本家ヤースケ伝

年取ってから困ること、考えること、興味を惹かれること・・の総集編だろうか。

価値、転換、喩。

2005-02-04 09:07:56 | 
 吉本隆明の初期の意欲作に『言語にとって美とは何か』という文学論があってこれは文庫本にもなっている筈だから興味のある人もない人も一度くらいは手にとってみた方がいいと思う。

(結構難解な本だし、私も何十年も前に読んだだけなので以下は私の脳足りんな書評、解題です。)
 その中で彼が挑戦していることは、文学を物理学のように定量的に扱えないかという試みで、如何にも理工系出身の詩人が考えそうなことだ。
 言葉を(単語、文節、文章・・・etcの各段階で)《表出》と《指示表出》の要素に分ける。マルクスの資本論で言えば《価値》と《交換価値》みたいなもの、あるいは数学で言えばX軸とY軸みたいなもの、と考えて差し支えないと思う。この相似で作品には《文学体》と《話体》があるとする。
 
 その上で、言葉には絶対質量というか、個々に固有の重さというものがあってこれが価値である。
 次に転換が来る。これは目先を変える、というか、視座を移動したり、あるいは突如として一見無関係そうな対象へ視点を移したりすることである。
 これは例えば短歌なら各文節ごとに普通に行われているし、井上光晴もこの手法を駆使した作品群を書いた。今で言うと、ハリーポッターなんかも転換の連続で、個々の場面を見ると真新しいものはないのだが、それが却って見るものに一種安心感を与え、安堵の中で鑑賞出来る各場面の繋ぎ方に受け手は新鮮さを感じるという、なかなか巧妙なうまい仕掛けになっている。

 最後に喩。作品を鑑賞し終わった人が自らの内に描く潜像というか、イメージというか、要は感想を表明する以前にその人の頭に去来する何がしかを引き出す契機、その原像を作品は予め用意するだろうということ。暗喩、明喩の喩である。

 価値、転換、喩。約めて言えば文学はこれだけ、というわけである。(笑)
 これが何故おかしいかというと、埴谷さんの《薔薇、屈辱、自同律。つづめて言えば俺はこれだけ》をパクっているからです。

 ちなみに、隆明氏はかなり前から、現代の日本文学の《文学体》の代表は村上春樹で、《話体》の代表は村上龍だと指名して、この両村上に注目して行けばいいんだよと言っています。

 

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