日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

生誕100年 植田正治のつくりかた/東京ステーションギャラリー

2014年01月15日 | 美術
 銀座通りから、高速道路高架をくぐりぬけて京橋通りに入る。途中通り過ぎた明治屋は、建物改修中で保存されて活用されるらしい。八重洲通にぶつかかったところで、左折して東京駅方面にむかう。お昼時、空腹を覚えたので、駅手前で中華料理屋をみつけて昼食をとることにした。ビル街の合間のサラリーマンに愛されているであろう食事処、おいしくてコストパフォーマンス抜群、家人と二人してビールをいただく。
 正面は新調なった東京駅、八重洲側からは初めての対面だ。駅ビルの大丸デパートは、以前より右手の高層ビル、グラントウキョウノースタワーに移って新装オープンしていた。北口通路から丸の内へとに抜ける。1914年開業当時に復元されて、いよいよ今年12月に竣工百年を迎える東京駅舎内の北大ドーム下に入る。明治・大正期の建築家の泰斗、辰野金吾の設計の赤レンガ建築、クリーム色のドーム天井を見あげて、鷲のレリーフや八つの干支の彫刻を眺めていると、見知らぬ女性が近づいてきて声をかけられる。

 「東京駅は初めてですか? (いいえ。)では、何をご覧になっているんですか?」
 「天井の干支の彫刻を探していて・・・」
 「今年の干支はなんでしょう」
 「ええと、午(うま)、ですが・・・」
 「そうです。ところで午は見つかりましたが?」
 「いえ、八角形なので全部で八つしかいないので、いったい残りの四つはどうなっているのかと・・・」

 といった感じで、テレビインタヴュー取材を受けることになってしまい、いったんドームの外に出ると、TBS「朝ズバッ!」取材クルーが待機していてカメラとマイクを向けられることになってしまった!まあ、これも経験かと思うと緊張も解けて答えたつもりが、あとで翌日の放送を見た方によると見事にカットされていたらしい。まあ、答えのセンテンスが長くてそのものズバリのテレビ向けの素材としては不向きと判断されたみたいで、ちょっと楽しみにしていたのに残念!

 それはともかく、今回の目的はここ東京ステーションギャラリーで開催中の写真展「生誕100年 植田正治のつくりかた」をみること、5日が最終日で滑り込みで間に合った。北ドーム脇に入り口がある。ギャラリースペースは駅舎のドーム脇の北端部分が充てられていったん三階に上がってから順に下におりてみる構成となっていた。
 エレベーターで三階に上がる内部の壁面は赤レンガがむき出しの独特な空間だ。はたして作品はどんな感じでこの個性の強い空間と拮抗しているのか、興味の焦点はそこにあったんだ。
 じつは、「植田正治」1913-2000)という写真家は、新聞の文化欄やMAMAKOからの情報で初めて知った。昨年末、わざわざ名古屋からMAMAKOも見にきているはず、そう思うと気持ちが改まったよ。鳥取出身で山陰地方を生涯の拠点としたとあり、砂丘での作品など地方風景を背景に随分とモダンでシュールともいえる印象の作品が並ぶ。構図や人物配置の仕方も独特でいま見てもじつに新鮮で、寺山修司の映像を思わせる。寺山も写真を撮っているが、二人の作品を並べてみてみたいと思った。植田の実験精神とチャレンジを怒れずに新しいスタイルを追求していく姿は、中央とは離れた適度な距離がなせるものだったのかもしれない。

 植田の著作「山陰の風土に生きて」のことばに「山陰の風土に生きて抒情を求め続ける」とある。当時モダンな表現だった写真を山陰という風土を意識しながら取り続けたところに、自称“生涯アマチュア精神”を発揮した写真家植田正治の魅力がある。彼の遺した家族写真も故郷の風景写真も原点は、そのまなざしに貫かれているのだろう。
 


補足1:翌日の6日八時過ぎに、そのTBS番組「朝スバッ!」を見ていたら、辰野金吾が東京駅ドームに残した干支彫刻ついて孫娘の辰野智子(建築家)や 首都大学の東秀紀教授がインタヴューを受けていたが、何故干支を掲げたかそして12のうちの8つを選んだ理由は謎のようだ。さらに続きの映像があって、これが興味深いことに!、同時期に辰野が手掛けた佐賀の武雄温泉楼門の天井四隅に残りの干支の動物が描かれているのだ。その干支は、東西南北方向に“卯、酉、午、子”の四つ。これが、東京駅に残されなかった干支の種類。辰野金吾は佐賀唐津出身だから、東西南北にあたる干支は郷土に置いておきたかったという心情からなのかもしれない。いずれにしても真意はナゾ、ということにしておくといろいろと想像が広がって楽しい。


東京駅北ドームを見上げる。
八角形のドームの下に空中回廊あり、ギャラリー出口とつながっていて上からコンコースをぐるりと見下ろすことができる。そして回廊の窓の上の三つ又の中心に水色の円形アイコンが見えるのが問題の干支像で合計で八つある。

  
天井ドームを見つめていて、八角形の枠に縁どられたクリーム色の天井がある図像と類似であることに気が付いた。
それが、以下の「方位吉凶早見盤」である。東西南北の方向に干支の“卯、酉、午、子”が記されているのが読み取れる。
         
  

補足2:今回から思うところあって、ブログタイトルを「日々礼賛日々是好日」と改題。
    日々で始まる二つの熟語を繋いでみるとおもしろい漢字のならびになるので、これでいこうと思う。

銀座セゾン劇場、堤清二 うたかたの夢

2014年01月15日 | 日記

 三愛ドリームセンターのコーヒーショップを出てから、京橋方面に向かう途中の首都高速高架手前で、ル・テアトル銀座、旧「銀座セゾン劇場」前で思わず立ち止まる。客席800ほどの劇場と映画館「テアトル西友」、中規模ながら高級指向路線で売った「ホテル西洋銀座」の複合建築は、1987年竣工の菊竹清訓と久米設計によるもの。その前身はテアトル銀座というシネラマ方式の映画館だった。学生時代に閉館特別ラスト上映「2001年宇宙の旅」をここのレイトショーで友人たちと一緒に見て、その弧を描いた大画面に投影された宇宙空間シーンにひどく感激し、朝方の銀座通りを歩いた思い出がある。
 旧銀座セゾン劇場は、かつてセゾングループの片隅に所属していた当時、紆余曲折の末に鳴り物入りで開場した劇場であり、こけら落としは大御所ピーター・ブルック「カルメンの悲劇」だった。新装の劇場は、大理石内装のやたらまぶしいホワイエと場内紫色の内装が印象に残っているが、肝心の舞台の印象は格調高く素晴らしかったはずなのに、ほとんど記憶にないのはどうしてだろう?決して退屈したわけではなく、舞台に敷き詰められた土の上で、パントマイムの牛と闘牛士役の優雅な身のこなし姿だけがかすかに思い出せる。
 銀座通りに面して間口はせまく、首都高速沿いに細長く白亜の建物が伸びる。劇場入口には二本の列柱がたち、向かって左側がチケットボックスだった。正面扉を入って右手に劇場ロビーへのエレベーターがあったはずだが、ガラス戸は塞がれて中は望めない。映画館もホテルも建物のすべてが時流のなかで営業を停止してしまって、静かに佇んでいる。廃墟とよぶにはあまりにも整然とした汚れなき姿が不思議な感慨を呼ぶ。今すぐに再開してもおかしくないような“デ・ジャヴ”既視感にとらわれてしばし佇む。

 西武流通グループが、生活総合産業を標榜して「西武セゾングループ」と称したのが1985年のこと。翌々年のこの劇場のオープンの際に、西武がとれて“セゾングループ”となり、同時にアルファベット表記が「SAISON」(仏語で四季の意味)から「SEZON」へと変わったのを覚えている。前者表記だと「サイソン」としばしば誤読されることがままあり、日本ローマ字表記にあわせ後者に変えたらしいのだが、いかにもとってつけた変更であり、違和感をもった記憶がある。グループ総力をあげた施設に、劇場「セゾン」、ホテル「西洋」(これは、グループデベロッパー会社の西洋環境開発からきているのだろう)、映画館「西友」と宣伝要素の強い名称をつけこともしっくりこない。はっきりいって、それまでの消費時代の先端を走ってきた企業らしくない貧乏くささがしていた。まあ、最終的にはトップ堤清二氏の意向が働いたと想像するが、ここのあたりの判断のおかしさから、このグループが経営破たんに向かっていく兆候が読み取れるのではないだろうか。

 ともあれ、こんなタイミングでかつての遺跡に再会するなんて!つわものどもが夢のあと、時の移ろいの儚さ、非情さを思い知られずにはいられない。当初は何度か舞台を見たけれど、いつの間にか興味は薄れ、自然とそこから離れてから久しいままに、ついに劇場としての生命は終わってしまった。


追記:今朝の朝日新聞に、俳優の高橋昌也氏の逝去が載っていた。
 セゾン劇場開場の年1987年から99年まで芸術総監督の呼称で、黒柳徹子主演のコメディ演出にあたったそうだが、その舞台に接することとはないままだった。文学座、劇団雲、演劇集団円と移る中で脇役俳優として活躍とあるが、芸術監督に就いたのは、堤オーナーと三歳違いの同世代で知友でもあったつながりからなのだろう。劇場の方向性の定まらなさとともにいまひとつ話題性と印象が薄かった気がする。昨年11月の堤清二の逝去に続いて、やはりひと時代が回ってしまった感が深い。(2014.01.23 記)