夏の終わりの昼下がり、長津田からこどもの国線に乗ってゆっくりとカーブを過ぎ、恩田川を渡るとすぐ両側には伸び始めた稲穂や梨畑といった田園地帯がひろがる。二両連結車の外側は、ひつじたちのイラストラッピング、車両内にはメルヘンタッチの牧場情景が描かれ、床にはひつじの歩いた足跡が印されている。ひとつ目の「恩田」駅をすぎたと思ったら、もう終点の「こどもの国」に到着。わずか10分二駅、ローカルでのどかな鉄道旅である。
この日は、開園55周年を迎えた「こどもの国」を訪れることが目的だ。予定よりすこし早く到着したので正門に向かう前に、地元で評判のパン屋へ立ち寄ることにした。
大きなショッピングセンターのさきの信号を右折してしばらく歩いた大通りに面したマンションの一角にベーカリー「パナデリア シエスタ」がある。シエスタ=昼寝、という名前のそのお店は、本当に小さな間口で、入り口上の壁面いっぱいのおおきな木製看板と田舎の民家風の白壁に木枠の窓、外にはいくつかの椅子がおかれている。工房では三人ほどの女性が甲斐甲斐しく働きまわっていた。
オーナーが自ら栽培した地場の小麦を使用して製粉し、天然酵母手作りなんだそう。売り場に並んだパンはごつごつした風合いがあり表情豊か、焼き立ての香りが匂ってきそうでじつにおいしそう。長型ボール形プレーンタイプとくるみイチジク入りホールタイプの二個を購入。お店の紙袋が欲しかったのだけれど、持参の折り畳みバックに入れて持ち帰ることにした。
そこから歩いてふたたび駅前まで戻り、桜並木のさきの奈良川と車道にかかる陸橋を渡ったら、こどもの国正門入り口広場である。ここの改札で見学に来た旨を伝えて入場させてもらう。
たちまち見通しのきく、広大な緑地がひろがる。中央広場のある脇の遊歩道をしばらく行くと、木立のなかに三角錐の大きな赤色屋根が目に入ってくる。これが「皇太子記念館」で、コンクリートの土台で支えた鉄骨に掛けられた大屋根が迫力だ。形状としては、集会所か体育館のイメージである。大屋根のおかげで雨に打たれていないためか、外観打ち放しのコンクリートは思いのほか新しく見える。
この建物が開園当初からあったかどうかはわからないが、できた時から相当に目立ったことだろう。これから改修工事が予定されているとのことで、肝心の360席あるというホール室内は残念ながら見ることがかなわなかった。
記念館をあとにして芝生広場を下ると、そこには屋外プールのスペース、冬はスケートリンクになる。この夏プールは休業となり、そこにはこどもたちの歓声もなくガランとしている。巨大なうねるチューブスライダー出口には蓋がされていた。
その横にある乾いた三連の水流滑り台を目にしたときに、突然四十年近く前の学生時代、この滑り台を歓声をあげて降りた自身の姿がフラッシュバックしてきて、ちょっとしたとまどいを覚えた。はたしてその一瞬の記憶のよみがえりは、この場所のものだったかも定かではないようにも思えたが、改めて目を凝らしてみるとそれはまぼろしではなく、ここでの身体感覚の記憶のものと確信できたのである。
思い起こせば、当時は導入されたばかりで話題のスライダーチューブを初めて体験したのも、ここの場所ではなかったか?誰か友人やガールフレンドと遊びに来たわけではなく、時間を持て余したちょっと空疎な夏の一日のことだったように思える。時の流れははやく過ぎ去ってしまったのに、たまたま思いがけない淀みにはまってしまったように、突然ひとりぼっちの夏の記憶が甦ってきたのだろうか。
過去の記憶をたどるように、さらに園内奥へと遊歩道をすすむと、防空壕のようなコンクリートトンネルと、円形古墳か甲羅のような形状のコンクリート製たたき仕上げの古びた物体が目に入ってくる。これこそ開園にあたって起用された、当時新進気鋭の造形作家イサム・ノグチがデザインした児童遊具のひとつだ。微妙なカーブのこだわりに微かにその片鱗を見てとれる(気がする、というのが正直なところ)。
イサム・ノグチの造形遺跡はもうひとつ、その先の半分汚れて朽ちかけたような温室の通路脇の児童遊園跡の草地に残されていた。「オクテトラ」と命名されたコンクリート製遊具で、不規則に配置されて一部が積みあげられたものもある。古びてはいるものの、赤みがかった濃いベージュのペンキでメンテナンスされている。コンクリートのほうがモダンだった時代があったのだろうか?この安普請の造形が、空調の効いた美術館の中で目にする天然石の作品よりも作者のアウラをまとって漂ってくるのは、そこに半世紀以上の時間経過を重ねて見るからだろうか。
こどもの国が開園したのは、昭和四十年(1965)五月五日のことで、さきの「皇太子記念館」の名前にあるように、ここは元田奈弾薬庫と呼ばれた戦争遺構の地を、先代平成天皇が皇太子時代のご成婚を記念して、国が建設を進めた広さ百ヘクタールにもおよぶ“児童厚生福利施設”なのだ。
敷地全体のマスタープランは、厚生省と朝日新聞社によって組織され、その中心は建築家・都市計画家の浅田孝が担ったとある。個々の具体的な設計に際して、黒川紀章、大谷幸夫やイサムノグチをはじめとする若手グループが結成されて、意欲的な建築物や工作物がつくられっていった。その当時をしのぶことができる数少ない遺構がさきの児童遊園跡の造形物というわけだ。
来た道をもどり、ふたたび中央広場を望む木陰のベンチにすわって、アイスバーを口にしながら涼む。そうこうしていると遠く園内スピーカーから閉園をしらせる「夕焼け小焼け」のメロディーが流れてきた。この広大な緑の森のなかでそれを聴いていると、どこかのどかでありながら幾分哀しく、郷愁をさそわれるような気分になるのは、年齢を重ねたからなのだろうか。
こどもの国という名のたくさんの過ぎ去った時間と思い出、消え去ってしまった夢、なつかしい未来、さまざまな感情が織り交じって、緑滴る地上に押し寄せてくる。
戦後75年、蝉しぐれ夏の終わりのひとときに新型コロナウイルス禍収束と平和の続くことを祈る。
児童遊園地跡「オクテトラ」 造形デザイン:イサム・ノグチ(1965年)