ウォーキングであちこち徘徊をしています、生家の裏の小学校の道をよく通るのですがそこから生家があったところが遠目に見えます。
知り合いや姉兄の話から生家があった場所は建売になっていると聞いていましたがそれを自分の目で確認するのが何故か嫌だったのです、でも最近ようやくその脇を勇気を出して通りました。
私が所帯を持ち生家を後にして暫くはまだいかにも商店街という風情がありました、生家の前の通りは古い街道でした、そこを歩いてみましたがものの見事に景観が変わっていました、変わらないのは生家の隣のタバコやたった一軒だけなのです、周りの家々の景観はまったく面影さえありません。
生家を含めた一帯は大地主である医院の所有だったので全て売ってしまったのでしょう、実兄も商売を止めてから立ち退きを迫られていました、ようやくその景観を横目に歩けるようになりました。
今日のウォーキングの帰りは旧中仙道を通ってきました、今のマンションはその端に立っています、この通りも昔とは違っています、しかし面影はまだ数多く残っています、とは言えその残っている家々の多くに人の住んでいる気配は微塵も感じられず、却って哀れを誘います、思わず鼻の奥がツーンとなってきます、これは生家だったところの前を通る時も必ず感じます、横暴と言ったら言いすぎでしょうか?そう言いたくなるほどの変わりようなのです。
しかしながら私が所帯を持ち新居を構えた場所もそれまでは畑地でした、ですから昔その辺りに住んでいた人が久し振りに戻ってみればやはり私と同じ思いをするのだろうなと思うのです、だから誰のせいということではなく仕方がないことなのだと頭では分かっているのですがやはり鼻の奥がツーンとし、ほんの少し涙目になるのです。
生まれ育った家が跡形も無くなって別の家が建ち見たこともない人がそこに住んでいる現実を見るのって結構辛いですね。
昔商店街で賑わっていた生家の通りが住宅地になった今、年末年始の喧騒が生家の辺りに蘇ることは2度とないでしょう、暮れは毎年くたくたになって働いて年が明けてみんなが華やいだ気分で通りを行き来していたのが夢の中から切り取ったように蘇ってきます、人は思い出だけで生きていけないのは分かっています、でも・・・只ただ懐かしい、歳を取ったなと感じました。