本家ヤースケ伝

年取ってから困ること、考えること、興味を惹かれること・・の総集編だろうか。

ケイ・ミズモリ氏のポリシー。

2007-04-15 12:50:46 | 
 執筆ポリシーとお断り

私は十余年アメリカに滞在し、その間、新聞社で働く機会を持ったこともあり、情報発信という仕事について考えてきた。
マスコミ・出版界(以後、メディア)が不可避的に抱える問題として、まず、常に伝える情報を取捨選択することがある。
日々世界中であらゆる出来事がたくさん起こっているが、メディアはそのすべてを把握することは不可能であり、紙面の制限もある。
各メディアは、どの出来事を報道すべきか、重要性を独自に判断し、自分達が強く関心を持つ分野や、得意分野を精力的に取り上げる傾向もある。
また、たとえ、誰かが世紀の大発見や大発明を行ったとしても、その人物が誰にも語らず、情報提供を行わなければ、それが世に伝わることはない。逆に、メディアが取り上げてくれることを求め、積極的にプレス・リリースやマーケティング活動を行う組織・団体等、金銭的により大きな投資をした者が報われ易い(メディアで取り上げられる確率が高まる)傾向を利用しようとする人々も存在する。私も在米中、日本の政府機関から金銭のオファーを受けて、現地の新聞で記事として取り上げるよう頼まれ、拒んだ経験もある。日本では比較的少ないと思われるが、海外では取材人を厚くもてなし、メディア側は、バイアスの掛かった取捨選択を行うケースも起こり得る。
さらに、人々の注意を引くために、各メディアが競ってセンセーショナルな見出しや誇張した表現で報道を行いがちになるのも、資本主義経済において生き残るための弊害とも言えるだろう。

一方で、「事実報道」への固執にも問題点がある。例えば、ある人物が記者会見で発言した内容を、メディアがありのままに伝えれば、それ自体は「事実報道」である。しかし、もしその人物が事実に反する発言や虚偽の発言を行っていれば、「事実報道」に基づいて、メディアは誤った情報を広めることにもなる。その人物の発言をそのまま伝えたこと自体は「事実報道」であるが、そのまま報道したという面では、極めて消極的な報道とも言える。発言内容に虚偽が含まれていたことを見抜き、背後にある真実を探るような報道ができれば、現象面では「事実報道」に反した行き過ぎ報道だが、むしろ、その方がより「事実報道」に近いと言えるかもしれない。
しかし、このように背後の真実を見抜くためには、事実関係の確認など、各メディアはリスクを負った冒険をせねばならない。特に組織となれば、社の方針もあり、看板を背負った一記者が行動できる範囲も限られてくる。また、特定人物や団体にとって不利益な内容であれば、訴訟も覚悟せねばならない。
まだまだ様々な問題が存在するが、このようなことを考えただけでも、情報発信には常に危険がはらむ。

他方、「言論の自由」や「表現の自由」を声高に掲げるジャーナリストも居るが、これらの言葉を盾にした自由な報道も極めて危険であり、近年、メディアが凶悪犯罪の増加やモラルの低下を無自覚に連鎖的に助長させた可能性すら疑われる。政府のメディアへの介入が危険であると同時に、メディアによる報道を放置することも危険である。
例えば、外交問題に関わるセンシティブな問題解決のため、政府が水面下で交渉努力を行っていた際に、メディアが大々的に相手国に批判的な内容を報道してしまえば、交渉相手や相手国の国民感情を逆撫でし、交渉が決裂することも有り得る。最悪の場合、それを切っ掛けに戦争へ発展する可能性すら考えられるが、その責任の所在は、「言論・表現の自由」を尊重してメディアを野放しにした政府が問題なのか、「言論・表現の自由」を信じてきたメディアの側が問題とされるのか、メディアに登場した人々の発言が問題なのか、はたまたそのような社会を許した我々一人ひとりに責任があるのか、極めて判断が難しいと言えるだろう。
その傾向が現われている一例は、拉致問題で揺れる北朝鮮との関係であり、政府による対話に弊害をもたらしているばかりか、日本以外の国々へも対応を悩ませる結果を与えつつある。

インターネットの普及により、メディアだけでなく、個人による情報発信の影響力も高まっている。本来であれば、インターネット上で一個人が私人として自己の日記を書くことに問題は何もないはずで、そのような人々もメディア関係者ではないと思っている訳だが、いつ誰のブログやホームページが人気を得て、そこから発信された情報が広がっていくかは未知数で、確率の問題とも言える状況になってきた。
残念ながら、メディア関係者でないとしても、誰もが情報発信に絡む影響力を自覚せねばならない時代に入った。情報発信を職業としていない個人としては、そんな責任は負えないというのが本音であろうが、我々の社会は、我々一人ひとりが作り出しているものであり、否が応でも自己の発言・行動が周囲の人々に影響を与えている。現在、日本社会が抱える凶悪犯罪の増加やモラル低下等、その深層部では、一個人による無自覚な発言や行動の集積にも関係しており、それがメディアに反映している点で、メディア関係者だけの問題ではない。また、法制度を整えない政府だけの問題でもない。実は、我々一人ひとりの問題でもあるのだ。

前置きが長くなってしまったが、ここで、私の執筆ポリシーと私の記事を読む上で読者の方々に理解して頂きたいことを伝えておきたい。
これまで述べてきたように、情報発信には必然的に危険が伴う。かといって、人が生きていく上で、誰かとのコミュニケーション(情報発信を必ず含む)は不可欠であり、それを控えたり、悪の元凶とみなして排除しては、自殺行為にもなる。なぜなら、現時点で現実的な視点に立てば、情報発信無くして、今の社会を改善し、平和を獲得する術は無いと言っても良いからだ。
情報発信と言えば、双方向のコミュニケーションとは異なり、一方的な発信行為で、まったく別物と思われるかもしれないが、コミュニケーションは、常に片側からの情報発信からスタートして成立するものであり、媒体により、リアクションが目の前で得られない点はありながらも、根幹は基本的に同様と思われる。
私が重要視したいことは、読者同様にメディアとの関係である。情報発信によるコミュニケーションは、自分一人で完結するものではないからだ。複数の人々との協力と共存の中で初めて社会は成熟する。情報発信に伴い、様々な弊害は常に想定されるが、それらすべてを受け入れ、その中で組織に属さない自分が可能なことを一つずつ挑戦していきたい。

誰にでも分かるよう、具体的に話をしてみたい。
書籍や雑誌に寄稿する際、自分から情報発信を考えて、メディア側がそれを受け入れて記事にする場合もあれば、相手側から頼まれて書く場合もある。当然、紙面の問題もあり、字数が調整されたり、編集されたりする。締め切りの問題もあり、100%自分が最終原稿をチェックできない場合や、訂正が間に合わない場合もある。各メディアは生き残りを賭け、販売部数・利益を上げるために、タイトル・見出しをセンセーショナルなものにするなど、さまざまな努力を行う(例えば、「タイトルの最後に付ける「!?」や「?」は、断定ではなく、むしろそのような可能性は小さいかもしれない時に使用され、私はその使用に異論はない)。
私は様々な現実を理解した上で、基本的にメディア側(編集サイド)の努力を尊重している。
また、例えば、私が誰か研究家を紹介する記事を書いたとする。その場合、基本的に私は極力私見を排除し、良くも悪くも「事実報道」に基づいて、見聞きしたことをほぼそのまま報告する。そして、その記事に書かれたことをどのように受け止めるのかは読者に委ねる。個人的見解が入るとすれば、記事の流れを組み立てる影のプロセスと、どのように記事の内容を受け止めるのか読者に委ねる際に投げかける言葉であろうか。それが私の基本的なスタンスである。
私が記事を書いたことで、私個人がその記事の内容をそのまま信じ、共通の見解を持っていると誤解する読者も見られるため、その点は明確にしておきたい。
翻訳の仕事に関しても、私自身がその本の内容を100%信じていたり、その著者と同じ考えを持っているから行う訳ではない。様々な観点から、自分が興味深いと思った本を翻訳することが大半ではあるが、中身や著者とそのまま結び付ける読者も見られるので、敢えて断っておく。
さらに、医療分野など記事にする機会があるが、私は医師ではなく、お問い合わせ頂いても助言する資格を持っていない。記事によっては、10年以上前に書いたものもあり、今となっては詳細情報が分からないものも存在する。関心のある方は、基本的に自己責任で情報収集を行って頂きたい。
かつては暗黙の了解で、このようなことを断る必要が少ないように感じたが、時代は変わったようだ。誰もが情報発信者になると同時に、実質的に評論家にもなりつつある。先に触れたように、今はすべての人々が情報発信者と見なされる時代に突入した。一人ひとりの自覚次第で、発信された情報の持つ意味が変わるようにもなってきた。私は、フリーの文筆家として、情報発信に様々な障害が存在することを受け入れつつ、組織に所属していたら書けないような記事を、今後も投稿して行きたいと思っている。以上の点を念頭に、私の記事をお読み頂けたら幸いである。

2007年2月8日 ケイ・ミズモリ

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 以上、ケイ・ミズモリ氏の公式ウェブサイトからの引用終わり。

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