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まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

臨済宗常福寺ライブ-死を想え  

2014年04月16日 | 音楽
 このあたり、まほろ周辺のソメイヨシノの季節は過ぎてしまったけれど、八重・ボタンなどほかの桜の花々の季節はまだつづく。すこし郊外に出てみれば、いまが盛りの相模川新磯地区の芝桜が見事だ。今月末くらいまでは大丈夫だと思うから、次の休日に散歩にいってみようっと。

 常福寺は、その芝桜の名所からもほど近い相模線相武台下から徒歩すこしのところ、大山丹沢の山並みを望む新戸集落の縁にある臨済宗建長寺派のよく手入れされた庭園のあるお寺。ここで毎年4月上旬の桜の季節にひらかれる恒例の講演会と演奏会「常福寺ライブ ‐be‐」を聴きに行ってきた。副題が“メメントモリ”、ラテン語でmemento mori「 死を想え」、30年くらい前にそのようなタイトルのアジア・インド放浪記が話題になったっけ。案内には「生も死も“生死”と一括りにして、話す人も、奏でる人も、桜の下でひとつ溶けあう。」とある。

 その言葉通り、本堂前の石庭には見事な染井吉野が大きく枝を拡げている。ライブ当日はその桜がちょうど満開で、会場の明け放れた本堂からは、額縁の絵画のようにサクラと孟宗竹が望める。4日午後1時過ぎに、すこしできすぎたかのように設えられた舞台で講演会が始まった。今年は(も)異色の顔ぶれで、山田圭輔(金沢大学がん哲学外来医師)、大友良英(音楽家)、今井道子(元医師、登山家)の順番でそれぞれ一時間づつ、生と死をめぐるテーマについての語りに耳を傾ける。
 山田氏は、大学病院麻酔医師で自身の職業上の経験を深く掘り下げての「いまを肯定して生きることと、やすらかに死ぬことの哲学」を丁寧な言葉で語る。大友氏は、「あまちゃん」のヒットでポピュラーになったが、知る人ぞ知る映画やドラマへの楽曲提供や自身の前衛音楽活動で大活躍の昨今、どんな話なのか注目していたが、なかなか人の気を逸らさない話上手ぶりには感心した。十代をすごした福島での、3.11震災直後からのアクティブな音楽活動を生き生きと語るその姿に魅了された。自身を“職人音楽家”と称する姿勢に同感、人を巻き込むことの上手なオーガナイザーという印象。
 今井さんは、医師というよりも登山家として余裕の語り口。人間が自然と共生すること尊重すること、人間がひろく自然に内包されいることの大事さの実感を語られていたと思う。ひとことでいうと、“くよくよするなよ!なるようになるさ”っていう感じで、山登りに関しても無理なく経験を積んで周到に準備を重ねていけば、山の頂がその人を呼んでくれる、って話されていた。う~ん、なるほど!

 夜の演奏会まで、石庭に面した書院で茶をいただきながら、枝垂れ桜の上方の下弦の月を愛でる。いい春の宵だ、裏庭の相模線のもっと先、相模川のむこうには丹沢の山塊が望める。
 

 18時、ふたたび本堂に戻って、八木美知依(21弦筝、17弦筝、歌)+ベース、ドラムストリオによる演奏会。この楽器による即興を主体とした演奏はずっと聴いてみたいと思っていた。八木さんは、沢井忠夫・一恵門下の古典をふまえた前衛的演奏に取り組んでいるのが興味深い。外国人にとっては、なおさらオリエンタルな印象に違いなく、北欧の中心にヨーロッパで受けるというのもわかる気がする。昨夏は、同じこの常福寺で、フランス国営放送の音楽ドキュメンタリー収録があったそうだ。きっと座禅とか声明に世界に通じるものがあるのだろう。前衛とされるものがじつは究極の原点=オリジンであることの好例。当夜は、やや場を意識したおとなしい?演奏だったが、コキリコ節に使われる木棒で弦を押さえた奏法など、その片鱗がうかがえた。オリジナル曲よりも、映画音楽“ローズマリーの赤ちゃん”やアンコールの“サクラサクラ”変奏曲のゆったりした深い弦の響きのほうが余韻と間が生きていて、よりしっくりきた感じがした。
 演奏会のあとは、本堂で予約したお弁当をたべての交流会。主宰の常福寺原住職も参加者の間を回られて語り合い、春の宵は過ぎて行った。