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まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

齢を重ねることで気づく旅  京都庭園篇 

2015年04月10日 | 旅行
 旅の三日目、最終の日。山科をでて京阪電車で「蹴上」下車、ウェスティン都ホテル京都の和風別館佳水園へ、二年ぶりの再訪だ。


 ※2013.03.24 撮影
 
 ホテルのメインロビーから七階に上がって一度宿泊棟の外に出て、屋根つきの通路の下を進んでいき、やがて見えてくる茅葺屋根の門をくぐると、薄いカミソリのような軒先が低く連なる数寄屋造別館と東山の岩肌をそのまま生かした庭園が現れる。もともとは政治家清浦圭吾別邸だったところで、大正14年(1925)に八代目小川治兵衛、通称“白楊”が琵琶湖疏水を引き込んで作庭したものに、昭和34年(1959)村野藤吾がコの字型に配置した近代数寄屋の建物とあわせて、芝生に白砂敷の中庭をつなげる形でモダンにデザインしたもの。緑で表現されたのは瓢箪と杯であり、植治の庭の岩石から流れる疏水を酒に見立てていて、なかなかシャレている。村野は先人の遺産を生かし、そこに自分の創意で新しい魅力を産み出すことにも実に長けている建築家だと思う。数寄屋建築の銅屋根の緑青色の重なりが連続して流れる華麗さと各部屋の窓の縦格子に壁面のベージュ色の比の美しさは比類がない。色彩と形状比の両方において完璧な建築だ。庭は、芝生が成長した新緑の季節がひときわ美しいだろう。


 次は南禅寺ちかく琵琶湖疏水のすぐ脇にある、無鄰菴
 
 
 七代目植治の初期代表作。もとは山県有朋の別邸庭園で、明治27年(1894)から35年(1901)にかけて作庭されたとあり、まさしくニ十世紀初頭の日本庭園のさきがけにふさわしい。作庭にあたって施主から三つの注文を取り入れたそうで、一つ目は芝生の明るい空間を作ること、二つ目はそれまでの寺社の庭の脇役であった樅、檜、杉といった木々を生かすこと、三つ目は当時の明治近代化の象徴でもあった、琵琶湖疏水を引き入れること。この三つの課題を見事に調和させ、まち中の立地に周囲の自然を取り込み、開放的で明るい近代庭園として表現してみせたのがこの無鄰菴ということになる。じつは、はじめてこの庭園に接した時は、なんとも凡庸な借景庭園だとしか理解できていなかったが、いまじわじわとその時代背景と植治の想いが伝わってくる。やはり七代目もするどく時代精神を体現した人物なんだな。もうひとりの気になる昭和の作庭家重森三玲は、モダンな枯山水や石庭が特徴だけれど、ふたりの対比が時代の移り変わりを反映していて、とくに草木、自然観の違いが興味深い。
 このすぐ隣には懐石料理の老舗の瓢亭がある。入口に下がるハタノレンと玄関先の壁に吊るされた草鞋が南禅寺参道に面した茶店だったなごりを遺している。いつかの機会、こちらの朝粥定食を夏の早朝、陽が上る前のひんやりとした頃にいただいてみたい。


 旅の最後のしめくくりに、フィックションと実在、江戸ゆかりの歴史的人物銅像を並べて掲載しよう。

 まずは、旧東海道の終点である京都三条大橋西詰にたつ、「東海道中膝栗毛」の主人公弥次さん喜多さんの像。ずうと前からあったと思い込んでいたら、平成にはいってからの建立なんて意外!この作者、十返舎一九(1765-1831)の辞世の句が好きだ。
 「此の世をば どりやおいとまに せん香とともにつひには 灰左様なら」

 ※「YAMAKAN 2015.2 ヤジキタコーナー」より。この写真をみて実物像に対面したくなった。
 
  こちらは実在の相州小田原は栢山村出身の偉人、二宮尊徳こと金次郎像。京都の旅を振り返るにあたって、どうして小田原の偉人なのかっていうと、東海道の起点江戸日本橋から途中の程ヶ谷や相州小田原を経由して、辿り着いた終点が京都三条大橋の弥次喜多像であれば、勤勉な金次郎少年像に敬意を表し、神奈川を代表してもらうことで、最初と最後の帰結点がつながるだろうと思ったから。こうして並べてふたつを鑑賞してみるのも面白い、歴史はそして旅の思い出は様々な要素で振り返られるものなのです。



 JR小田原駅コンコース南口側に城郭を望んで建つ金次郎少年も平成の建立。

 (215.04.10初校、04.12改定追記)