に法律はありません。
国家間の条約があるだけです。
そしていったん戦争になれば、条約など誰も守らない。
戦時中でさえ、必死に条約を守り通したのは、世界広しといえども日本軍ぐらいなものです。
要するに世界は、力こそ正義なのです。
そのことは今も昔も変わっていない。
日本は、戦後65年、戦争をしていません。
この65年間に戦争をしていない国というのは、日本とスイスくらいなものです。
スイスは永世中立を宣言している国です。
しかし、スイスは国民皆兵の国でもあります。
スイスと戦争をする国は、スイス政府を相手取っての戦争はできません。
スイスの760万の国民皆
兵の国でもあります。
スイスと戦争をする国は、スイス政府を相手取っての戦争はできません。
スイスの760万の国民すべてを相手取って戦争をしなければならない。
しかもスイスは、国際金融の要を握っています。
世界の大金持ちの資産の多くはスイスに預けてある。
スイスが戦乱に呑まれるということは、世界のお金持ちがその財産を失うということでもあります
だから、どこの国もスイスは攻めない。
日本が東亜において戦後65年、戦争をしないで済んだのは、米国の核の傘に守られたからです。
日本を攻めることは、米国の核を敵にまわすことになる。
だから戦争が起こらなかった。
軍事バランスでいえば、日米同盟が、世界最強の地位を占めていたというわけです。
間違っても9条があるからではない。
日米同盟がなく、憲法9条だけが存在したなら、日本はもっと早く、支那かソ連に攻め滅ぼされていたかもしれない。
世界は理想で動いているのではない。
現実の利害得喪で動いているのです。
そうした現実の中で、日本に友愛腰ぬけ政権ができあがり、米軍に守ってもらった恩義も忘れて普天間出てけ、とやったらどうなるか。
軍事バランスが崩れ、日本弱しとなれば、寄ってたかって日本を食い物にし、頃あいを見計らって、日本の領土の切り崩しにかかるのは、歴史の必然です。
そして戦争になれば、また悲惨な事態が待っている。
絶対に戦争を起こしてはならない。
二度と戦争の悲惨を産んではならないと強く思うなら、日本は米国とともに、すぐに機動できる世界最強の軍事力を持つべきです。
それが、世界の平和と日本人が二度と悲惨な目に遭わせられないための、唯一の哀しい現実だからです。
以下転載↓
沖縄戦で、学徒看護隊といえば、ひめゆり部隊が有名です。
ひめゆり部隊は、昭和20(1945)年3月23日に沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校から動員された部隊です。
彼女たちは、負傷兵の看護などを行います。
本来、国際法であるハーグ陸戦条約によれば、たとえそれが敵軍であっても、医療施設に対する攻撃はしてはならないことになっています。
しかし、米軍の砲撃は容赦なく、医局にいる彼女たちのうち117名が死亡してしまいます。
6月18日、沖縄の日本軍がほぼ壊滅し、彼女たちにも解散命令が出されたけれど、逃げまどう彼女たちに容赦なく米軍の銃弾が襲いかかり、107名が解散後に死亡。
ひめゆり部隊240名のうち、終戦時までに生き残ったのは、わずか14名でした。
ひめゆり部隊については、戦後何度か映画化されているため、ご存知の方も多いです。
がしかし、沖縄戦での女子学徒による看護隊は、ひめゆり部隊だけではありません。
他に、白梅学徒隊(沖縄県立第二高等女学校)、ずゐせん学徒隊(県立首里高女)』積徳学徒隊(私立積徳高女)、梯梧学徒隊(私立昭和高女)、なごらん学徒隊(県立第三高女)などが、それぞれ看護隊として従軍しています。
ひめゆり隊の女学生たち
「白梅学徒隊」は、ひめゆり隊より17日はやい、3月6日に55名で結成されました。
そして、第二四師団の野戦病院で、看護教育を受けます。
3月23日、沖縄に米軍の猛爆撃が開始されます。
もはや、地上にある病院では危険です。
第二四師団の野戦病院は、医師や患者とともに、八重瀬岳の病院壕に移動した。
病院壕といえば聞こえはいいけれど、これはただの「ほら穴」です。
床も壁も天井も地面むき出し、近くに爆弾が落ちれば、轟音とともに天井から土や石が落ちてくる。
その洞穴に、前線で重傷を負った兵たちが運ばれてきます。
沖縄戦でも、少しでも動けるものは、銃をとって戦っていましたから、そこに運ばれてくるのは、すでに戦闘能力を失った重症患者ばかりです。
彼女たち白梅部隊は、そのほら穴で、負傷兵の看護や手術の手伝い、水くみ、飯炊き、排泄物の処理、傷口に沸いたウジ虫の処置、死体埋葬、伝令などをします。
手術は、医師たちによってほら穴の中で行われます。
爆風によってつぶされた腕や脚は、最早切り取るしかなかった。
切り取った手足は、バケツに入れられ、それを白梅部隊の女学生が、交代で、敵の爆撃のない早朝に表に捨てに行った。
3月25日と27日に、引率教師とともに、9名が除隊します。
残りは46名になった。
4月下旬になると、負傷兵が増加し、ほら穴の入り口付近まで、負傷兵であふれるようになります。
やむをえず5月上旬には、東風平国民学校の裏手の丘にも分院を開設し、収容しきれない患者をそこへ移すのだけれど、その分院のある場所にも、米軍が迫る。
やむなく分院は閉鎖し、もとの八重瀬岳の本院へ患者と白梅隊を集合させます。
分院を閉鎖するとき、白梅隊のメンバーが、歩けない負傷兵たちに青酸カリなどを与え、彼らを処置した。
彼女たちは、沖縄県立第二高等女学校の最上級生(四年生)とはいえ、いまならまだ高校一年生。16歳の乙女たちです。
痛みに苦しむ患者たちの日常の世話をし、彼らと親しく会話も交わしていたものを、歩けないと知った彼らに、青酸カリを渡した。
そのときの心の痛み、辛さ、苦しさ、哀しさはいかばかりだったでしょう。
6月4日、八重瀬岳の本院にも、敵の手が迫ります。
病院は、約500名以上のの重症患者の「処置」をします。
こうしたむごい作業も、白梅看護隊の仕事でした。
そして、病院は解散し、白梅隊も、この場で解散となります。
彼女たちは、軍と行動をともにしたいと願い出ます。
しかし、もはや死を覚悟した軍の兵士達は、彼女たちの願いを退けた。
どうしても、彼女たちには生き延びてもらいたかったのです。
彼女たちは、数人ずつに別れて、南部に向けて撤退します。
逃げるあてなどありません。
そして、爆風渦巻く中、8名が途中で死亡し、ようやく16名が国吉(現糸満市)でほら穴を見つけ、そこに隠れます。
そこが、いま「白梅の塔」のある洞窟です。
その16歳の武器さえ持たない彼女たちの隠れる壕に、6月21日、米軍が「馬乗り攻撃」を仕掛けてきます。
「馬乗り攻撃」というのは、ほら穴の上から穴をうがち、その穴からガソリンなどの可燃物を注ぎこんで火を着ける攻撃法です。
この攻撃で、壕に隠れた彼女たちのうち、6名が死亡。
6月22日、上の壕も同様の攻撃を受け2名が死亡します。
そして後日1名も、重度の火傷のため米軍病院で死亡。
結局、動員された55名の生徒のうち、17名の少女が命を失いました。
「ずゐせん女子学徒隊」は、沖縄県立首里高等女学校の、やはり4年生(いまの高校一年生)の61名の少女たちです。
彼女たちもまた、第六二師団の野戦病院(といっても、これもほら穴(壕)です)で、休む間もなく負傷兵の看護をして働き続けます。
まだ16歳の少女が、兵隊の尿を取ったり、膿だらけの包帯を交換したり、傷口にわいたウジ虫を払い落としたり、亡くなった兵隊の死体を運搬したりしたのです。
絶え間なく落ちて来る艦砲弾の下をかいくぐり、水を汲みに行ったり、食事の支度をした。
4月23日、患者を収容するために壕を出た生徒1名が、砲弾の破片を受けて死亡します。
5月20日、敵が迫りくる中、ついにこの野戦病院も退去することになります。彼女たちは歩ける負傷兵を支え、南部へ移動します。
10日間、砲火の中を逃げまどい、ようやく6月1日、摩文仁村米須の石部隊の壕に到着した。
しかし、ここも患者と兵隊でいっぱいです。
やむをえず患者だけを壕に収容してもらい、彼女たちは伊原の崖下の岩間に入った。
6月7日、その岩間が、直撃弾を受けて落盤します。
この落盤で、生徒一名が死亡している。
6月10日、軍は、彼女たち「ずゐせん女子学徒隊」に解散命令を出します。
しかし彼女たちは納得しない。
どうしても軍と行動を共にし、患者たちの面倒をみるといって聞かない。
やむなく、いったん、解散命令は撤回されます。
6月19日、米軍の砲火が激しくなり、軍は、彼女たちに、もはやこれまで。自分たちはここに残るが、君達は解散するから、逃げなさいと、説得します。
ようやく承諾した彼女たちは、いったん壕外に出るのだけれど、外はあまりに砲撃が激しく、ふたたび、壕に舞い戻った。
そして6月23日、この壕が、米軍の「馬乗り攻撃」にあいます。
壕の奥はガソリンで焼かれ、入口付近は火炎放射器で焼かれた。
いぶり出されるように生徒たちは壕外に出、米軍に収容されています。
この時の馬乗り攻撃と火炎放射機で、生き残っていた生徒のうち、25名が死亡。
結局、動員された61名の女生徒のうち、33名死亡が死亡しました。
ずゐせん女子学徒隊
「積徳学徒隊」は、私立積徳高等女学校の4年生25名です。
彼女たちも同様に、豊見城城跡の第二四師団、第二野戦病院で、負傷兵の看護や手術の手伝い、水くみ、飯上げ、排泄物の処理、死体埋葬、伝令などを行います。
彼女たちも、5月下旬には、首里の軍司令部まで米軍が迫ってきたため、真壁村糸須の自然洞窟へ撤退します。
このとき、彼女たちも重傷者に青酸カリで「処置」するようにと命令されるけれど、どうしても、それができなかった。
哀れに思った軍医が「処置」を取りやめます。
しかし、6月20日には、洞窟入口に火炎放射やガス弾を投下され、軍は、自決を決意。
小池病院長は、彼女たち積徳学徒隊に解散を命じ、
「生き延びて、沖縄戦のことを他府県の人々に伝えよ」と訓辞を与え、自決します。
その後生徒は壕外へ出て、米軍に収容された。
動員された25名の生徒のうち4名が死亡しています。
積徳学徒隊
生還した彼女たちは、入隊したときの気持ちを次のように語っています。
「全く不安はなかったね。戦争は絶対に勝つもんだと信じきっていたから」
「私たちが行かなかったら、誰が傷病者を世話するのって真剣に思ってた」
「ただもうお国のために…という気持ちで一杯だったんです」
彼女たちに戦局の様子はわかりません。
ただ、爆弾が落ち、次々に運ばれてくる負傷者を必死に介護した。
そして多くの命が失われた。
戦いに敗れ、蹂躙されるということは、こういうことなのです。
しかし闘わなければ、もっと悲惨な運命が待ち受けた。
抵抗しなければ殺されずに済んだなどということはないのです。
なぜ彼女たちが、ここまで追い詰められ、この世の地獄とも思える厳しい現実に接しなければならなかったのでしょうか。
それは戦争だったからです。
では何故、戦争が起こったのでしょうか。
日本の軍部が暴走したから?
ハルノートがあったから?
ルーズベルトが仕掛けたから?
なるほど戦争の原因については、諸説あります。
しかし、どれも他国や他人の「せい」にするものばかりです。
違うと思います。
他人のせいじゃない。
原因は、軍事バランスが崩れたからです。
日本は、平和を希求して大正10(1921)年、ワシントン会議において、米英日の主力艦保有率を、5:5:3とする条件を飲みました。
そしてこのとき同時に、米国の強い主張によって、20年続いた日英同盟が破棄されました。
そして米英が新たな同盟国となった。
主力艦保有率は、この瞬間に米英10に対し、日本は3となった。
軍事バランスが崩れたのです。
10:3では、もはや到底勝ち目がない。
日本は侮られ、続く昭和4(1929)年の世界恐慌では、日本製品がボイコットを受けます。
そして昭和3(1928)年に誕生した支那の蒋介石政権は、露骨な排日運動を展開した。
あちこちで日本人は、酷い目に遭わされるようになり、昭和12(1937)年には、支那事変が勃発しています。
そして昭和16(1941)年に大東亜戦争が勃発した。
歴史を俯瞰してみると、ワシントン軍縮会議以降、それまで世界の強国の仲間入りをしていた破竹の日本が、まさに一直線に追い込まれていたことがわかります。
世界に法律はありません。
国家間の条約があるだけです。
そしていったん戦争になれば、条約など誰も守らない。
戦時中でさえ、必死に条約を守り通したのは、世界広しといえども日本軍ぐらいなものです。
要するに世界は、力こそ正義なのです。
そのことは今も昔も変わっていない。
日本は、戦後65年、戦争をしていません。
この65年間に戦争をしていない国というのは、日本とスイスくらいなものです。
スイスは永世中立を宣言している国です。
しかし、スイスは国民皆兵の国でもあります。
スイスと戦争をする国は、スイス政府を相手取っての戦争はできません。
スイスの760万の国民皆
兵の国でもあります。
スイスと戦争をする国は、スイス政府を相手取っての戦争はできません。
スイスの760万の国民すべてを相手取って戦争をしなければならない。
しかもスイスは、国際金融の要を握っています。
世界の大金持ちの資産の多くはスイスに預けてある。
スイスが戦乱に呑まれるということは、世界のお金持ちがその財産を失うということでもあります
だから、どこの国もスイスは攻めない。
日本が東亜において戦後65年、戦争をしないで済んだのは、米国の核の傘に守られたからです。
日本を攻めることは、米国の核を敵にまわすことになる。
だから戦争が起こらなかった。
軍事バランスでいえば、日米同盟が、世界最強の地位を占めていたというわけです。
間違っても9条があるからではない。
日米同盟がなく、憲法9条だけが存在したなら、日本はもっと早く、支那かソ連に攻め滅ぼされていたかもしれない。
世界は理想で動いているのではない。
現実の利害得喪で動いているのです。
そうした現実の中で、日本に友愛腰ぬけ政権ができあがり、米軍に守ってもらった恩義も忘れて普天間出てけ、とやったらどうなるか。
軍事バランスが崩れ、日本弱しとなれば、寄ってたかって日本を食い物にし、頃あいを見計らって、日本の領土の切り崩しにかかるのは、歴史の必然です。
そして戦争になれば、また悲惨な事態が待っている。
絶対に戦争を起こしてはならない。
二度と戦争の悲惨を産んではならないと強く思うなら、日本は米国とともに、すぐに機動できる世界最強の軍事力を持つべきです。
それが、世界の平和と日本人が二度と悲惨な目に遭わせられないための、唯一の哀しい現実だからです。