本家ヤースケ伝

年取ってから困ること、考えること、興味を惹かれること・・の総集編だろうか。

努力して、自立して下さい。

2006-07-18 10:40:27 | 
*自分の言葉を使って自分で考えるということ。
 これがなかなか出来ない。

(↑後註:この言い方って曖昧でしたかね。これはあくまで一般論であって私個人が、ということではなく、このページをご覧になっている皆さんも含めて、一般に「自分の言葉を使って自分で考えるということ」が出来ない、出来にくいのではないかと、私はナンの根拠もなく?断定しているのです。わかってる? ぁそ。)

 自分の言葉とは言っても、最初は他者なり本なりから影響を受けて自分の中に採り入れたものである。生まれた最初から言葉を持っていたのはお釈迦様くらいのものだ。
 尤も言語というものをもっと拡張して考えて遺伝子情報も小鳥の鳴き声も何もかも「言語」の範疇に入れてしまえば話は別だが、今日はそういうテーマではない。

 というわけで、私たちが日常「これは自分の言葉だ」と思い込んでいるものは大抵は単なる錯覚に過ぎない。

*「行き詰ったときは自分の原点に立ち返れ」などと若い頃よく言われた。
 今の若い人達がこんな言葉を使うのかどうか私は知らない。

 或る小さなサークルの集まりの席上、私より一級下の某女子大生がこんなことを言っていたのを今思い出す。

「原点というのは(その都度)再形成されるものだと思うのね」

 場所は新宿の「穂高」という純喫茶。今から36年位前のことだろうか。

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 *私の原点。そんなものあるだろうかと今思う。ないことはないがプライベートなことなのでここでは言えない。w
 では自分の行動の指標というか、自分が拠って立つ「原理・原則」のようなものはどうだろうか。

 「ベ平連」(←ヴェトナムに平和を!市民連合)の「殺すな!」という缶バッジが昔流行った。私はベ平連に所属したこともないし、彼らのデモに参加したこともないが、このバッジには一種憧憬の如きものを感じていたような気が今になってしている。「汝殺生するなかれ」である。
 しかしこの「殺すな!」にしても、最近の私は「死刑制度」(←即ち国法に基づく殺人行為である。)にも柔軟になっている(?)ことは先日のこのコラムでも触れた。

*では自分の「感覚」というか、「本物と偽者を瞬時に嗅ぎ分ける嗅覚」のようなものはどうか。
 これには図々しいようだが結構自信を持っている。
 その際私が使うリトマス試験紙のようなものが、一方は埴谷雄高であり、もう一方が吉本隆明であったりする。それも私が勝手に了解している両巨頭の原理原則に過ぎない。

努力して、自立して下さい。

 昔、尊敬する或る大先達からの手紙の末尾で、そのように叱咤激励されたことがある。「努力」とは埴谷さんの好きな言葉、「自立」と言えば吉本である。

 未だ努力も自立も為し得ていない私だが、この言葉だったら「バトン・タッチ!」で若い人達へリレー中継出来るように思う。

 もっち、これは自分の言葉なんかじゃないわけで、つまるところ若い人達がよく使う「自分の言葉」なんて実際にはUFOみたいなものかも知れないね。ぶひひ。



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